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犯罪は、叫び声だ。救いを求める声が届かなかった人たちの、最後の悲痛な叫び声だ。

なにより先に、言っておきたい。
ぼくは、犯罪を擁護するつもりは一切ない。

一番に傷ついているのは、間違いなく犯罪に巻き込まれた被害者の方々だ。
その方々のケア、救済が一番に優先されるべきだと思っている。

また、犯罪者の刑罰を軽くすべきだとも全く思っていない。
むしろ罪によっては、刑罰が軽すぎるのではと思うことすらある。
自らが犯した罪を受け止め、繰り返し反省し、更生し、その罪を背負い償いながら生きていくために。刑罰は必ず必要だと思っている。

ぼくがいまから語るのは、
犯罪者が、自分とは全くの他人で、自分とは全くの関係のない、絶対的な悪人だと決めつける。
そうやって、自らを正義の正しい人間と勘違いし、娯楽的に全力で石投げをする人の、腹が立つほど多い現代への疑問提起だ。

犯罪は叫び声だ。救いを求める声が届かなかった人たちの、最後の悲痛な叫び声だ。
誰の叫び声か。被害者か?
いや、違う。加害者の、犯罪者の叫び声だ。

悲惨な事件を目にすることが多い。
高齢者による自動車事故、子どもへの虐待、京アニ放火などのいわゆる無敵の人による犯罪、などなど。

これらの悲惨な事件、犯罪。
その罪は誰のものなのか。決して、加害者だけの罪ではない。そう断言したい。

社会のなかの歪み(ひずみ)や澱み(よどみ)が溜まって溜まって、それがひとりの人間ばかりに蓄積してしまった時に、その人はそれを抱えきれなくなり、犯罪という形となって爆発してしまう。

それが犯罪だ。犯罪はその全てが個人によるものじゃない。
そこには個人の罪だけではなく、社会の失敗、社会の罪も含まれている。

一時の快楽に流された飲酒運転や婦女暴行のような犯罪であっても、それが全て、完全に個人の罪かと言われれば、そうとは言い切れないだろう。
それを防ぎきれなかった、社会の罪もそこに含まれるはずだ。

生まれながらにしての悪人はいない。
ヒトラーは、生まれながらにしてヒトラーか?
いや、当時の社会が、彼の生まれ育った環境がヒトラーをつくりあげた。

だのに、罪を犯罪者ひとりのものと勘違いして、正義ヅラしやがる。
自らの罪を自覚することなく、正義を武器にして、犯罪者をいたぶり殺す。
そういった頭の悪いやつが、ぼくは一番きらいだ。

ぼくたちはもっと、ひとりひとりが犯罪や罪に対しての当事者意識を持たなくちゃいけない。
犯罪の加害者というのは、決して、対岸の火事ではないのだ。
犯罪の種は、そこかしこに存在している。

人間は誰しもが、自分のなかに少しは悪意や邪気を孕んでいる。
みんなも持っているだろう?
理由もなく虫を殺したり、他人に嫌がらせや悪戯をしかけたり、意図せず心無い言葉を投げかけてしまったりする、アレだ。
もし持っていないと断言するのであれば、完全に自己理解が足りてない。反省すべきだ。

それらの悪意や邪気はあって然るべきだ。それ自体は問題ない。
それらの存在をしっかりと把握して、上手く扱って、流していける分には問題ないんだ。

だが、そうやって流れてきた悪意や邪気を、どうしても上手く流せない、不器用な人間だって世の中には存在する。
また、社会の仕組みや流れのなかで、どうしても悪意や邪気が溜まりがちになる場所があったりもする。その場所にたまたま巻き込まれてしまうことだってあるんだ。
そうやって、みんなのなかにある悪意や邪気が、特定のひとりに溜まってしまうことで犯罪は起きる。

彼らだって罪を犯したくて犯すんじゃない。
罪を犯してしまう前に、不器用ながらも、どこかで救いを求めているはずだ。
分かりやすく「助けて」と声をだすこともあれば、小さな非行に走ったりするのも、救いを求める行為のひとつだろう。
ぼくたちは、その救いを求める声に反応できているだろうか。自戒も含めてだ。

他者に対して、ひどく無関心な世の中になった。
自己責任、みんな大変なんだという言葉で片付けられて、人の苦しみにより添えない時代になった。
ぼくも、それができているとも思えない。自分の課題でもある。

たまたま、たまたま今の自分に、悪意や邪気が溜まっていないだけで、立場や環境が少し変わってしまえばわからない。
悪意や邪気の溜まる場所に引きづり込まれて、その苦しみに晒され、耐えられなくなって罪を犯してしまうことだってあるかもしれないのだ。
ふと気づけば、自分が犯罪者になってしまうことだってありえるんだ。

だから、犯罪者に優しくなれ。というわけじゃない。
罪は、罪として罰せられるべきだ。
だが、犯罪者を自分と全く関係ないものとして扱い、正義ヅラして吊るし上げるのはやめるべきだと言っている。
正義なんてのは、もはや誰かを傷つけるための言い訳でしかない。
その行為からは、なんの、なんの進歩もうまれない。

その代わりに。だ。
その犯罪者を通して、ぼくらはもっと社会の罪や自分の罪を省みるべきだ。
そして、そこに解決すべき、社会の課題を見つけ出す努力をするんだ。
それが、犯罪に対する最もポジティブな向き合い方じゃないだろうか。

犯罪が、個人の罪だけでなく、社会の罪でもあるならば。
その対策もまた、個人ではなく、社会としてできることだってあるはずだ。
そうやって向き合っていけば、次の進歩につながるだろう。より良い未来のためになるだろう。

具体例をあげてみよう。
高齢者による交通事故。
悪いのは老人か?なぜ今になって増えてきている?
いろんな想像ができる。

かつての社会では、家族が一緒に暮らしていたから、高齢になってまで自分で運転する必要がなかったんじゃないだろうか。
それが今は、核家族化、共働き、子が親の面倒を見られないといった事態が重なって、90歳を超えてまで運転せざるをえない状況があったんじゃないだろうか。
そしてそこに、一瞬の不注意、判断の遅れ、様々な要因がさらに重なって、事故になったんじゃないだろうか。

じゃあ、どう対策をすればいい。
果たして、運転免許更新の講習は適切なものだったのだろうか?
家族が一緒に暮らして、高齢になった親の面倒をみることはできないのだろうか?
それが無理なら、高齢者が運転をせずとも、暮らしていく仕組みはつくれないだろうか?
ぼくたちが、これからのためにできることはなんだろうか?
実際、高齢者の運転に関しては、国も企業も動き出している。

子どもへの虐待だってそうだ。
悪いのは親だけなのか?
親だけに過大な負荷がかかっていたんじゃないか?ストレスの行き先を、子ども以外に向けることはできなかったのか?

子育てが、母親だけ、もしくは両親だけのものになってしまってないだろうか。
かつては、祖父母や近所の付き合い、時には厳しく叱りつけてくれるカミナリオヤジのような存在までもいて、社会で子育てがなされていたんじゃないのだろうか。

最近の若い親が未熟で子どもなだけなのか?本気でそう思っているのか。
少子化が社会の問題と言っておきながら、子育ては親の責任にするのか。
ぼくたちにできることはなんなのか、社会の仕組みとして、子も親も手助けをすることはできないのだろうか?

社会に潜む問題が、犯罪という形で顕在化した時に、ぼくたちはどうしてもその当事者ばかりに目がいって、当事者ばかりに責任を求めてしまう。
だが、なんども言っているように、その罪は個人だけのものではなく、社会の罪でもあるはずだ。

犯罪も、犯罪者も、罪も。
すべて他人の話、対岸の火事じゃないんだ。
あなたにも、ぼくにも、すべての人に関係していることで、少しの悪意、邪気、罪は、誰しもが抱えているものなんだ。
それを無自覚でいる人が、とても多いような気がしてならない。

犯罪や罪を個人のものとせず、社会の罪として捉え、社会で対策を講じていく。
そうやって次に進んでいくことが、ぼくたちにできる、より良い未来のための唯一の取り組みではないだろうかと、ぼくは思っている。

すっかり忘れていたが、そういえばぼくも犯罪の被害者になったことがあった。

バイクで海沿いの道を走っていて、高齢者の運転する車に真正面から衝突されたことがある。
対向車線を走っていた車がいきなり目の前で曲がってきたのだ。あ、死んだなと思って急ブレーキをしたが、止まりきれず、車のボンネットに衝突して止まった。
バイク全損、利き腕の右腕がポッキリと骨折。その他、数カ所に擦過傷。お互いにブレーキを踏んでの衝突だったので、どうにか骨折だけで済んだ。
とはいえ手術もしたし、2ヶ月ほどは利き腕が使えなかった。
相手が無保険で、慰謝料も支払わないから裁判にまでなったし、なんとも後味の悪い事件だった。
裁判の資料が届いて、相手が飲酒運転だったと知ったときには思わず笑ってしまったよ。

まぁいいんだけどさ。死ななかったから。

そう、そうだよ。せっかく生きてるんだからさ。

罪を咎めて犯罪者を吊るし上げるよりも、罪を受け入れて社会で対策をしていくほうが、良い未来が待ってると思うんだよな。ぼくは。


i hope our life is worth living.


またひとつさきへ