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プレ=コード・ハリウッド

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プレ=コード期――ヘイズ・コードが成立してから強い効力を発揮するまでの、1930年代前半の合衆国で撮られた、セクシャルで、アンモラルで、アナーキーで、バイオレントな映画たちについ… もっと読む
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映画でオリジナリティは必ずしも求められはしない――ローランド・ブラウン監督『ヘルズ・ハイウェイ』(Hell’s Highway,1932)

映画でオリジナリティは必ずしも求められはしない――ローランド・ブラウン監督『ヘルズ・ハイウェイ』(Hell’s Highway,1932)

 題材からしてマーヴィン・ルロイMervyn LeRoy監督の『仮面の米国』(I am a Fugitive from a Chain Gang,1932)を受けて撮られた、いかにも柳の下の二匹目の泥鰌を狙ったような作品だが、このオリジナリティといったものにまったく背を向けたこの作品が、真に優れた映画であることは、映画において、オリジナリティなるものはまったく影響しないものであるという証左であるよ

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スクリーンに映し出されるその日まで、闘いは続く――ハリー・ダバディ・ダラー監督『踊子夫人』(Laughter,1930)

スクリーンに映し出されるその日まで、闘いは続く――ハリー・ダバディ・ダラー監督『踊子夫人』(Laughter,1930)

 今、したたか興奮を抑えきれず、しかし努めて冷静にある言葉の連なりを綴ろうと思う。特に巧みに織り上げられた物語が語られるというのではない。たしかにふたつの恋愛模様を平行カッティングで語る形式は、やや真新しいようにも思われるが、とはいえそれも際立った独自性が見られるというのでもない。あるいは造形的にも、画面効果的にも際立った視覚的表現が見られるというのでもない。もちろんナンシー・キャロルNancy

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疾走する映画、単純さの美徳――ロイ・デル・ルース監督『エンプロイーズ・エントランス』(Employees’ Entrance,1933)

疾走する映画、単純さの美徳――ロイ・デル・ルース監督『エンプロイーズ・エントランス』(Employees’ Entrance,1933)

 フレデリック=モンロー・デパートは大いに賑わっている。この賑わいに大きく貢献しているウォーレン・ウィリアムWarren Williamは冷血漢と呼ぶにふさわしい人物であるが、ある日閉店後のデパートの中でロレッタ・ヤングLoretta Youngに出会う。しかし、そのロレッタ・ヤングは、まもなくウォーレン・ウィリアムの右腕となるウォーレス・フォードWallace Fordと結婚することになる。だが

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プレ=コード的な、あまりにプレ=コード的な――ロバート・フローレー監督『スマーティ』(Smarty,1934)

プレ=コード的な、あまりにプレ=コード的な――ロバート・フローレー監督『スマーティ』(Smarty,1934)

 おそらく私は、この映画の面白さを充分には感じ得ていないと思う。拙いヒアリングしかできない私の耳では、会話の可笑しみを感じ取るには至っていないだろう。視覚的には、おそらくスタジオ内ですべてを撮影したであろうと思われ屋内場面ばかりであるし、ライティングに凝ったところも認められない。だが、このプレ=コード的な、あまりにプレ=コード的な映画に触れぬことには、プレ=コード・フィルムについて触れたことにはな

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典型的なプレ=コード・フィルム、または不可視の領域の禍々しさ――スティーブン・ロバーツ監督『暴風の処女』(The Story of Temple Drake,1933)

典型的なプレ=コード・フィルム、または不可視の領域の禍々しさ――スティーブン・ロバーツ監督『暴風の処女』(The Story of Temple Drake,1933)

 プレ=コード・フィルムとして一般にイメージされるのは、性的暗示と暴力性であろう。性的暗示ということについては、エルンスト・ルビッチErnst Lubitsch監督の『極楽特急』(Trouble in Paradise,1932)などの作品は、その最も洗練された一例として挙げることができるだろうし、暴力性ということについては、たとえばハワード・ホークスHoward Hawks監督の『暗黒街の顔役』

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出鱈目な物語を真摯に語ることについて――チャールズ・ブレイビン監督『ジンギスカンの仮面』(The Mask of Fu Manchu,1932)

出鱈目な物語を真摯に語ることについて――チャールズ・ブレイビン監督『ジンギスカンの仮面』(The Mask of Fu Manchu,1932)

 21世紀現在、倫理的であったり法令遵守的であったりする側面から好意的に迎えられない作品というものが存在する。映画に「問題」というものを持ち出さないでほしいというのが私の考えではあるが、今や誰もが「問題」を語りたがる時代なのかもしれない。今から触れようとしている『ジンギスカンの仮面』(The Mask of Fu Manchu,1932)もそのような1本である。だが、それゆえに作品の価値を見誤って

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「表象の節度」の問題――グレゴリー・ラ・カーヴァ監督『獨裁大統領』(Gabriel Over the White House,1933)

「表象の節度」の問題――グレゴリー・ラ・カーヴァ監督『獨裁大統領』(Gabriel Over the White House,1933)

 ひとりの男が合衆国の大統領に任命される。今もそうであるが、ある人物がその国の首長に任命されるとき、そこには少なからぬ希望が寄せられるものだが、ウォルター・ヒューストンWalter Huston演じる大統領は、非決断的な態度で、ラジオから流れる声にも耳を傾けることなく息子と遊んでさえいる。そのような大統領は、ある日、車の運転中に事故を起こしてしまい、昏睡状態に陥ってしまう。九死に一生を得たウォルタ

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行為=アクションによって物語る職人監督の手腕――ルーベン・マムーリアン監督『恋の凱歌』(The Song of Songs,1933)

行為=アクションによって物語る職人監督の手腕――ルーベン・マムーリアン監督『恋の凱歌』(The Song of Songs,1933)

 マレーネ・ディートリッヒMarlene Dietrichは、夜も深まったころ、伯母の家に転がり込む。彼女の父が亡くなり、どうやら伯母の家に引き取られることになったようだ。だが決して歓待されているというわけではなく、伯母も「厄介者を引き受けてしまった」と毒づくことをはばかろうとはしていない。いずれにせよ、伯母の家に所属することとなったマレーネ・ディートリッヒではあるが、そのとき彼女がいかなる手続き

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「転落ショット」の鮮烈なイメージ――マーヴィン・ルロイ監督『歩道の三人女』(Three on a Match,1932)

「転落ショット」の鮮烈なイメージ――マーヴィン・ルロイ監督『歩道の三人女』(Three on a Match,1932)

 ひとりの女性が窓から飛び降り絶命する。確かに平静ではなかったが、錯乱して偶然にそのような事態に陥ったわけではないし、ましてや自死を望んだわけではない。かといって何者かによって突き落とされたというのでもない。彼女は白いネグリジェを身にまとっていたが、そこには口紅で文章が書かれている。それは彼女自身の手によって書かれたもので、彼女の息子の居所が記されている。息子はギャングに誘拐されていたのであって、

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バスビー・バークレーのミュージカルは説話に寄与しない――マーヴィン・ルロイ監督『ゴールド・ディガース』(Gold Diggers of 1933,1933)

バスビー・バークレーのミュージカルは説話に寄与しない――マーヴィン・ルロイ監督『ゴールド・ディガース』(Gold Diggers of 1933,1933)

 1933年当時、まだ人々にとって生々しい記憶であり人によっては現在の苦難である大恐慌の影響で、多くの劇場は閉鎖を強いられる。かつては栄光に浴した3人の女性もまた、安アパートで厳しい生活を送らざるをえない。ここでは観客と呼ばれるスクリーンを見つめたであろう人々とスクリーンの中の登場人物とは、同じ現実を生きているかのようだ。とはいえそれはさしたる問題ではない。「良識派」というより、ショーガールへの偏

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