見出し画像

モルグ街の殺人 / マリー・ロジェの謎 / Edgar Allan Poe

推理の明晰さにかけてはアッパレとしか言いようがない。見事も見事、とても鮮やかである。ただ、ここで使っている思考法自体はそれほど奇異なものではない。(まァやれと言われても私はデュパン君のようにはできないが...。)なぜなら、我らがデュパン君が言っているのは、「事実を見よ」ということだからである。

経験的な知見からある程度の法則性を知っていることで、私たちは物事を適当に知覚可能なパーツに解きほぐし、何か出発点・取っ掛かりを見つけることで、そこから物事を推理・推測する術を持っている。これらを言い換えると、認識はベクトル的で、事実は座標的だといえるだろう。

この短編でポーが描いたのはこの現実世界の事象・現象・事実と呼ばれるものの座標的性格と、人間の知覚・思考のベクトル的性格の差異の戯れではないだろうか。座標平面の中に点在する事実をベクトル的に辿ってゆき、出来事の全体像を組み上げる。その時、数学と同様に、確固たる事実だけを使って組み立ててゆく。分かりにくければ数独を思い浮かべてもらっても良い。あれは確実に正しいと判明した数字だけをマスに入れてゆくことで全体の解を作り上げる。この時、皆さんも御存知のように、変に感やら推測やらを用いると、てんで答えにたどり着けない。これと同じことをデュパン君はやって見せてくれているのである。

当時、ポーが生きた19世紀、産業革命直後の世界では、この事実の性格と認識の性格の差異は、新鮮である種奇妙なむず痒い感じがするものだったのではないだろうか。ある現象、自分が今まで理解もできず、自分でその現象を発生させることもできなかった現象が、上の思考法を用いると自分で理解し発生させられるようになる。このプロセスが生む興奮と興味深さが作品のインスピレーション、もしくは背景にはあったんじゃないだろうか。(これこそ、数学的な事実の積み重ねではない推測以外の何物でもないのだが...。)産業革命の頃の発明品は比較的目で見て理解しやすいと思われる。歯車やその他木や金属を用いた仕掛けで構成されていて、それぞれの機能を目で追ってゆくと、自ずと全体の仕組みも理解できる。このため、前述の面白みもより刺激されたんじゃないかと思う。今では工業製品をこじり開けても、出てくるものは何がなんだか意味不明の半導体とかいう板だけなのが残念だが...。かつて、機関車が発明された頃は、「蒸気機関で少しでも余計な音がしたり、何かが駆動機構の中で歌いだした時には、運転室から降りるまでもなく爪の先で感じ取って、苦しみに全身でぶるぶる震えた」時代もあったそうな。高校生のスマホが皆どこか割れていることが、現代のその感覚の甚だしい劣化を象徴していると言えよう。懐かしきかな、チェヴェングール!

と、話がそれてしまったが、この上で述べた感覚、事実と知覚の間の生む感覚は、今でも人々の間で生き残っているように思われる。小学生くらいの子供がちょっと仕掛けを見て驚嘆するあれである。どうも私にはコンピュータの画面上で理屈だけでカタカタやる楽しさがわからない。半導体に囲まれた毎日でも、ホモ•ファーベルたるもの、あの感覚は忘れずに持っていたいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?