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自殺、という選択を主体的に選ぶこと

8歳の頃に幼馴染を亡くしたこと、10代から心臓病に罹ったこと、看護師として働いていたことで、『死』が身近にあった私は、死について考えることが多かった。最近は、看護師を離れて、死が遠のいていたが、偶然見つけたSNSのアカウントを見て、死に触れた。

その人は日本をバイクで周るライダーさん。日本全国をまわりながら撮影された自然は壮大で美しく、思わず見惚れて、私も行きたい!と引き込まれるアカウントだった。楽しそうな笑顔の写真もあった。
その人物は数日前に自殺して亡くなっていた。バイクで日本をまわり終えたその足で、人生を自ら終えていた。

自殺、最初は悲しい気持ちになった。もっと生きていれば楽しいことがあるのに、こんな経験と写真の腕があるならば、何だって出来るのに、もったいない。何で死んでしまったんだろう。
ふと、これは私の考え、死や自殺への捉え方だと気づく。死んではいけない、と思い込んでいる。自殺=いけないもの、と思い込んでジャッチしている。悲しい、と感じているのも、私の捉え方だ。本当にかわいそうなの?と問うと、実際のところはわからない。

私は、彼の苦しみも、痛みも知らない。自殺した理由も、どんな人物だったかも知らない。何も知らない。

もしかしたら、彼は楽しい人生を生き切った!と思って、思い残すことなく死んだのかもしれない。

長生きすることが美徳、という世間の見方がある。そして、私もそう見ている。でも実際は90歳まで生きた人が幸せかというとそうでもない。
小学生や10代で亡くなった人も見てきたけど、その人たちが不幸だったか、というとそうでもない。
長期間植物状態である人が不幸か、幼い頃から闘病している人が不幸か、というとそうでもない。

生きた期間も、どう生きたかも、客観的に見るのと主観的に見るのでは全然違う。人生をどう捉えているか、幸せかどうか、は当事者が決める。
他人がジャッチするものでもないし、それは私の捉え方や価値観でしかない。

死んだ、自殺した、という出来事に、自分はどう捉えるか、どう感じるか、それを知って自分を知る。思い込みを知る。思考の癖を知る。
実際のところは、死んだ、自殺した、という出来事の事実があるだけ。それに私が意味付けしただけ。


文部科学省の発表で、2020年度、自殺した児童や生徒は初めて400人を超え、過去最多となった。最も多かったのは「不明」で全体の半数を超え、他では家庭の不和や進路の問題、いじめ、うつ病などの精神障害、世の中に価値がないなどと悩むえん世などがあった。

最も多いのは、不明。私たちは、実際なぜ死を選んだのか、知ることができない。芸能人に対しても、自殺すれば、周りが原因を探る。本人にしか知りえないのに、あれこれ憶測で記事にする。
一方的に自殺に対して、「自殺はしてはいけない」「生きなければいけない」「助けなくてはいけない」、となる。それが余計に追い込むこともあるのではないか。自殺を悪としている世間の目ではないか。
自殺するほど辛い人を見殺しにする、ほっておく、という意味ではない。もちろん私は救える命は救いたい。不登校や子どもの自殺が増えているこの生きづらい世の中、少しでも生きやすくなるようなきっかけを与えられる人になりたい。

私の身近な人は自殺した人はいない。だから自殺する人も、自殺する周りの人もどう感じるのか、私には未知だけれど、自殺を自ら選ばざるを得ないのならば、そんな選択もあって良いのだろう、と日本をまわったライダーを見て思う。海外には安楽死が許可されている国もあるように、人生を終えると本人が決めたなら、それを尊重する選択もあって良いのだろう。

自分の人生を主体的に歩むことがありのままの自分を生きることならば、死という選択も、尊重されるものなのかもしれない、と亡くなったライダーを見て、ふと感じた。

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