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「いつもと違う自分で恥ずかしい思いをした」?【コラム#52】

と、先日話した方が言っていた。

普段あまり話さない専門家と話す機会があった。
少しツッコミを入れられた。
すると、虚勢というか強気というか
本心ではあまり思ってもいないことだけど
ついつい言ってしまった・・・
→後から恥ずかしいことをしたと思った

​というような内容だった。

誰にでも心当たりがあることだと思うし俺にもそういうことが何度かあったと思う。
​それで、その方がどう思っているかはまた話が別になるので置いておいて、俺が客観的事実としてこう言った。

😎普段そんなことを言う人ではない。でもそのときはそう言ってしまった。だとすれば、それは自分に問題があるんじゃなく明らかに相手に問題があるってことだと思います。
たとえば、もし、全然違う別の人に会った時に『なんだかわからないけど心が軽くてついうっかり普段考えないような本心や本当に望んでいることを言えました』というとき、それは
自分に問題(力)があるのではなく
相手がそんな感じの言いやすかった人

ってことですよね。

​この方がどうかではなく、あくまで一般的なケースとして言うと
​『人に問題がある時に自分の問題だと考えてしまう』
もうちょっとカンタンに言うと
『アイツが悪いのに自分のせいにしてしまう』
という間違いが起こることがある。それも結構よくある。

​原因のひとつは「自分で感じる悪感情」で、この件だと「自分で自分を恥ずかしいと思った」こと。
それは、「次からはそうならないようにしよう」とか「自分自身に思うところあるな」とかは思っていいと思う。
そう思うのは自然なことだと思う。

だけど、ただの客観的事実とか現象だけを考えるとこれはもう明らかに
自分に問題があるのではなく
相手に問題がある
そのためにこういうことが起こったということなんだけど

​それを

「人のせいにするな」とか
「とはいえ自分の選択だ」とか
【強制力のある便利な言葉】でまとめる人が結構多いことには常々ギモンを感じる。
(※「一見正しそうなので誰もがそうだよなと思ってしまう」悪魔法の言葉)

​もし自分に間違いがあるのだとしたら、普段は少し血迷った自分が出ないのに、そういう人と話をしようと「選んだ」ことに対してだけで、選ぶ基準をしっかり見直すことには考えることがあるかもしれない。

​そういう人の前で普段と違う自分が出てしまったことは
「そういうことは誰にでもある」ことだし
「それが自分の問題だと思える」ことだけど
ここに内的な間違いはない。

​もし、これが自分の間違いだというなら、気持ちよく話せる相手にいつも以上に素直に話せた時も「これは俺の才能・力だぜ!」ということになる。

​なんというか、自力と他力(の影響)との関係を誤認混同している人は専門家にも少なくない。
物事のしくみをちゃんとわかってるのか?と思うことはよくある。

​こんなことがなぜ起こるのかというと
「単発の物事だけ」を、しかも
「何か問題がある」という方向で見ていて
視野がめちゃくちゃ狭いし、悪感情イコール問題だと短絡的に決めつけている。​

・その人がどんな人で、普段どうなのか
・日常でどんな言葉の使い方をするのか
・いいときの様子はどうか
・悪いときはどうなってしまうのか

と『全体』を見たとき(視野広げたとき)にはじめて「その単発の物事はどういう位置付けで何が起こっているのか?」ということがわかる。
というか、それ以外のわかり方はない。

例えば「バカ、シネ」という誰かの発言を聞いたとして、
その人が普段どんな言葉を使い、良いとき・悪いときはどんな傾向があるのかを知ってからはじめて

 「この人がそこまで言うならよっぽどだ」とか
 「いつも通りクズだ」とか
「ちょっと自分の本心に向き合う必要ありますね」とか

いうことがわかる。

これを度外視し目先の物事だけを見て「それはこうだ」と上から目線丸出しなのは、頭が悪いというか、愚者の領域に首の上までどっぷり浸かっている。

​​

ということを(も)4月からの言語心理学でやるので来てね笑


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