白い時間

かつては白かったスニーカーを捨てた。深夜1時42分。そんなちっぽけなことで何も現実は変わりはしないさ。でも、何かを変えたかった小さな自分の衝動が、そうさせたのだろう。他に何を捨てれば、自由になれるのだろう。みんなと同じものが欲しかった。でも、みんなと同じ色は嫌だった。そんな我儘は、効率重視の世の中じゃ通用しない。

たしかにこの靴をレジ台に乗せたあの日、この靴は白と黒のコントラストに映えていた。それが今となっては、靴が時間を物語るほどに古くなっていた。お世辞にも、白い靴とは呼べなくなった。

もう3年経ったんだ。あの日から。社会人デビュー。さぁさあ、ヨーイドン。今日からあなたは「シャカイジン」。「コジン」としての貴女は存在しません。シャカイジンなら当たり前、アタリマエです。せいぜい新卒は3年我慢しろ、給料ドロボーなんだからさ。その3年に、意味はあったかい。白いスニーカーさん。僕の3年は誰のものだったんだい。誰に捧げたかったんだい。この人生。時間は取り戻せますか。神様、白いスニーカーをもう一度ください、履き慣れたこの靴底で。返事なんて、もらえるわけないよなぁ。この部屋は、いつも空調の音がうるさかった。

世の中は、目には見えないものだらけだ。その一つが時間だ。でも今、確実に目の前に、時間が見えている。この靴は、かつて白かったのだ。こんなに黒ずむまで、履き潰した僕の日々。そこには時間が存在していた。

アシンメトリーにすり減った踵と、飼い犬が悪戯に噛みちぎった靴紐の先が、妙に愛着を湧かせた。でも、捨てなくちゃ。だってねぇ、ほら、靴を見ればその人がわかるんでしょう?靴は品格を表すんでしょう?ボロボロの靴ならば、ボロボロの私。新品の靴を履いてたって、ボロボロの私。でも、貴方には見えないんでしょう?靴さえ白ければ。

迷信を一番最初に唱え始めた人は誰だったんだろう。その人が、そんなアホなことを思い付かなければ、僕は今この靴を捨てなくて済んだのに。でも、世間がそう言うのだから、どれだけ愛着があっても、捨てなくちゃね。もう戻らないこの時間たちを、捨てなくちゃ。僕がダメ人間だってバレちゃうから。そんな迷信を信じてる、僕が一番アホだ。綻びを怖がっている、僕が一番アホだ。

世界は単純だ、白い靴だけがいい人のバッジだ。
人を見分けろ、見極めろ。騙されたなら、お前の負けだ。僕にだけ複雑に映る。捨てた愛だって、二度とこの目には見えっこない。せめてもの悪あがきで、左眼の笑い皺には居るのかな。白い時が、何もかもを変えてしまった。変わりたい自分は変わらないのに。

過去に戻れないんじゃない、僕はもう戻らないんだ。この白かった靴を捨てればどこか胸の奥に詰まった飴玉が溶けていく気がした。


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