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御手洗潔の映画『星籠の海』に足りなかったパズルのピース~『十角館の殺人』実写化のタイミングに寄せて~

 推理小説の実写化についてあれこれ綴る、つづきです。

 前回はこちら。
 『十角館の殺人』実写化でもう止まらない!推理小説の映像化に湧き立つ(個人的な)期待と不安(5)|涼原永美 (note.com)

(以下、作家と俳優名は敬称略とさせていただきます)

 実写化されるなら、原作が好きでたまらないか、原作の良さを最大限生かせる職人タイプの方にお願いしたい。ファンとしてあくまで原作に沿ったものが観たいーー切実なお願いだ。

 そんなことを改めて思うのも、綾辻行人による傑作ミステリー『十角館の殺人』(講談社文庫/税別695円)実写化のニュースを聞いたからだ。そこで、どうしても今このタイミングで書いておきたいことがある。



(1)数年前、本格ミステリー史上に起こったもうひとつの一大トピックとは?

 
 『十角館の殺人』実写化は、本格ミステリー史上におけるひとつの事件だと思う。事件が大げさなら、大きな大きなトピックと言っていい。それは「映像化不可能」とされてきたトリックに注目が集まっているからだけでなく、この作品が1987年から始まった日本の新本格ムーブメントを牽引してきた傑作のひとつだからだ。


 特に本格ミステリーの成り立ちや歴史に少なからず興味を抱く人にとっては、特別な感慨があるだろう。――少なくとも私は浮き足立っている。ついにこの時がきたのか・・・と。

 けれど、思い返すと『十角館の殺人』実写化に匹敵する、日本の本格ミステリー史上における大きなトピックが、2015年から2016年にかけても、確かにあった。その時も思ったのだ。ついにこの時がきたのか・・・と。

 ピンとくる人もいるだろう。そう、それは島田荘司による御手洗潔シリーズ、初めての実写化だ。

 1981年に『占星術殺人事件』(講談社文庫/税別838円)で鮮烈なデビューを飾った島田荘司と、名探偵・御手洗潔(みたらいきよし)。『占星術~』という作品のインパクトに関してはまた別の機会に書くが、本作は1987年に刊行された綾辻行人『十角館~』とともに、新本格の金字塔として今なお燦然と輝いている。

 講談社とともに新本格ムーブメントを立ち上げた島田荘司が、綾辻行人のデビューを後押ししたという作家同士の繋がりもファンの間では有名だが、この2冊・・・いや2人の存在がなければ日本の本格ミステリー界は今どんな姿をしていただろうか。それはビートルズ不在のロック史を想像するようなものかもしれない。とにかくこの2冊、この2人は多くの本格ミステリーファンにとって至宝であり、道標であり、時折立ち返る故郷のような存在なのである。

 そんなわけで、『占星術~』では御手洗潔という名探偵が初登場し、その後数十冊が刊行されたのだが、ファンの間では長らく「御手洗潔は映像化されないだろう」というのが通説だった(作者が断っていたからだ)。ところが、2015年にフジテレビ系で2時間ドラマ化、2016年には映画化までされたのである。

 ――正直、びっくりした。ちなみに私は、ガッチガチの御手洗潔ファンである。

 これは今(2024年2月現在)でいう『十角館~』実写化に匹敵するくらい、ファンにとっては歓喜、驚愕のニュースだった。少なくとも私は、その日が近づくまで眠れないほどの興奮を味わった。テレビドラマのほうは再視聴のハードルが高いので今ここでは触れないが、問題は映画である。


 ――これが、う~ん、なんとも感想を言いにくい出来だったのだ・・・。


(2)「重要人物」がそっくり削除された映画版

 
 2016年に公開された映画『探偵ミタライの事件簿 星籠(せいろ)の海』(監督/和泉聖治)。原作は島田荘司『星籠の海』(講談社文庫/上・下巻/税別各880円)。

 キャスティングは概ねよかったと思うし、原作で起こった最もセンセーショナルな「居比家が巻き込まれた事件」や、戦国時代から伝わる謎の海軍兵器「星籠」に関する資料などは、忠実に再現しようという注力が伝わってきた。

 だがどう考えても、メインの謎である「星籠とは何か」という横軸の勢いが弱いし、何より致命的なのは、物語全体を構築する重要なパズルのピースがひとつ完全に削られていた点だ。

 具体的に言うと、原作で重要な役割を果たすある人物がいっさい登場しないのだ。

 ――いや、御手洗潔の相棒で、ワトソン役の石岡和己のことではない(テレビドラマでは堂本光一が好演していた)。石岡に関しては、劇中でちょいちょい名前が出たり、電話の声だけ登場している(それも逆にどうかと思うが・・・)。石岡の不在は無念ではあるが、今はそのことはおいておく。

 
 原作では、ある意味で石岡和己よりも重要なパズルのピースだった「忽那准一」が、映画ではそっくりそのまま「いない人」になっているのである。

 
 原作を読んでいた者として、これは大ショックだった。

 忽那准一とは誰なのか。
 なぜ、映画にいなくてはならない人物だったのか。

 

 ――私は今一度、この映画と原作の小説について考えてみたい。

 本格ミステリーファンとして、島田荘司と御手洗潔のファンとして、中途半端なまま引き出しに入れておけないテーマだからだ。

 私は悔しい。

 ※以下、原作と映画の内容に触れます。完全なネタバレなので、NGの方はご注意ください。




(3)織田信長の巨大鉄船を破った伝説の兵器「星籠」を追って

 
 まずは原作がどんな内容なのか考えてみたい。

 文庫本の裏表紙にある内容紹介などを参考に、ざっと繋げたのが以下のあらすじだ。

〈小説『星籠の海』あらすじ〉ーーーーーーーーーーーーー

 瀬戸内海の小島に死体が次々と流れ着く。奇怪な相談を受けた御手洗潔は相棒・石岡和己とともに現地へ赴き、瀬戸内海の特殊な潮の流れから、事件の鍵が古から栄えた港町・鞆(とも)にあることを見抜く。
 その鞆では、カルト教団死体遺棄事件不可解な乳児誘拐とその両親を襲う惨禍――と一見無関係な複数の事件が同時進行で発生。
 捜査をしながら御手洗は、ひょんなことから出会った福山市立大学の滝沢加奈子助教授と、瀬戸内海の村上水軍に伝わる兵器「星籠(せいろ)」の謎を追うことになるが・・・。
 御手洗は果たして、すべての事件が繋がる驚愕の真相とともに、黒幕の存在を暴くことができるのか。そして、かつて織田信長の巨大鉄船を沈めたとされる伝説の兵器「星籠」の存在は、最後に何をもたらすのかーー。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ・・・と、どんなに省略しようと頑張ってもこのくらいの分量にはなってしまう。そのくらい複雑な物語だ。まともに作ろうとしたら、3~4時間はかかるだろう。

 奇想天外な謎を、天才的な洞察力と膨大な知識で論理的に推理し、鮮やかに解決するのが御手洗シリーズの魅力だ。
 さらに大別すると、どちらかといえば短編は情緒的な要素を極力排除し、不可解な謎と推理の疾走感に重点をおいているのに対し、長編は舞台となる土地の歴史的・社会的背景を取り入れたダイナミックなストーリー展開が特徴だ。
 長編はエジプトのピラミッド、ハリウッド、ロマノフ王朝など舞台設定も多彩で、「もしかしたらこうだったかもしれない」という歴史のifを感じさせてくれるのもおもしろい(本作で言えば星籠がまさに歴史のifだ)。このロマンが御手洗シリーズ長編の、ほかに類を見ない面白さでもある。


 ーーさて、話を『星籠の海』に戻して、原作では重要人物でありながら、映画には登場しなかった「忽那准一」について触れるために、パズルのピースとなる登場人物をざっと挙げてみたい。


(4)石岡の不在は諦めても、映画で不在は困る「忽那准一」とは?

 
 さて、登場人物に関して、原作と映画では大きく異なるところに※印をつけると、以下のようになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【原作】

〈メインストーリー、捜査、探求に関わる人物〉
※御手洗潔と石岡和己・・・探偵と相棒の作家
・福山市立大学助教授 滝沢加奈子・・・御手洗と「星籠」の謎を追う
・福山署 黒田刑事・・・御手洗と鞆の浦で起こった複数の事件を捜査

〈事件の関係者〉
・居比修三、篤子夫妻とその子ども(乳児)・・・子どもは誘拐殺害され、夫婦は暴行を受ける
・辰巳洋子・・・居比家のベビーシッターで看護学生
※小坂井茂・・・辰巳洋子の恋人。喫茶店勤務

〈事件の黒幕・犯人〉
※ネルソン・パク・・・日東第一教会というカルト教団の尊師。救済を装いながら裏では信者から搾取を繰り返し、覚せい剤の製造、殺人も常習的。御手洗はパクの存在について「アメリカのテロ対策研究所のリストにも載っている」「現代の侵略」と話し、この事態を幕末の黒船来航に匹敵する「国難」と関係者に説明。海外逃亡される前に是が非でも逮捕しようと奮闘する


〈〝星籠〟のキーパーソン〉
・忽那鷹光・・・瀬戸内海で戦国時代に独自の海上王国を築いた「村上水軍」と並ぶ「忽那水軍」の末裔。貴重な資料を御手洗達に提示してくれる老人

※忽那准一・・・鷹光同様、忽那水軍一族の末裔。40歳前後。鞆の浦で小さな造船所「忽那造船」を経営。
※宇野智弘・・・忽那造船の近くに住む薄幸の少年。母親は事件に巻き込まれて死亡、自身もその後、大病におかされる。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【映画】

〈メインストーリー、捜査、探求に関わる人物〉
※御手洗潔と小川みゆき(玉木宏、広瀬アリス)・・・探偵と相棒の編集者
・福山市立大学助教授 滝沢加奈子・・・御手洗と「星籠」の謎を追う
・福山署 黒田刑事(小倉久寛)・・・御手洗と鞆の浦で起こった複数の事件を捜査

〈事件の関係者〉
・居比修三、篤子夫妻とその子ども(乳児)・・・子どもは誘拐殺害され、夫婦は暴行を受ける
・辰巳洋子(谷村美月)・・・居比家のベビーシッターで看護学生

※小坂井准一(要潤)・・・辰巳洋子の恋人。西京文化センター学芸員
(↑原作では茂だが、准一に変わっている)

〈事件の黒幕・犯人〉
※槙田邦彦(吉田栄作)・・・西京化学工業社長。アジア最大規模の水族館建設を計画しているが、裏では外国人労働者を酷使し危険ドラッグを密造するなど、悪事に手を染めている。

〈〝星籠〟のキーパーソン〉
・忽那鷹光(品川徹)・・・瀬戸内海で戦国時代に独自の海上王国を築いた「村上水軍」と並ぶ「忽那水軍」の末裔。貴重な資料を御手洗達に提示してくれる老人

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 ・・・と、こういう感じになる。

 原作ファンに絶大な人気を誇る石岡和己が登場せず、御手洗の相棒が編集者の小川みゆきになっていることはファンとして残念ではあるが、それはもしかしたら映画の完成度が高ければ個人的には諦められたかもしれない(演じた広瀬アリスが悪いわけではないし)。

 映画の出来に大いに影響を与えたのは〈〝星籠〟のキーパーソン〉の枠に入れた忽那准一の不在である。星籠の資料を御手洗達に提示する老人・忽那鷹光は映画でも登場するのに、准一は登場しないのだ。
 准一と交流する少年・智弘も映画には登場しないが、これも仕方がないのだろう。

 原作で悪役の存在「ネルソン・パク」がまったく違う人物に改変されていたことに関しては、ある程度理解できるので、また後で書くことにする。

 ――何はともあれ、映画で忽那准一が登場しないことには本当に驚いた。

 この人なしに一体どう話に収拾をつけるのだろうか


(5)「重要な水軍関係者」と「事件の参考人」が同一人物?

  
 結論から言うと、原作では忽那海軍の末裔である忽那准一が、クライマックスで星籠に乗って犯人逮捕に協力するのである。めちゃめちゃ格好いい場面だ。
 忽那は、一族に代々伝わる資料・図録からこっそり「星籠」を再現し、ある場所に隠しておいた。星籠の正体は戦国時代から伝わる手動の潜水艇だが、忽那はこれにエンジンをつけたものを製造。しかしそれは自分の趣味、興味の範疇であり、決して人前にさらすつもりのないものだった。

 ちなみにこの忽那准一、原作では「40歳前後の作業員風の男性」というくらいしか外見に関わる描写がないのだが、若くして造船所の社長を担い、海軍の精神を受け継ぐ海の男で、情に厚く正義感が強いことは小説の内容からうかがえる。俳優を起用するとしたら「こういう人かな」とイメージは湧きやすく、ちなみに私は勝手に高橋克典、高橋光臣、あるいは鈴木亮平あたりをイメージして読んでいた。

 ともあれ、この忽那准一は映画に登場しない。
 では映画で誰がその役割を果たすのかというと、これが序盤から何かいわくありげに登場する「小坂井」という男性なのである。

 
 この小坂井、原作では「小坂井茂」という名前だが、映画では「小坂井准一」となっている・・・おそらくは忽那准一と一体化させたのだろう。なんということだ。

 映画ではこの「小坂井准一」が、クライマックスで星籠に乗って瀬戸内海へ繰り出し、犯人逮捕に尽力するのである。

 ――だが原作を読んだ者としては、これはストーリー的に、心情的に無理があると思えてならない。


(6)2つの人格を1人に融合すれば辻褄が合わないのは当然

 
 原作未読で、映画だけを観たのなら疑問すら感じないのかもしれないが・・・なぜ2人の人物を1人に融合してしまったのだろう。

 原作ファンだって相当数いて、楽しみに映画を観るのだから、あまり大きな改変をしないでほしかった。

 これが両方とも脇役なら、役割が1人の人物に融合されても問題ないし、よくあることだとも思う。
 けれどまずこの小坂井は、原作でも映画でも交際相手の看護学生、辰巳洋子が起こした事件の悪意なき協力者になってしまう「居比家の事件のほうのキーパーソン」なのだ。見た目は線が細いイケメンで、原作では少々気の弱い、巻き込まれ型の青年といった印象。ちなみに原作での勤務先は喫茶店。演じているのは要潤で、原作とのイメージはぴったりだ。

 原作の後半では、小坂井は御手洗達によって犯罪の協力を自白させられるのが最終ターンであり、およそこの壮大な物語のクライマックスで犯人逮捕のための骨太な行動を起こす人物にはなり得ない

 ところが映画ではなぜか、序盤で西京文化センターの学芸員として登場し(職業が違うのは別にいいけど)、中盤では(原作同様に)辰巳洋子の彼氏として無自覚に犯罪に協力してしまう。――しまうのだが、後半では「じつは星籠の秘密を握っている人物」という立ち位置となり、ラストは星籠に乗って犯人逮捕に協力。さらには、映画での黒幕・槙田という人物と過去につながりがあり、2人の心の交流までもが話の中枢に入ってくるのだが・・・。

 ええ、これはちょっと・・・と観ていて戸惑った。 

 小坂井准一ひとりにいろんなシチュエーションを背負わせ過ぎである。
 もともと2人の人物を1人に融合しているのだから、無理が出るのは当然
だ。

 人物設定として心もとない。1人の人間の行動として矛盾を感じるし、これが長時間のドラマなら、時間をかけて「人間にはさまざまな側面がある」ことを描き最後は視聴者を納得させる手法もあるのだろうが、映画ではまったくそこに時間を割いていないので、やっぱり不自然だ。



(7)原作では書き込まれていた忽那准一の葛藤

 
 そもそも原作では忽那准一がこっそり星籠を製造していたものの、人前で走行することは「許されない」という自覚があった

 というのも、こういう場面があるからだ。

 後半で忽那造船を訪ねた御手洗が、ひょっこり出てきた星籠の模型と資料を前に、准一に対してこう話す。

「『星籠』にも、今エンジンをつけて走らせたら、きっと楽しいでしょうね」

 すると准一はこう答える。

「何故そういうことをおっしゃるのか解らないが、許されないことです。製造も、航行も、到底許可はおりませんよ」
(『星籠の海』下巻p515より)

 ーーじつはこのやりとり、映画でもあるにはある。
 父親の時代に倒産してしまった「小坂井造船」の建物に小坂井准一は今も住んでおり、そこを訪ねた御手洗達と星籠について話すシーンが中盤であるからだ。
 小坂井は「忽那水軍の末裔」ということになっており、代々伝わる文書と模型を持っていた(ちなみにこの模型も、原作ではラスト近くで登場し、御手洗や滝沢助教授、そして読者も驚くのだが、映画ではあっさりしたものである)。

 ――「許されないこと」とわかっているにも関わらず、原作のラストで忽那准一が星籠を出動させたのは、主に2つの理由が重なったからだ。

 ひとつは御手洗から、今起こっている事態は「幕末の黒船来航に匹敵する国難」と伝えられたこと。
 忽那准一は、自分には何もできないと暗に星籠の実在を否定したものの、少し考えた後

だが瀬戸内海なら、私は黙っていませんよ。この海では、誰にも勝手はさせない」と答えている(下巻p517)。


 これがキマっている。ある意味で忽那水軍の決めゼリフだ。

 ただ、これだけでは動機としてまだ弱い。忽那准一が動いた最大の理由は、気にかけていた智弘少年の病死だ。忽那はその数日前、智弘を病院から連れ出し、こっそり星籠に乗せて海底にある珊瑚の群生を見せていた。「星籠」の由来でもある美しい珊瑚。智弘が「すごくきれいだった」と喜んだ瀬戸内海を、准一は守りたかったのだ

 さらに付け加えるならもうひとつ。病気の発症前、智弘は(事件の黒幕である)カルト教団幹部の子ども達からいじめにあっていたのだが、仕返ししようと準備する彼を止めたのが准一だった。「人間には超えてはならない一線がある」と少年を諭し、大人になればわかると言い聞かせたのだが、少年は病死し、大人になることはなかった。やられたままで終わらせてしまった――という後悔の念が、最後は准一を後押ししたのだろう。

 原作ではここまでのドラマを丁寧に描いている。



(8)謎解きに心情的な納得度は不要? そんなことはない

 
 私が御手洗シリーズの、特に長編を読んで感動するのは、謎解きの超絶技巧だけでなく、登場人物のこうした心情を丁寧に綴っているところにある。

 謎解き主体の本格ミステリーでは、心情的な納得度はさほど重要ではない、と思う人もいるかもしれない。確かにそういう作品もある。けれど、物語全体の骨格がしっかりしていればするほど、謎解きの魅力も増してくる。すべてのバランスが整った作品が、名作として後世に残るのだ(例えばアガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』は、意外な犯人というだけでなく、犯罪に至った動機と人間関係のドラマ性、名探偵ポワロがラストで犯人に見せた心意気など、すべてが整い、名作たり得ている)。


 原作を読めば、忽那という人物のバックボーンや人間性がラストの行動に結びついたと腑に落ちる。

 ――もし映画でこうした部分を描いてくれていたなら、鑑賞後の満足度はどうだっただろう。

 忽那准一は、原作では物語を構成する重要なピースのひとつだ。
 たとえば映画化にあたって智弘少年とのエピソードを削るとしたら、ピースは小さくなるが、それはまだ仕方ない。彼の瀬戸内海への想いがある限り、物語全体の構図は変わらないだろう。

 また、御手洗と「星籠」の謎を追う滝沢加奈子助教授は、原作ではネルソン・パクの宗教団体の信者だった時期があり、じつは男性トラブルを抱えているのだが、映画では削られている。それもピースは小さくなったが全体の構図に影響はない。

 原作の小坂井茂(映画では小坂井准一)は、東京で役者を目指していた時期があり、当時の彼女との間に壮絶なエピソードがあるのだが、映画では削られている。それも、ピースは小さくなったが全体の構図に影響はない。

 ・・・とこのように、ピースは小さくしてもいいのだが、ピースそのものを抜くのはやめてほしかった。個人的には、小坂井茂と忽那准一の2人を1人にしたことは、決して成功したとは思えない。


(9)パズルのピースは小さくしてもいいが、1つでも抜くと絵が崩壊する危険が・・・


 原作は、「奇怪な謎」「鮮やかな推理」「登場人物の心情」をすべて完璧なパズルのピースとして配し、ひとつの壮大な絵画のように物語をつくりあげている。それができるのは、島田荘司が書き手として超絶技巧の持ち主だからだ。そこからパズルのピースを抜き、他者が別の要素を入れたうえで作り変えるのは極めて困難だと思う。時間が足りないなら1つひとつパズルのピースを小さくする方法のほうがいい。小さな絵にはなるが、絵としての完成度は損なわれない。

 船頭多くして・・・とはよく言うが、大勢が意見を出したものより、ひとりの人間が徹底的に「これは面白い」と思ったもののほうが面白い、ということはよくあると思う。

 原作の骨格を生かそうと思えば、忽那准一を入れても2時間で作りようがあったはずではないか。たとえば、要潤という華のある俳優に忽那准一のほうを演じてもらい、小坂井茂はほかの俳優でも十分話が成り立ったと思う。

 俳優をもうひとり投入して、ほぼ原作通りの話にするのは、それほど難しいことなのだろうか?

 素人がこんなことを言っても仕方がないのはわかるが、これが1人のファンの感想である。

 ちなみに、物語の完成度として比較するならば、同じく2016年に刊行されたコミック版『御手洗潔@星籠の海』(原作・島田荘司/漫画・赤名修/講談社/全2巻、各565円)のほうが、物語としてはずっと整理されている。
 これは星籠の謎がメインストーリーで、ラストも忽那准一が星籠に乗って登場する。絵も素晴らしい。「居比家の事件」が主軸とほぼ関わりのないものになっている点が本末転倒な気もするが、全2巻ではこれが限界かもしれない。


(10)原作の悪役を改変しても「国難」の印象付けはほしかった


 そして最後にもうひとつ。映画化でもうひとひねりほしかったのは、悪役の存在だ。

 原作は日東第一教会というカルト集団なので、そのまま使うのが難しいのは理解できる。だから改変は必要だろうが、もう少し「日本を脅かす存在」という設定を強調してほしかった。原作で御手洗はネルソン・パクの存在を「黒船来航に匹敵する、現代の国難」と話している。だからこそ「もし幕末に外国と戦争をしたら活躍するはずだった秘密兵器、星籠」の存在がクローズアップされるのだ。

 ーーこれは重要というか、物語の骨格だ。

 犯罪捜査で鞆を訪れていた御手洗が、ひょんなことから「星籠」の謎を追うことになり、国難を招き瀬戸内海を汚す存在だったネルソン・パクを星籠でやっつける・・・この爽快感。そもそもこうした構図を満喫する話なので、敵は国難を招く存在でないとパズルのピースがうまくハマらない。

 それに対して映画は、西京化学工業の社長である槙田邦彦という人物がすべての黒幕になっている。表向きはクリーンなイメージで、環境に配慮しながら巨大水族館などの都市開発を手掛けているが、裏で危険ドラッグの密造に手を染め、外国人労働者を劣悪な環境で働かせている・・・という設定。それがダメではないのだが、日本全体をおびやかしそうな描写はほぼ出てこず、特に「国難」「黒船」という雰囲気はない。

 おまけに、槙田は悲しい子ども時代を過ごし、小坂井准一とも過去につながりがあり、2人はクビナガリュウが好きだったという絆もあって、ラストも2人の友情によって解決されるような流れになる。・・・なんだかこれでは、観ていて槙田を憎み切れないし、国難でも黒船でもないから星籠が登場する意味もよくわからない。

 また、映画でも小坂井は辰巳洋子の起こした事件の「間接的な共犯者」であり、どちらかと言えば加害者側の立ち位置なのに、ラストでは格好いい感じになるので、観客としては彼にどんな感情を抱いたらいいかわからない

 槙田と小坂井准一の回想シーンを入れたり、外国人女性変死事件の捜査に時間を割くのなら、真打の忽那准一を登場させ、忽那水軍として瀬戸内海を守りたい気持ちを表現する時間はあったのではないだろうか。そのほうが水軍と星籠をテーマとした歴史ロマンとして腑に落ちるし、そもそもそういう話なのだ。


(11)時を超えた壮大な歴史ロマン、を強調してほしかった


 ともあれこの映画、原作未読の観客・視聴者は、御手洗という探偵のキャラクターもよくわからないまま、次々と事件が起きて、おまけに星籠の話も出てきて、それだけでも頭がキャリーオーバーになるだろう。

 例えば、シリーズ初期によく書かれていた御手洗潔の特徴がある。
「名前の漢字について問われるとものすごく嫌がる」「本質論の演説をどこでも突然始める」「弱者に優しく権力者に興味がない」「結婚するなら犬がいいと思っている」・・・といった茶目っ気を披露してくれるのなら、「天才だけど愛きょうもある」というキャラ付けで観ることもできたのだが、今回は完璧な天才という設定のようで、余白がなかった。

(そういう意味ではテレビドラマ版のほうが良かった。90分程度なら短編ベースのほうが作りやすそう、という前例にもなった。あれも突っ込みどころは満載だったが・・・)

 御手洗のキャラ付けが難しかったとしても、物語全体は「星籠の謎」を大きな横軸にしたほうが見やすかったと思う。「居比家の事件」は、インパクトはあるが物語全体としてはあくまで「百戦錬磨の黒幕がついに起こした決定的なミス」につながる要素としての事件なので、映画としてはほどほどの扱いでよかったのではないか。

 結果、「居比家の事件」をメインストーリーだと思っていた観客・視聴者は結局、「つまり星籠って?」「村上・忽那水軍って?」と消化不良のまま終わってしまったかもしれない。


(12)映画化ありきで書かれた原作と脚本の関係はわからないが・・・

 
 この原作、映画化ありきで書かれたものだということはファンの間では有名だ。だから、島田荘司の故郷である広島県福山市が舞台ということも最初から決まっていた。

 だから、もしかしたら原作と映画の脚本はある程度同時進行で書かれたのかもしれないし、そのへんの事情はちょっとわからない。
 島田荘司は、映画の出来に満足していると雑誌『ダ・ヴィンチ』2016年6月号のインタビューで語っているし、それならそれでいいとも思う。
 
 ただ、原作があまりにも素晴らしく、完成度が高い。だから悔しい。
 島田荘司のファンとして、御手洗潔のファンとして、やっぱり原作に沿った内容で映画化してほしかった。

  

(13)忽那海軍に見送られ、余韻に浸る原作ラスト

 
 原作は、事件を終えた御手洗と石岡が横浜へ帰る新幹線のシーンで終わる。 
 ホームで関係者らと別れ、新幹線が発車すると、石岡はとあるビルの屋上にじっと立ってこちらを見ている男の姿を発見。

「忽那准一さんじゃないか?」(中略)
「ああそうだ、忽那水軍だ」(中略)
「栄光の村上、忽那の水軍か・・・」
 万感を込めて、私は言った。彼らの末裔は、幕末の国難に、命を賭して立ち向かう覚悟でいた。歴史の大河にあっては、名前などない彼らのそんな心意気を、私は一人思った。今回の忽那もまた、それを見せてくれたのだ。

(島田荘司『星籠の海』p562より)

 
 素敵なシーンだ。
 数百年の時を超え、その精神を受け継ぐ忽那海軍に見送られて話は終わる。
 これを映画で観たかった・・・というのはぜいたくな願いだろうか。だって、とても映像的かつ、壮大な歴史ミステリーとして腑に落ちるラストシーンではないか。

  ――いつかまた、御手洗潔を映像で観られる日がくるだろうか。

  その時は、パズルのピースを抜かないでほしいと願っている。

 

  つづきます。

  次は、中山七里原作の映画『さよならドビュッシー』について書きます。
映画『さよならドビュッシー』が謎解きより〝心解き〟を選んだ理由~『十角館の殺人』実写化のタイミングに寄せて|涼原永美 (note.com)

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