無人島読書 vol.2 ~嫌われる勇気~

無人島に持ち込んだ5冊の本。
今日紹介するのはその2冊目、アドラー心理学について書かれた「嫌われる勇気」。2015、2016年にはベストセラーにもなっため、ご存知の方も多いかと思う。
類に漏れず、ぼくもこの本にどハマりして、相当な影響を受けている。
初めて手にした時から今に至るまで、なにかに悩んでいる時には、この「嫌われる勇気」と次に紹介予定の「自分の中に毒を持て」の2冊を何度も読み直している。そうすると大概の場合、そのどちらかに自分の背中を押してくれる言葉を見つけることができるのだ。

ということで、今回は「嫌われる勇気 :岸見一郎 古賀史健 著」の紹介をしていきたい。

この本は親子、職場、友人といった人間関係に悩みを持つ方へぜひ読んでいただきたい本だ。
ぼくはこの本に出会えてから、人間関係のおける悩みについて、過剰に悩み続けることは減ったと思ってる。…稀に薄情だとか冷酷だとか言われることもあるが。
ともかく、ぼくはこの本に出会えてよかったと思っている。
今日は本のなかにある「原因論と目的論」、そして「課題の分離」について、自分の体験も含めて話をしようと思う。

原因論と目的論について

じつは原因論と目的論については、以前の記事でも少し触れている。
もしよろしければ、こちらも合わせてご覧ください。

原因論とは、いわゆるトラウマなどの考え方が有名なもので、「現在のこの状態は、過去にあった〜〜が原因である」と、現状の理由を過去に求める考え方だ。
対して目的論では「現在のこの状態は、ある目的を達成するために私自身が選択しているにすぎない」と、現状の理由は過去にあるのではなく、あくまでも自分自身が選んでいるのだと考える。

なかなかに厳しい考え方だ。
もし自分が辛い苦しい状況にあったとして、原因論で考えれば、その原因は過去にあるのであって自分の責任ではないと言えるかもしれない。
だが、目的論で考えると、どんな苦境にあったとしても、それはあくまでも自分で選択していることなのだ、全て自分の責任なんだと思う他ない。
ぼくもはじめて知った時には厳しい考え方だなと思った、だが同時に、希望の持てる考え方だなとも思えたのだ。

例えば原因論で物事を考えたとして、もし現状の理由がすべて過去にあるとするならば、ぼくたちは過去の言いなりの奴隷になっているようなもんだ。
過去が現状の理由である限り、ぼくたちは過去の呪縛から逃れられない。強い過去があればあるほど、過去に縛られて、今と未来を生きることになってしまう。それは悔しい。ぼくは悔しいと思った。過去の奴隷に成り下がってはいけないと。

対して目的論で物事を考えると、はじめは責任はそれを選択した自分にあると自分を責めるしかないかもしれない、だが、考えてみてほしい。
その現状は、あくまでも自分で選択しているだけなのだとしたら、その現状を自分で、選択し直すことも可能なのではないだろうか。

自分の人生の選択権は、あくまでも自分の手の中にある。
原因論では人生の選択権は自分にはない、過去に決められてしまうのだから。だが目的論では自分の人生の選択権は、あくまでも自分の手の中にあるのだ。
これが目的論の素晴らしい点であると思っている。目的論で考えることによって、人は過去の呪縛から解かれ、自分の今と未来を自在に選択し、積極的に人生に取り組むことができるようになるのだ。
(ただ、残念ながら奴隷や監禁状態など、全ての選択権を奪われているような特殊な状態においては、目的論は意味を為さないが。)

課題の分離について

こういった言葉がある。

「神よ、変えることができないものについて、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する智恵をわれに与えたまえ。」

この変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する智慧こそが、課題の分離であるとぼくは思っている。

具体例を出そう。ぼくが住んでいた山奥に、友人が数ヶ月滞在したことがある。冬の終わり頃ではあったが、まだ冷え込みはひどいので防寒着を必ず準備しておくように、なんども事前に伝えてあった。しかし、いざ友人を迎え入れてみると、なんとも頼りない防寒着しか持ってきていなかった。
寒いようであれば、自分の防寒着を貸すから部屋に取りにおいでと伝えたが、それでも友人は部屋に服を取りに来ることはない。
そこでぼくは、あぁならば、ぼくの課題はここまでだなと線引きした。部屋に服を取りに来るかどうかは友人の課題。これ以上は友人の課題への過度な介入になるなと、課題の分離をした。
それに身体の冷えからくる風邪を引くのも、友人にとってまたひとつの良い経験になる。その学びの機会を奪うのも忍びないなと放っておいた。
そして結果、見事に風邪を引いたので、準備しておいた葛根湯と風邪薬をすぐに渡したのだが…。

こちらの課題として、水辺まで馬をひいて連れて行くことはできる。
だが、水を飲むかどうかは、馬の課題だ。こちらではどうすることもできない。そういう話だ。

友人が風邪をひくとわかっていたのに助けないなんて、ひどい奴だと思われるだろうか。実際、周りからは友人をもっと気づかえ、優しさのかけらもない奴だと叱られた。
まぁ、ひどいやつかもしれない。
けれど、他人の課題に過度に介入することは、当人の学びの機会を奪うことにもつながるので、ぼくはあまり積極的な介入はしない主義だ。
子どもが遊んでいて、あぁ水をこぼすなと思っても、大きな被害が想定されないなら放っておく。そしてこぼした後には、それも子ども自身の課題として本人に処理させる。
そうやって、自分の課題として物事を処理させる能力を身につけさせるのが教育ではないだろうか。子どもだけでなく、仕事にしても、なんでもだ。
その子が失敗をしないようにと、他者の課題に積極的に介入して、学びの機会を奪ってしまうのは、優しさでも気づかいでもない。エゴだよ。それは。

また、他者から嫌われる、嫌われたくない。という悩みについても、課題の分離で解消できると思っている。

もちろん、他者に不快な思いをさせないように、と、気づかうことは大切なことで、それは自分の課題であるだろう。
しかし、自分の課題として誠意をもって取り組んだ上で、それでも他者から嫌われてしまうのであれば、それはもう自分の課題ではなくなってしまう。
他者が自分を嫌うのか嫌わないのか、最後にそれを決めるのは他者で、他者の課題であるからだ。介入のしようがない。自分では変えられない領域になる。

人間じゃない、サイコパス、人を愛したことのない奴。親に裸で土下座しろ。これ全部ぼくが職場で言われたことがある言葉なんだけれども。
嫌われて罵られることは、辛い。もちろん傷つく。いくら気にしていない素振りをしていても、心の中では傷ついているし、覚えている。
だが、それらの言葉を言うか言わないかは他者の課題であって、ぼくにはどうしようもないことだ。もちろん言われないように努力することはやったとしてもだ。
だからぼくは、それらは仕方のないことだと、その言葉を極力気にしないようにした。そうやって課題の分離をおこない、自分自身の課題に集中した。
つまり、どんなことを他者から言われようが、平静を保ち、誠意とリスペクトを持って対応しながら、自分の仕事のみに集中した。
どんなに険悪な雰囲気であったとしても、仕事における意思疎通は必ずおこない、気づかい心配りが必要な時はそれをした。

結果、当時それらの言葉をぼくに向けていた方は、今は、親子ほども歳の離れているかけがえのない友人となった。
昼間から12時間以上を2人だけで飲み歩きをすることもあるし、互いの進捗報告から恋愛であるとか政治であるとか、そういった話を忌憚なく話せる間柄になれた。そして度々、当時はぼくに心無い言葉を投げかけてしまったと、反省し謝罪の言葉まで伝えてくださるのだ。

もちろん、必ずしも、このような結果になるとは思っていない。
でもどんな結果が出るにしろ、自分のやれることは決まっている。
自分と他者の課題を見定め、課題の分離をおこない、誠意を持って自分の課題に取り組む。それだけだ。
もしその上で、他者が自分を嫌ってくるのならば、それはもうそれまでの関係であったと、その時点では諦めるしかない(もちろん、時間が解決することもある)。
そして、もしその相手が、過度にこちらの課題にまで介入してくるようならば、それは断固として拒絶すべきだ。
たとえその関係がうまくいかなかったとしても、自分は自分の課題に誠実に取り組んだ。その結果がこれなのだ。と、そう思えるのであれば、誇りも持てるだろうしサッパリと次へ進めるだろう。

ぼくは、ぼくの人生を選択してきたと思っている。
最後の決断の時には、過去や他者に任せることなく、自分自身で未来を考えて選んできたつもりだ。
そしてだからこそ、人に嫌われたりもする。だが、それでいいとも思っている。嫌われる勇気を持てたからこそ、自分で選ぶことができたのだから。

他者からのいかなる批判や脅迫にも応じない。
ひたすらに自己中心的なKYよりのナルシストだ。
自分を貫くというのは、格好がいいことでも、他者に褒められるようなことでもない。
他者に嫌われるかもしれないとか、社会でやっていけなくなるかもしれないとか、そういうのを、それでも構わない、と受け入れて、やっと自分を貫ける。
そしてだからこそ、他者と比べて見劣りする収入や環境にも誇りが持てるようになる。
すべてが自分の責任で、一種、孤独死をする覚悟すらも持つ必要がある。一人、さみしく、孤独に死んでいく。しかしその死こそが、自分を貫き通した戦ってきた証なのだ。そういった誇りを感じなければいけない。
大仰な物言いではあるが、それぐらいの覚悟を持つんだと、自分を奮い立たせるためにも、あえて言わせてもらう。

「◯◯さん、生きるって戦いですね」。
先ほどの友人と温泉につかっているときに、急にこの言葉が、ぼくの口から出てきた。
その帰り道に、車内で流していた朗読、坂口安吾の「不良少年とキリスト」にも同じ一節があった。

生きるって戦いだ。
もっともっと生きていきたい。
自分の人生を、自分にしか進めない道を。

生きるって戦いだ。
だから、戦っていかなきゃなんだ。これからも。

ねぇ、そうでしょう?

i hope our life is worth living.


この記事が参加している募集

推薦図書

またひとつさきへ