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【明月記】伝来図解 現存は藤原定家72歳清書版 80歳最晩年6年分日記消滅..一時おにぎり状態を救出 国宝修復に徳川家康の写本活躍

現存する藤原定家 自筆の日記「明月記」は全て定家が晩年に清書した72歳当時の字で、日々定家が書いていた日記は清書後に消滅し残っていない。清書作業は定家だけでなく右筆ゆうひつ(書写能力に長けたもの)を動員して行っているため、定家以外の筆跡も含まれているものが残る

現存する明月記原本とは… 
定家が日記を書いていた期間と現存する日記の期間との関係、定家72歳の出家時に編纂された後、どういった過程を経て伝わっているのか

昭和55年の冷泉家の調査開始時から調査に携わり、冷泉家時雨亭文庫の調査主任をされ、写本学第一人者の藤本孝一さん著【国宝「明月記」と藤原定家の世界(2016)】をもとに分かりやすく図表化してみた

※該当の著書は「冷泉家所蔵」の明月記について書かれ、明月記の本文ではなく明月記を文化財の観点で見た興味深い内容となっている


現存する明月記が現代まで伝わる過程


明月記(原本)国宝

明月記 国宝 藤原定家筆 冷泉家時雨亭文庫所蔵
日記25年分 巻物の状態で見ると圧巻
本来56年分あった日記 とんでもない量だとイメージがわく
そして、56年分の日記は全て
定家の関係者から届いた書状の裏面再利用だなんて…凄い
明月記 国宝 藤原定家筆 冷泉家時雨亭文庫所蔵
 元久二年春記
定家四十四歳の久二年(一二〇五)正月から三月までの記
撰者に加わった「新古今集」の撰集が大詰めを迎え、作業後の宴が繰り返されている。掲出の二月二十三日条には宴のメニューが細かく記されている。

冷泉家所蔵「明月記」が国宝になるまでの経緯


明月記(原本)重要文化財

明月記 重要文化財 藤原定家筆 東京国立博物館
  嘉禄元年(1225年)秋・同三年夏
ー特集展示「明月記」とその書ー 

東博説明)定家66歳 晩年に差し掛かっている頃 後鳥羽院が敗れた承久の乱から4年余りが経ち、 同時代を生きた人々の死に関する記事が目を引きます 


明月記(原本)断簡

明月記 断簡  藤原定家筆  東京国立博物館蔵
建曆元年七月二十五日

ー特集展示「明月記」とその書ー 
 1211年 定家50歳の年の日記
(東博説明) 定家は日記によく「窮屈」(疲れた)と書いているものの 疲労で寝込んだこの日も、情報収集は怠らず、 朝の人事の際や、後鳥羽院の御幸の予定を記す 本来は巻子に書かれた『明月記』であるものの、 鑑賞のためにこのように「記録切」と呼ばれる 断簡になった部分が多くある 

元々は一続きだった明月記が
このように切り取られた「断簡」になり各所に伝来



明月記(写本)慶長本 

明月記(写本)慶長本 国立公文書館所蔵
冷泉家所蔵の定家自筆本(清書本を含む)を、慶長19年(1614)に家康の命で五山の僧が書写したもの。建久3年(1192)から天福元年(1233)までの日々の記録が(散逸箇所が多く不完全ながら)記されている。全64冊。紅葉山文庫旧蔵。
▼徳川家康が命じて書写した明月記写本(慶長本)とは





藤原定家が日々書いていた日記の期間と現存する明月記の期間の関係とは?

大阪冬の陣の忙しい中で
明月記の写本作成を命じた徳川家康 素晴らしい!

家康が明月記の写本を作らなければ写本作成後に散逸した原本の日記の内容は後世に伝わらなかった。まさに書物散逸の危機感を感じていた家康の懸念どおりの事態。家康の感度の高さに感服

冷泉家所蔵 明月記 修復に家康の写本活躍
昭和に入り白アリの被害、そして昭和55年に破損の危機に瀕していた冷泉家所蔵の明月記を修復する際に家康の写本が活躍。欠損箇所の情報は家康の写本をもとに補填された。修復後、冷泉家所蔵の明月記は国宝に




日記に明月記と命名したのは定家ではない

明月記の命名の理由は確証が無い
日記は古来から本人が名前をつけるものではなく、定家自身は命名していない。以下をふまえると、おそらく鎌倉時代は明月記とは呼ばれておらず、南北朝時代か室町時代あたりに定家の日記の名文から「明月記」と誰かが呼び始めたものと思われる。いつ誰がつけたかは不明ではあるけれど、天体観測に余念がない定家らしくて最高

後世で命名された日記の例】
御堂関白記(藤原道長)
道長の建立した法成寺の「御堂」と実際には関白には就任していないが摂関政治を確立した比類ない人物として最高位の「関白」と言われたことによる

小右記(藤原実資)
小野流の右大臣なので、その頭文字を取ったもの


明月記が伝わってきた流れを知ることで分かった東博で見た明月記(重要文化財)のこと

東京国立博物館で展示していた明月記 
オンタイムの藤原定家筆跡
明月記原本の全体的な内容を知って改めて「特集展示 明月記」展示分の明月記を振り返ると、たまたま1233年定家72歳の年の日記部分で、その年は定家が明月記を一斉に清書作業した年でもある。つまり日記の時間軸と筆跡の年齢が一致している "唯一の年" のものだった。しかも紙背文書が剥がされていない状態のようにみえる

見に行った当時は本文に夢中で気づかなかったけれど、
右端の巻かれている部分は明らかに筆跡が違うので
定家が再利用した書状 紙背文書では?!



現存する明月記の所蔵先とは

大半は冷泉家にあり、その他各所に伝わる
所蔵先により、国宝、重要文化財、その他がある

歌人・藤原定家「明月記」、空白の6行発見(2016年)
 東大チーム:日本経済新聞

断簡発見のニュース。今後、巻物レベルでどーんとどこかの蔵から明月記が見つかったら最高


筆跡見比べたい
おそらく展覧会などで見る明月記原本は藤原定家本人の筆跡だと分かる部分が「藤原定家筆」と展示されている。実際は日記の個所によっては藤原定家の筆跡と右筆ゆうひつの担当部分の筆跡が混じっているので、色々な日記の部分を見比べてその違いなどを見られると楽しそう

右筆によっては定家の字を練習して真似て書いている者もいたようなので、その違いは分かりきれるものなのかどうか いかに?!



書物の形態をひもとく写本学

国宝「明月記」と藤原定家の世界 をとおして
明月記が書かれてから現在に伝わるまでの形態を知ると
展覧会で見る文化財の解像度(背景への想像力)がものすごく上がった

書物本文ではなく、書物の形態からひもとく「写本学」
蔵の調査で写本を見続ける中で、本文ではなく本そのものから歴史がひもとけないかと考え藤本孝一さんが「写本学」を提唱されたという

「本の内容からも作者の心情が読み取れるが
 どうやってその本を作ったのか、作者の心が形態からも分かる」
 という写本学 興味深い!

写本学とは
【文字・絵の記録装置である本の装置】を研究

●形態論(本の装訂による形態)
●写本自体の歴史

 ※写本学を提唱するまでは基本的に、
  研究者でも本文に興味はあるものの、
  書物そのものに興味を抱く人は少なかったよう



参考情報


◼️ 藤原定家の個性的な字からハマった書の楽しさ

徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン
フォントになった定家の字 独特の書風 定家様ていかよう

◼️調べて分かった藤原定家の日記が残るのは超奇跡

天皇の書物すら失われる中、この時代の本人が書いた日記原本が残るのは稀で奇跡。道長と定家の日記の違い、宮廷儀式に奮闘する定家と息子の為家が垣間見られる記録など

■藤原定家の子孫 冷泉家 公家邸宅として唯一現存

藤原定家の日記や冷泉家の書物が奇跡の伝来をしてきた経緯。書物も蔵も徳川家康・秀忠、天皇に守られ、書物散逸危機には蔵を天皇が封印するほど大事にされた。現代の家存続の危機には稲盛和夫さんにも寄付を受け守られていた 今では現在唯一の公家邸宅となっている


◼️藤原定家は平安時代の書物を残した人

百人一首の功績はほんの一部 日本の古典充実に大貢献
平安時代の書物の写本を多数作り、後世で現存最古となる写本を多数残していた定家。どんな写本を残しているか

■更級日記 藤原定家筆(国宝)現物の詳細説明聞いてきた

定家の字がなぜ独特なのか、その奥深い背景・意図
書物を後世に残すストイックな姿勢が垣間見られる定家の残したメモ
平安時代の書物や和歌を残すために必要だった出世意欲・人間くささ
展示されていた更級日記のページは平安時代の女の子が
源氏物語に胸キュンしているところ


■明月記の記録 藤原定家の父俊成 臨終の様子・美しい生き様

藤原定家が日記を詳細に残していたので分かる父俊成の臨終の様子
800年の時を思わせないほど臨場感あふれて画が浮かぶ


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