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薄目で見る


2024年1月18日(木)朝の6:00になりました。

栄光に向かって走る、あの列車に乗っていこう。

どうも、高倉大希です。




英文は、薄目でぼんやりと読みます。

わからない単語が出てくるたびに、立ち止まっていたらキリがないからです。


おおよそ、こういうことだろう。

きっと、こういうことだろう。


そんな仮説を立てながら、読み進めることがポイントです。

はじめから順番に、そんな生真面目な読み方をしてはなりません。


「だいたい」という思考の作法は理性や論理を単独で走らせず、つい置き去りにしてしまう領域というものをもう一度、取り込めないか考えてみよう、というものだ。そういう曖昧な領域を置き去りにしてしまったほうが解り易くてすっきりしていて聞いていても気持ちいいのは確かで、吉本さんのかつての語りの魅力はその割り切り方というか、啖呵にあったのは確かだ。

吉本隆明、大塚英志(2000)「だいたいで、いいじゃない。」文藝春秋


甲本ヒロトさんが、とあるテレビ番組でこんなことを言っていました。

「若い人は、歌詞を聴きすぎている」


歌詞に情報を制御されていて、聴き手の解釈の余地がとても狭くなっている。

こうおっしゃっているわけです。


なんだかすこし、わかるような気がします。

わたしたちは「意味」に、囚われすぎています。


絵に集中すると、どうしても絵のことを考えてしまうでしょう。できるだけていねいに描こうとか、そういうことも思ってしまう。すると、描いている絵がつまらなくなっちゃうんです。それよりも、なるべく絵から気を散らして、違うことを考えたほうがいい。そうすると手も自由に動く気がするの。

横尾忠則(2021)「YOKOO LIFE」ほぼ日


アジャラカモクレンテケレッツのパー。

古典落語『死神』の一節です。



意味はわからないけれど、思わず声に出してみたくなる。

そんな言葉です。


落語つながりで言えば、『寿限無』なんてまさにです。

「日本語であそぼ」に刷り込まれたおかけで、今でも空で言うことができます。


情報におくり手もうけ手もいないのだ。わたしの、まえにのべた定義めいたものも、修正しなければなるまい。情報はあまねく存在する。世界そのものが情報である。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


PPAP、オッペケペー節、めっきらもっきらどおんどおん。

意味はわからないけれど、声に出してみたくなる言葉は案外たくさん存在します。



原則として、このような言葉に意味を求めてはいけません。

意味を求めてしまうと、「ラッスンゴレライ」みたいになってしまいます。


アジャラカモクレン、アジャラカモクレン。

アジャラカモクレンって何ですの?






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