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明智の本貫。岐阜県恵那市。グーグルマップをゆく㊴

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、岐阜県恵那市。

 恵那市には明智町というところがあり、明智氏の本貫であるらしい。明智氏は、源頼義に仕えた藤原景道が加賀守の一つ下の役職である加賀介になったことから「加藤」を名乗った。

 そのひ孫で源頼朝の重臣であった加藤景廉が美濃国の遠山荘を拝領したことにより、遠山を名乗り、そのまた孫となる遠山景重が明知城を築城し、これを拠点としたことから明知遠山を名乗ったことがルーツである。

 明智という名前は、「悪地」(あくち)から来たものとも言われているが、愛知県内には「みょうち」「めいち」と呼ぶ地名もあり、音よりも字があてられていたことも考えられ、どちらが先だったかはわからない。

 ここから戦国期、明智光秀という武将が出た。明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流だと言われている。しかし、前述の通り、恵那市の明智町は土岐氏とは関係がなく、光秀の出自についてはよくわからない。

 ひょっとしたら、光秀よりも前の祖父あたりが、明智氏の足軽か何かで、勝手に明智を名乗っただけかもしれない。

 ただ、光秀には教養があった。お茶や和歌などに長け、特に和歌などは名人の域であった。当時の和歌会では、源氏物語などの古典文学から引用をして読まれることもあり、古典文学を知っていなければ恥をかくことにもなった。

 また、和歌会で情報交換されるなど、いわゆる社交の場であり、こういった場所での立ち居振る舞いがスマートであった。

 織田信長は、そういった点を高く買っていた。知的で命令も卒なくこなす。しかし、光秀はそれだけの人であり、政治感覚が鋭い人間ではなかった。

 あくまで筆者の個人的な感想であるが、明智光秀にはあまり人間的な魅力を感じないのはなぜだろうか。

 それなりに名を馳せた武将である。当然会ったこともないので、実際には分かり得ないが、どうも自分勝手な正義感が強すぎるイメージである。

 知的で仕事もできるのに、なぜか鼻につく。そういう人は今でもいる。どうもそういう人だったのではないかという感じがして、何とも釈然としないのである。

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