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「あなたのために」という母の愛と呪い

なんだかすごく「不安」が出てきている。

ここのところ、調子が結構よくて、この先の将来のことに関しても前向きに捉えられるようになっていたし、目標もできて、そのために少しずつ動き出していた。

でも、突然、それが全部怖くなった。

突き詰めていくと、結局のところ、わたしは「オトナ」になるのがとても、とっても怖いんだ。なぜなのか分からないけれど。


「大人になる=成人年齢に達する」という定義で話をするのであれば、とっくの昔にわたしは大人になっている。でも、本当の意味での「オトナ」になることができているのか?と言われると、できていないよなって思う。

本当の意味での「オトナ」ってなんだ?
それは、自分の人生を自分の足でしっかりと歩いていくこと。
この社会の中を、ちゃんと仕事して、その仕事で自分や家族の生活を支えながら、精神的にも安定した状態で生きていけるようになること。

普通に大人になったら一人暮らしをして、自炊したり、仕事したり、遊んだり。それも全部、自分自身で稼いでやっていく。そんなことができる能力のことを、わたしは「オトナ」として認識しているんだと思う。

別に専業主婦が「オトナ」じゃないって意味じゃない。
いざ、必要に差し迫られたとき、それができるかどうかっていう、心持ちというか気持ちの話だ。


結局のところ、わたしは未だに親から自立できていないってことなんだと思う。

ヘリコプターペアレント。過保護。過干渉。毒親。
いろんな単語が頭に浮かぶ。

小さいときから、「あなたにはわたし、わたしにはあなたしかいない」「お互い以外に、頼れる人も、信頼できる人もいない」「だから手を取り合って協力しないといけない」といった言葉を投げかけられてきた。何度も、なんども。

今思うと、なんと重たい呪いの言葉なんだろう。

親の生きがいが子育てになってはいけないし、親は子どものために自分の身を犠牲にして生きてはいけない、とわたしが思っているのは、それが子どもにとっては重たい呪いとなることを知っているからだ。

「愛している我が子のために」と自分の人生を犠牲にして、好きなことややりたいことも後回しにして、自分のすべてを子どもに捧げ続けた親の末路は、

子どもが大人になって親離れをはじめたときに「わたしはすべてをあなたに捧げ、犠牲にしてきたのに、あなたはわたしにお返しをしてくれないの?あなたはわたしを捨てて、勝手に自分の人生を生きていくの?わたしはどうなるの?」という嫉妬心、裏切られたような感覚、そして「わたしの20数年間の時間と、お金と、人生を返してよ」という気持ちだ。

はじめは無条件の愛だったのかもしれないものが、いつの間にやら見返りを求める条件付きの愛となってしまう。子どもからしたら、「そんなことを言われても、あなたからなにかを奪おうとしていたわけでもなんでもない。わたしはただ、子どもらしく、子どもだっただけなのに」となる。そして、「後出しジャンケンで急に請求書を突きつけてくるくらいなら、最初の段階でそれを言っておいてくれればよかったのに」と恨めしく思う。

ずるい。
ずるい、ずるい、ずるい。

だって。
自己犠牲を選択したのは、あの人で。
自分よりも子どもを優先する選択をしたのも、あの人で。
こっちは子どもで。選択肢なんてなくて。与えてもらわなければ、守ってもらわなければ、生きてはいけない。「親は子ども愛するものだ」と思っている。だって、そう言われて続けてきたんだから。なのに、「与えてもらう」ことや「守ってもらう」ことのすべてに値札がついていたのかよ。
とんだ詐欺だ。


そして、わたしは未だにこの罪悪感と罪の意識と、時折チラつかせられる未払い請求書の山に、がんじがらめにされている。

自分の人生を生きたいと思う。
でも、同時に自分の人生を生きる能力が本当に自分にはあるのか、と疑ってしまう自分もいる。

怖い。

「あなたには一人暮らしなんて無理でしょ」
「留学なんて無理に決まってる。危なすぎる。あなたには無理」
「あなたが一人で子どもを育てるなんて、できないでしょ」
「結婚だって、うまくいかなかったじゃない。ダメだったじゃない」
「そこから救ってあげたのは、誰?わたしでしょ?」
「その後、あなたを支えたのは、誰?わたしでしょ?」
「わたしはあなたを信頼できない」
「あなたを見ていても、信頼できるな、自立できるなって、安心できない」
「だから、結局わたしがいつまでもあなたのことを守っていなくちゃいけない」
「わたしだって、もう自分の人生を生きたいのに。自由になりたいのに」
「わたしは、いつまでもあなたに縛られている」

請求書が、どんどん上から降ってくる。
山は、いつまでも大きくなっていく。


そんな関係性が、環境が、イヤだと口では言いながら、そこから抜け出そうと現実的に動き出そうとすると、足がすくんでしまう自分。湧き上がってくる途方もない不安。

パートナーと同棲や結婚をしたらどうだろう?なんて、とても純粋な愛の気持ちがベースにあると思っていた。でも、その裏には、こんな醜い気持ちが、恐れが、不安が、隠れていたのかと、愕然とした。

醜い、自分。
弱い、自分。
ずるい、自分。

「いやだいやだ」と言いながら、「逃げたい」「自由になりたい」「自立したい」と言いながら、でも今の環境から抜け出す勇気も持てない自分。

めちゃくちゃだ。
ぐちゃぐちゃだ。


共依存


それ以上でも、それ以下でもない。
ただただ、共依存関係にあるんだなと思う。
小さな頃からそうだった。そうじゃない環境を、わたしは知らない。だから、恐れる。

でも。
本当の意味で、自分の人生を生きていきたいのなら。
本当の意味で、「オトナ」になりたいのなら。

怖くても、不安でも、自信なんてなかったとしても、足がすくんでも、一歩ずつ前に進んでいくしかない。

霧の中を歩いている感じだ。

周囲は全部、霧に包まれている。なにも見えない。方向も、よく分からない。自分がどこを歩いているのかも、どこに向かっているのかも、自分のすぐ目の前になにがあるのかすら、分からない。

それでも。
足元は、なんとか見えてる。

前を見ても、周囲を見渡しても、なにも見えないのなら。
自分の足元を見つめて、にじり歩くようにしてでも、少しずつ、ほんの少しずつ、亀の歩みでいい。歩いていくしかない。進んでいくしかない。

あまり遠くまで見るな。
怖さも、不安も、不信感も、もっているままでいい。
そいつらを握りしめたままでいいから、進んでいけばいい。

そうしたら、自信ってやつはきっと後からついてくる。

怖くてたまらない。
不安でたまらない。

誰か、助けてよ!
ひとりにしないでよ!
怖いよ!
側にいてよ!

って叫び出したくなる。


でも、その「誰か」は、結局のところ、自分自身なんだ。
自分を救えるのは、導けるのは、守れるのは、助けられるのは、究極的にいうと、自分だけ。
周囲のすべてはサポートでしかない。

誰かが代わりにわたしの足を使って歩いてくれるわけじゃあない。
自分で歩かないといけない。
誰かに手を引いてもらっていたら、その手が離れてしまったとき、きっとまたこうして、わたしは迷子になってしまう。

だから、ちゃんと、自分の足で歩いていく。
それが、大事なこと。


久しぶりのnote。
たくさんのことがあったこの1週間弱。

やっぱり、書くことは、わたしにとってはセラピーだな。
ちゃんと、書き続けていこう。
改めて、そう、思った。

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