見出し画像

いつかこの映画を思い出してきっと泣いてしまう/『花束みたいな恋をした』感想

「天竺鼠はさすがに狙い過ぎだろ」

僕は右手に持っていたポップコーンを思わずぶちまけそうになった。

コロナのせいで館内に食べものは売っていなくて、そもそもポップコーンなんて食べていなかったから、これは気持ちの問題である。

劇中には実在する映画、音楽、漫画、著名人の名前が数多く登場する。出てくる単語はどちらかといえば「知ってる人は知ってる」類のモノで、王道とは言い難い。有村架純と菅田将暉が演じる男女は、いわゆるサブカルと呼ばれるそれらをこよなく愛する2人だ。

天竺鼠は映画の冒頭で、有村架純がライブを楽しみにするお笑い芸人として名前が出てくる。

この「天竺鼠」という全方位に対して容易に腐せない鉄壁のチョイスと、「ロバート」あたりがリアルだろうと思わせる有村架純の「隠しきれないメジャー感」になんともいえないズレを覚えたのは事実だった。

映画好きを自称する男が得意げに「ショーシャンクの空に」を出す描写もバカをバカにしすぎだ。わかりやすく造形しすぎじゃないかと思った。

むしろ有村架純はショーシャンク側の人間だろう(偏見)。きのこ帝国はいいけど、彼女に「粋な夜電波」「ゼルダの伝説」もちょっとやりすぎ、似合わない。

たとえば橋本愛だったらミニシアター通ってるのも自然で、ゾンビ映画や映画オタクにも理解がありそうだけれど。

センスは固有名詞のチョイスによって演出される。

僕は大学生の時に付き合った年下の彼女を思い出した。その子は黒髪ボブで毎週のようにライブハウスに入り浸り、岡崎京子や萩尾望都を愛読し、「ゆらゆら帝国」や「たま」を愛聴し、自主製作の映画まで撮るような典型的なサブカルっ子だった。

僕も当時はミドリや銀杏や相対性理論のライブに通い、つげ義春や穂村弘を愛読し、それなりに¨ソッチ¨にも理解があるつもりだった。

一方で、ドラゴンボールもスラムダンクもミスチルもGLAYもラルクも好きだった。なので彼女の口から出る固有名詞には謎のマウンティングを感じて厭な気持ちになることもあった。

彼女の前でジャンプ漫画やJ-POPを積極的に語らず「戸川純やばい」とか「謎の彼女X最高だった」とか、どこか忖度しているような自分のことは、それ以上に厭だった。

彼女は純粋にそれらのカルチャーが好きだったのだろうし、僕もメジャーや王道も好きであることに引け目を感じる必要はなかったのに、なぜか固有名詞のチョイスには気を遣っていた気がする。

「マイナーだからおもしろい」というテーゼがクセモノである。「マイナーでおもしろい」ものもあるが「マイナーでもつまらない」ものや「メジャーでもおもしろい」ものもある。

これはナンシー関さんの金言で、僕の言わんとしたいことが集約されている。

画像1

菅田将暉と有村架純がショーシャンクやジブリを鼻で笑うような場面を筆頭に、序盤は二人のセンス(笑)あふれる掛け合いに辟易した。

それはかつての自分や誰かを見ているような共感性羞恥があったのかもしれないし、作り手の自慰行為を見せつけられてる不快感だったかもしれない。

だが、そんな場面の連続は、意図的に仕掛けられた前振りに過ぎなかった。

いわば苦味を強調するための甘味。サビを立体的に聴かせるための美しいイントロであり、AメロBメロに過ぎなかったのだ。

本作のサビは「ありふれた壊れ方をしていく恋の儚さ」にある。

日常に影を落としはじめる「社会」や「現実」の重さは、2人の関係性に静かにヒビを入れていく。個人的には『あの素晴らしい愛をもう一度』の歌詞が頭に浮かんだ。

あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない

出会いから中盤まで、あまりにも眩しかった2人の残像が観客の脳裏にあるからこそ、軋むように揺らいでゆく関係の切なさが際立つ。

仕事に忙殺される麦(菅田将暉)が、以前は夢中だった漫画や映画が息抜きにならず、「パズドラしかやる気にならないんだよ」と語気を強める場面はものすごくリアルだった。自分もそんな経験をしたことがあるからだ。

麦がお世話になっていた先輩が亡くなったときに、絹(有村架純)が麦と同じぐらいには哀しめず、心のうちを言葉にすることすらためらった場面もリアルだった。

そう、この映画は一部の誰かだけが独占できる特別な物語なんかじゃない。

ごくごくありふれたラブストーリーである。ミニマムな「あるある」が積み重ねられ、局地的な要素はあったとしても、たいていの人が心当たりを持って共感できる物語なのだ。

しかしながら、その共感の深度や心当たりへのリンクは圧倒的なものがある。きっと観ている誰もが過去の恋や今ある恋に想いをめぐらせ、遥かな気持ちにさせられる。

序盤は有村架純のメジャーすぎるイメージや雰囲気が、絹のキャラクターにとっては邪魔だなと思っていたのに、途中からまったく気にならなくなった。

画像2

同じ坂元裕二の脚本作品『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』で見せていたように、彼女は心が空っぽになりながらそれを押し殺す、空虚なお芝居が最高に素晴らしい。ラブストーリーのヒロイン像として完璧!

そして菅田将暉。純粋で真っすぐな一面は、余裕がなくなることで途端に脆さに変わる。喧嘩になれば、ぶっきらぼうな態度で顔や声に如実に出る。「ああ、こういうヤツいる」「男ってこうだよな」と感情移入ができたのは、菅田将暉がうまいからだと思う。

時折りふつうにダサく見えるところ含め、麦というキャラクターに説得力を持たせていた。信号待ちの押しボタンは押し忘れるくせに、有村架純の唇に自分の唇を押し付けることは忘れないんだな!

画像6

就活を描いた映画『何者』でも共演している菅田将暉と有村架純が、本作でも同じように就活で葛藤するのは、オマージュの意味もあるのだろうか。

あと清原伽耶が可愛すぎて…登場の場面では時空が歪んだね。一瞬誰か気付かなくて、エキストラにしては輝きが違いすぎるとは思ったけど、やはりとんでもない美少女だ。出番は少ないながら、あの役を託すにはふさわしい存在感だった。

画像4

オダギリジョーは出てくるだけでなぜかテンションが上がる。『舟を編む』とか『重版出来!』みたいに「クセがあるようでない、奇抜さのない大人の男」で見るのが個人的には好きだ。今回も意外とまともな役だった。やりがちな有村架純との生々しいシーンとかが少なくとも描写では入ってこなくてその点も良かったな。

画像5

最後のファミレスのシーン。

男ってほんと女々しくて、女の子よりずっと別れ方が下手だよね。意志が固いのはいつだって女の子のほうだ。あふれ出す感情を抑えきれず、切なさがこみ上げる2人のそばに、かつての自分たちと同じような初々しい男女がやってきてからの場面!

僕は鼻腔に痛みが走るのを堪えながら、目を見開いてじっと耐えた。周囲からはすすり泣く音が聞こえてきたけれど、少しずつ大きくなるBGMがそれをかき消してくれた。夜のファミレスをバックに抱擁する2人のことを、僕らはずっと見守っていたし、気付いたら大好きになっていたのだ。

坂元裕二の脚本には全幅の信頼を寄せているし、『最高の離婚』なんて一番好きなドラマだけど、あらためてすごい脚本家だなあと恐れ入った。

長年、自分がずっと住んでいた京王線沿線が舞台だったのも親近感が湧いた。絹が住んでいるのがなんで飛田給なんだよとは思ったけど、実家なら分かる気もした。ただ2人が同棲してからの徒歩30分は、有村架純を歩かせるには現実的な距離じゃないな。あのへん治安悪くないけどさ。

久々に京王線に乗りた…揺られたくなった。

吉祥寺の映画館。エンドロールを迎えて明るくなった館内では、顔を見合わせて微笑み合うカップルや、「やばかった~」と涙目の女子高生3人組などがいて、みんなに感想を聞いてまわりたくなった。

一番最高だったのは、中学生ぐらいに見える男子3人組が、3人して照れくさそうな顔をしたまま椅子から立てなくなっていたこと。

彼らがこのあとファミレスで、この映画について語り合うのだとしたら、僕は課金してでも隣でこっそりと感想を盗み聞きしたい。LとRのイヤホンを外して。

画像6


サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います