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エッセイ:『ファイトクラブ』と生きる実感

 レストランに行くと毎回思うのが。「この料理、精液とか尿とか入れられてないよな?」ということ。

 ファイトクラブの作中にウェイター達がスープの中に自分の排泄物を混ぜている場面があるから、トラウマになってしまったのです。
 チャックパラニュークの原作「あとがき」にも、実話だったことが明かされているのがすごい。

 爆弾テロとか、国家転覆よりも、こういう嫌がらせの方が遥かに怖い。二次元美少女のおしっこならイケるけど、オッサンの排泄物とか誰得でしょうか……。

 本来なら陰キャだった人間が、地下の秘密闘技場でカッコよく殴り合う作品ではあるのだけど。
 「ファイトクラブ」というタイトルに反して格闘戦に特別な意味があったわけではなく。作者曰く、男達が集まれればなんでも良かったらしい。
 そこに格闘・武闘家としての美学は無く、虚無状態の精神を紛らわせるだけの熱狂だっただけで、魂を解放させるための儀式……というか、お祭り騒ぎだった。

 血は出るし、骨折もするし、痛いだけだし、一体何の得があるんだよ? と言いたくもなるけど、医療的なマニュアルに則ったお利口なセラピーを受けるよりも生きる実感を得られたに違いない。

『殴り合う』というセラピー

 映画で見る彼等は生き生きしている。資本主義社会で、まともに働いていても得られないものを、殴り合うことで享受できる。原始的な欲求に訴えかけて来る何かがある。

 最初からタイラーダーデンは「お前を殴らせろ」ではなく、「俺を殴ってくれ」と話していた。痛みでしか生を実感出来ないくらい病んでたのか?

 消費社会の空虚感から生まれた破滅願望と、破壊衝動。そんな暴力性から「ファイトクラブ」が生まれ、一つの思想へと変化を遂げていくことで「プロジェクトメイヘム」へと移り変わっていく……。過激なテログループへの変貌。映画を初めて見た時は魂から打ち震えました。僕が求めていたものがそこにあったから……。

 原作のあとがきを読む限り、別の世界線では、ひたすら排泄物を料理の中に入れまくるだけの作品にもなり得たという可能性を秘めていた。それは正直に言って、ものすごくかっこ悪い。

 ただ、自分の尿や精液を他人の食い物の中に突っ込んで、それを厨房から眺めることを想像する。自分の身体だった一部分が、他人の中に入っていく。それはそれで、殴り合いとは別のところで、「生きている実感」を得られるのだろうし、とても尊いことなんだろうな……とは思う。チャックパラニュークの着眼点は凄い。

 そんなダサくて情けない男たちのやり場のなさが漂う、空虚な傑作なのは間違いない。令和になった今、金曜ロードショーで放送するべきなのは、「ファイトクラブ」なのだと思う。

 心はどこにあるのだろう?

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