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手織り真田紐のこと(四)日本唯一の継承者


西村家の真田紐に触れるうちに、機械織と手織りの違いがわかるようになってきました。
 単(ひとえ)織はシンプルな構造ですので、理屈は誰でもわかると思います。けれど、やはり実際には職人織りと素人織りの技術差は出ますね。
手織りですから全ては個性と言えるのですが。
 恐れ多くも私も織機に座らせていただきましたが、二織りほどしてあぁ難しい・・と思いました。これは残せないと、直後にそっと解きました。
その体験をさせていただいて、素人と職人の違いがどこに出るかも理解できるようになったと思います。
知識がある のと それが出来る との差は大きいですね。
そして、手織りの " 美しさ " を改めて感じています。

つなげられてきた職人の仕事
真田紐のルーツがどうであったか、そのあたりは歴史研究者にお任せしたいと思います。何処で発生したかは諸説あるようです。
 私の素人想像では布を織る技術があれば、" 紐 "を織ること自体は世界中で同時発生的に生まれても不思議ではないと考えています。
(理由として、折紙も日本で文化として " 発展 " はしましたが、" 発生 " したとは断定できていません。紙そのものが国外から来たものですし、記録が無いだけで、" 紙 " があれば自然発生的に折って遊ぶ人たちはいただろうと思うからです。)

同時に 織物 としては、やはり日本独自の発展をさせてきたのだろうと思います。
真田紐の織機はそれ専用のもので、反物や帯の織機とはまた異なります。
非常に細い織物ですし、糸の撚りの力とのバランスがあるようです。
西村家の織機は江戸時代には西村家で使用していたものを昭和に入って新調する際に大工がトレースして刻まれたものですから、江戸時代以前からそのかたちで織られていたと想像します。

現在操さんが使用している織機。
江戸時代の織機をトレースして大工が欅を刻んだもの。
70年以上経ち、かなり傷みが見受けられるが現機しかない。

単(ひとえ)織はともかく、真田紐で袋織や市松織に発展させるのは日本的だなぁと思います。
今や、その織り技術を国内で持つのはおそらく操さんと千鶴さんのみです。

上:単織 シンプルな織りこその手織り技術が窺える
下:袋織 二分巾(曲尺)縫い目が無く筒状に織り上げられたもの

 今頃はその稀少性から " 伝統工芸品 " とされていますが、真田紐は日用品的位置づけでした。伸びずにしっかりと結びが緩まないという特徴は箱紐や帯締めなどに人気ですが、甲冑・刀・行商の紐などの記録もあるようです。
幸さんが織られた緞帳の紐は400年前の文化財の復元でしたし、葵祭で使われる紐もありました。
一家に1丸常備しておくこともあったのでしょうか。
各地、数多くの手織り真田紐の職人さんたちがご活躍だったでしょう。
西村家も家業として、ただただその仕事を担いつづけられてきました。

宮内省調度品や茶道など柄や色・巾が指定れた絹織りの箱紐
中には正倉院に保管されているものも

 紆余曲折を経て幸さん1人になるまでに、処分されてきた事業資料も多分にあります。その歩みに興味があるところではありますが、明治までは明確な職業制度がありました。
家業は基本的に長男が繋いで行くという世襲文化があり、そうでなければ
次男や養子を迎えていたので、時代背景から考えると江戸時代に西村家が職人として在ったとすればそれ以前から繋がれてきたと想像します。
創業から何代目であるか、どれくらいの歴史があるかを如何に証明するかということ以上に、西村家が今日まで懸命に技術を繋いでこられたことが現在の事実であり何より価値のあることです。

幸さんが亡くなる直前まで使用されていた松の織機
織り途中のまま、そこだけ時間が止まった様
次に訪問したとき、時間を前に進めると決意した操さんが
続きを織り上げて紐が降ろされていた


お力添えいただけますと幸いです。