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痛みをどう受け入れるか

自分のネガティブな思いを書き殴って目にすると




こうゆう類の投稿は痛すぎて、他の人の同じような投稿も

チクチク痛くて目を伏せたくなる。

近付くのが怖い。なんか悪いものが憑りそう。

絵も音楽も痛みを感じるものに興味と警戒の相反する二つが働く。


幸せで、豊かで、笑っていて、穏やかで、安心していて

そんなのがいい。

私も本当はそれがいい。

そうゆうものを目指そうとしていた。

頑張らなくてもうまくいくような

愛されているような存在。

がむしゃらになんてならなくても

苦労しなくても、楽に、。


でもね、

こうして目の前に

自分の見たくない姿を晒して見てみると

なんで自分が自分のこと大事にしないのかに

サッと触れた気になる時があるんだよ。

なんで私ばっかりこんな目に、と

言ってはいけないんじゃなくて

言ってみたら、恨みたっぷりで

私はそんなものございません。と

良い人で、優しくて、力のないふりして

でも、よく自分を責めていたりするなら

それはパフォーマンスかもしれない。

自分は弱いっていう看板下げる為の。


自分を責める事ばかりするんだったら

いっその事こと

お前のせいでと、どこかの何かのせいにして

お前のせいでと、誰かや場所のせいにしてみるといいよ。



その存在がどんなものか

例えば神様とか運や縁とか

そうゆう見えない曖昧なもののせいにしてるかもしれない。

自分責めてることや

こんなにも傷つきやすいこと理由にして

見てないことがあるよ。

弱い自分は見てねってするのに。


本当は

憧れといえば聞こえがいいが、妬みに近いことが分かったり

本当は物凄く理不尽だから

仕返ししたいと思う自分がいたり

でも、小さくて弱くて、僻んでいて、拗ねているそれらを

悪いからと認めなかったり、無視していたよね。


所詮私はそうゆうものを持ってるんだと

認めたら

求めてた安心がそこにあったりする。



なんで自分が自分のこと大事にしないのかに

サッと触れた気になる時があるんだよって言うのは

幸せになんてなってやらない

そうゆう仕返し

してるのかもしれない。






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