「死」とは何か 「生」とは何か (2)はじまりの誕生

記事:「「死」とは何か 「生」とは何か (1)逃れられない苦痛」(2023.09.16に投稿)の中で
「死からマイナス・イメージを取り除く
生からプラス・イメージを取り除く
そうしなければ「死」とは何か、「生」とは何かを問うことができない」
このように申し上げました。
なぜかと言えば
「人は「生きる」ことを目的として作られているので、「生」に駆り立てられ、「死」を避けるように仕向けられる。そのために、生は過剰に美化され、死は極度に嫌われる」
そのような生死にかかわる厚塗りのイメージは、生や死の本当の姿を見つめるには邪魔になります。人間は、生や死を巡る伝説、神話、思い込み、そうしたものに惑わされやすくできています。

生と死を、徹底してニュートラルにとらえるなら、死は生が終わることでしかなく、生が始まる前の元の状態に戻るだけだとも言えます。
つまり、生と死を問うと言いながら、実のところ「生とは何か」を問うていると言えます。

そして「Aとは何か」を問う場合、私は必ずその起原を考えるところから始めます。
なぜなら、問うているAなるものが、問うべき対象として確実に成立していること、そのようなものがあると思い込んでいるだけのものではないということを確認しないと、問い自体が不毛なものとなってしまうからです。
およそありとあるものは、宇宙の歴史の中のどこかの時点に起原を持ちます。ですから、問うているAについても、宇宙の歴史のどこかの時点に起原があると考えることができます。
どのような時点で、どのような場所や位置で、どのような状況や事情で、どのような要素によって構成されたのか。そして、最初に構成されたときはどのような状態だったのか、その後に変容・変質・成熟などの経緯が行われたものなのかどうか、その結果現在、Aは問うべき対象として確実に成立していると言えるのかどうか。
こうした考察を経ることで、「Aとは何か」を問うための道筋が得られることになると考えています。

従って、「「死」とは何か 「生」とは何か」という本記事の主題は、まず「生の誕生」を問い、次にそれを足掛かりにして「生とは何か」を問うことだということになります。
ならば、それはつまり「生命の誕生」を問うことか、ということになりますが、そこには注意が必要です。
以前の記事「「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生」(2023.01.24に投稿)で述べたように、40億年ほど前に起こったとされるいわゆる「生命の誕生」は、実のところ「死なない」生命の誕生でした。それは「死ぬ」という仕組みを持たない「生命」でした。
一方、今回の記事で問うているのは、その「死なない生命」ではなく、「生きたのちに死ぬ私たちの生」の誕生です。つまり「死ぬ生」の誕生です。でも、これはすなわち「死」という仕組みの誕生でもあります。
これでは一体「生の誕生」なのか、「死の誕生」なのかって、なんだか話が行ったり来たりしているのではないかと感じられるかもしれません。
ここのあたりは入り組んでいますので、もう一度整理して申し上げます。
40億年前に生まれた「生命」は長らく死ぬことなく進化を続け、あるとき「死ぬ」という仕組みを持つ生物形態が誕生し、それによって「死ぬ生」というあり方が生まれました。
今回の記事の主題は、この「死ぬ生」の誕生がどのようなものであったのか、そしてそれを手掛かりに「生とは何か」を問うことです。

さて、この問いについては前述の記事「「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生」に述べた話が、私の考える一つの答えです。
それは下記のような内容です。
「多細胞生物の個体は、生殖細胞を首尾よく次世代へ伝えるための装置のようなものだ。その用務を果たした後は、個体は何度も使うよりもほどほどで用済みとして、新たな個体にリニューアルした方が、進化上有利だったと考えられる。そのために「死ぬ」という能力を備えた種が誕生し、生き残ったのであろう。その結果、すべての多細胞生物個体は死ぬことになった。」

「死ぬ生」の誕生は概ねこのような具合であっただろうと思います。
けれども、「死ぬ生」がその後たどった、たくましい展開や様相を考えると、「死ぬ生の誕生はただそれだけのことだ」と言ってしまうのはいささか素っ気なさすぎる気がします。
ことに「死ぬ生」自身である我々が「生とは何か」を考える道筋を求めるためには、「死ぬ生」自身にとっての誕生の意味合いに目を向ける必要があると思います。

「死なない生命」である生殖細胞にとっては、多細胞生物個体は用務装置に過ぎず、生殖細胞を首尾よく生かし続けるのに有用であるほどよく、その意味でより有用なものへと進化することが求められます。この限りでは、多細胞生物の進化は、「死なない生命」にとっての有用性がよりどころとなると考えられます。
しかしながらその後の生物進化は目を見張るものがあり、「死なない生命」の事情だけで説明するのでは不十分な気がします。
つまり「死ぬ生」側の事情があったのではないか、そしてその事情にこそ、「死ぬ生」にとっての誕生の意味があったのではないか、そのように思います。

このように言ってもいいかもしれません。
なぜ「死ぬ生」は生まれたのか。
その理由は、生殖細胞の側からの有用性だけではないのではないか。
生まれ出た「死ぬ生」自身の側に、生まれてくるだけの理由があったのではないか。
その理由の中にこそ、なぜ我々が生きるのか、なぜ我々が生まれて死ぬのか、生とは何か、という問いの答えがあるのではないか。
そのように思います。


この記事の中で、「なぜ死ぬ生は生まれたのか」、その理由を述べたいと考えていましたが、ここでいったん区切って、この先は次の記事に送りたいと思います。
次の記事はなるべく早く投稿したいと考えていますが、少々長い文章になります。

なお「はじまりの誕生」については、下記の記事をお読みいただけると幸いです。
「哲が句」を語る 「はじまり」について① 始まって終わるもの|ego-saito (note.com)
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito (note.com)


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