震災クロニクル9/1~9/30(51)

猛暑は9月になっても変わることなく、相変わらずジリジリと僕らを照らし続けた。それはエアコンの室外機と放射性物質の飛散の問題を考えられなくするには十分の酷暑であった。何も考えることなく、エアコンの前に陣取り、アパートの中で、僕は洗濯物の室内干しをしている。
外は危険であることは分かっていた。テレビでは何も言わなくなっていったが、ホールボディ検査や線量計、ガラスバッジの携帯など、放射線関連の現状は刻一刻と変化していったのである。

10月に20キロ以上30キロ以内の学校が再開する……

今まで30キロ圏外の学校に仮設校舎を建てたり、間借りしたりしていた数校が本校舎での授業を再開することになった。

そう校庭には何十ものトンバッグが埋まったままで……。

何かがおかしい。とても急いでいるように見える……。
翌日の新聞の見出しには

「本校舎での学校再開」

デカデカとゴシック体の文字が並んだ。
まるで復興が完了したかのような印象……。
これをねらったのか?

「もうなんでもないですよ。」
「もう大丈夫なんですよ。」

そんな言葉を植え付けたいのだろう。

市長でなくても知っている。僕らも心のどこかでは分かっているんだ。あの震災のとき、放射能の情報のため、物資がまるで入ってこなかった事実を。

支援物資を待っていたあの夜を自分も忘れていない。あの無愛想なトレーラーのドライバー。日に日に少なくなっていった食事。

ガソリン不足
食料不足
何もかもが尽きていった。

そして何より……情報不足だった。

漠然とした不安が恐怖を生んだ。目に見えない恐怖が福島を「フクシマ」に変えたのだ。

いかに周りへの印象が重要か、痛いくらい分かっていた。ただ、これはどうなのだろう。実際に放射線量は高いにもかかわらず、急ぎ足での除染作業とその告知。あまりにも時期尚早のような気がしてならない。

ただでさえ、外出するときはマスクをすることが推奨されている地域で、学校を戻すということは大きいリスクにならないだろうか。いや、きっとこれは禍根になる行為であろう。後々の事を考えればもう少し地表面を削らないとダメだ。

いや、もう放射性物質が飛散してから幾度もの雨が降った。深くまで染み込んでいっただろう。

関係者の中には逆にアスファルトで上から固めた方が早いという人まで現れていた。

いずれにせよ、放射線量がまだ高いままで、マスクなしには生活できないこの街に学校を戻すべきではない。

みんな本音ではわかっているんだろう。

テレビでは「放射性物質を恐れて考えすぎてしまうことの方がよっぽど身体に悪い」なんて、コメンテーターが言うものだから、一層疑念が高まった。何かを隠そうとしていることは誰の目にも明らかである。


とある中学校の校長室で市の教育委員と校長の打ち合わせが行われた時のことである。

玄関で女子中学生数人と教育委員の老人が挨拶を交わした。

「放射能のことなんて考えないでね。元気に遊んでた方がいいよ」

一人の老婆がそう笑顔で声をかけた。幾重にも嘘が重ねられていて、もう声がでなかった。この話を聞いて怒りすら感じた。その教育委員の孫は他県に避難している。本当に罪深いことだ。

本当のことはみんな知っている。
でも、それを他人には教えようとは思わない。巷に流れている耳障りのよい言葉だけが町中を飛び回っている。


まさに流言蜚語。

もうこの街はまともな大人さえいないのかもしれない。いや、何をもってまともというのだろう。本当は自分もそうなっているのかもしれない。あの老婆の言葉。

メッキで塗られたキラキラ。
ギラギラとした欲深の剥き出しに僕らは目を凝らして、ただただ見ているしかなかった。

東京電力の社長が今日もカメラの前で何かを話している。

何もかも空虚だった。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》