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アドラー心理学トーキングセミナー:性格はいつでも変えられる(1989/03/01)/野田俊作【読書ノート】

生きたままのアドラー心理学を
フロイトやユングの心理学は日本でも盛んに研究され実践されていますが、どういうわけか一時は彼らの同僚であったアドラーの心理学だけは、名前以外はほとんど知られないままの状態でした。私は、どんな縁からか、アドラー心理学を正式に学んだ最初の日本人になってしまいました。
さいわい今では多くの仲間をえて、日本のアドラー心理学も、すこしずつではありますが、独自の発展をはじめつつあります。しかしなおテキストブックと言えるようなものも、仲間内で使っている半ば私家版的なものしかなく、一般には市販されていない状態です。
私自身、まだ正式のテキストブックを執筆するほどの勇気がなく、したがって本書はアドラー心理学の標準テキストブックといえるようなものではありません。いや、本音を言うと、標準テキストブックなんて退屈で、とても書く気になれないのです。そんなもの、アドラー心理学の剥製です。
アドラー心理学という喜ばしい知識を、ホルマリン漬けにするのはごめんです。生きたままのアドラー心理学を読んでいただきたい。私の中で今なお成長しつつある思想が、まだドロドロとしてマグマのままでいる状態を、そのままで書いてみたい。これはそういう本です。
ですから、本書を読んでお利口になろうと考えておられる方は、残念でした、これはそういう本ではありません。
対話体をいいことに、『アドラー心理学炉ばた談議』といった感じで気楽に書いたのがこの本です。
ともあれ本書では、アドラー心理学の理論的な側面よりも、むしろ実践的な側面にたえず焦点を当てています。
とくに私のライフワークであるグループ・セラピーの周辺の話題をとりあげています。本書が縁となって、ひとりでも多くの方がアドラー心理学に親しんでいただければ、著者にとってはそれに過ぎるしあわせはありません。
野田俊作


■第1部:性格■

人は全然夢をみないか、さもなければ興味深い夢をみる。目をさましているときにも同じようにすることを、人は学ばなければならない。つまり、全然目をさましていないか、さもなければ興味深いやりかたで目をさましているか、である。[ニーチェ]

1:自分を変えることは可能なんですか

野田:アドラー派と言われるのは好きじゃないんです。アドラーの考えか
たは大好きなんですけれど、自分は自分だから。アドラーのセールスマンじやないから……。もっとも、看板には『アドラー心理学』って書いておきますけれどね。そうしないと、みんなが安心してくれないんだ(笑)「あいつはアドラーだ」って思うと、好意を持つにせよ反感を持つにせよ、精神的に
に安定するんでしょうね… 。でもほんとうはアドラー派なんかじゃないんです。何派でもないんです。私は私……。
アドラーは、私の導師(グル)ではなくて、たくさんいるお友だちのうちの一人なんです。だから、このお話の中でも、ときどきアドラーのことばを引用したりアドラー心理学の考えかたをもってきたりするけれど、それは私が
アドラー派だからじゃなくって、個人的にアドラーの考えかたが好きだからだと理解していただきたいんです。

性格は本当は変わりやすい(12)

性格はほんとうはとても変わりやすい。ただ、人間は、自分の性格を変えな
いための能動的な努力をたえずやっている。だから変わらない。

人間は自分の性格を変えたがらないんです(14)
"想い込み”は実現してしまう(16)
投資が大きいと方向転換が難しい(18)
じゃ自分で決断すれば性格は変えられるんですね(19)
性格を変える鍵は勇気(22)
"論理的な結末"と代替案(23)
逆説的アプローチ(26)

2:性格を変える方法にはどんなのがありますか

3、そもそも「性格」とは何なんですか

・ものの見方、振舞い方を性格というんです
・アドラー心理学では、ライフスタイルと言うんですが、ライフスタイルの一般的な定義は、「自己と世界の現状と理想についての信念体系」なんです。
たとえば、子ども時代に、お母さんに叱られたときに、すねて見せればお母さんがやさしくなった、という体験を持つ人は、一生、すねて見せる習性を持つだろうと思います。また、ものすごい反撃をしてぶんなぐるとお母さんがおとなしくなった、という体験を持つ人は攻撃的になるだろうと思います。このように、「かくかくの場合にはかくかくの行動をすればうまくいった」という過去の体験があって、それを教訓として後生大事にかかえているのが性格 なんです。
このような場合にはこのようにすればうまくゆき、このようにすればうまくゆかないだろうという信念

ライフスタイルというのは、認知バイアスと行動バイアスの両方を含めた概念なんです。実際上は、認知バイアスと行動バイアスとを区別することはできません。だから、ひと口にまとめて『認知行動パターン』だと言っているのです。

信念が物事の受けとめ方を決める

ある人の信念の体系(システム)がわかれば、その人の認知行動パターンはわかる。信念体系と認知行動パターンとは、まったく同じことではないけれど、相互に翻訳可能なので、どちらをつかまえてもいいんです。
ライフスタイル、すなわち性格とは信念だと言ってもいいんです。
われわれは、生まれ落ちた瞬間から、自分の自叙伝を、自分の行動でもって書いているんだ、というのがアドラーの基本的な考えかたです。
その書きかたに、その人特有のスタイルがある。そういうスタイルなんですよ。だから、ことばはもちろん、眠りかた、食事のしかた、はてはウンチの仕方にいたるまで、全部を支配しているスタイル。

自己あるいは自我と性格との関係はどうなっているんですか?p42

自我ということばはフロイトにあげよう
自我ということばはね、フロイト心理学の専門用語としてとっておいてあげたほうがいいと思う

4:性格という"辞書"はどのように作られるんですか 


〇歳~二三歳までの性格形成は藪の中
三歳からの性格形成のメカニズム
親は子どもの性格をつくるのではない
子どもの性格を決めるのは、子ども自身の主体的決断。
たとえば暴力的な親がいたとして、その親に育てられた子どもは、親を見習って、的になるかもしれないし、親を反面教師にして、けっして暴力をふるわない人になるかもしれない。子どもはいつでも選べる。
子ども自身が自分の性格を選びとる
親や教師は、子どもに選択肢を与える
遺伝や環境は性格形成に影響を与えるけれど、最終的な決定因子ではない

5:性格はどうやって診断するんですか

6:「無意識」とはどんなものですか

我々の行動は、99%が無意識的に動いている。
心の中に対立はまったくないとみる
無意識は基本的には信頼できる

7:自己実現ってどういうことですか

今の自分以外に実現すべき自己なんかない

■第2部:共同体■

1:個人と集団はどんな関係にありますか?

社会や家庭にあるルールとは何ですか
アドラー心理学は、いわゆる『深層心理学』じゃなくて、『文脈心理学
表層の裏側に隠された無意識的な深層を探ろうとしているのではなくて、わ
れわれ個人なり、われわれの社会なりの、運動の文脈を知ろうとしている

ゲームを楽しくする三つのコツ
第一番目は、ル—ルを守ること。ルールを守らないとシラけますからね。
・第二番目のコツは、真剣にゲームをすることです。誰かが手抜きをしていると、みんなが面白くなくなる。
・第三番目は深刻にならないこと。将棋で負けたからって首をつって死んだらバカでしょう。真剣に生きなければならないが、深刻になっちゃいけない。ゲームの結果に感情的に反応しなくてもいいんです

2:さて集団のルールにはどんなのがありますか

3、家族にはどんなルールが内在してますか

4:無意識的なルールとはなんですか

5:共同体感覚ってどんなものですか

共同体を定義づけると⇒定義はない(不立文字)
【アドラーの共同体感覚】
① 「私は共同体の一員だ」という感覚。(所属感)
② 「共同体は私のために役に立ってくれるんだ」という感覚(安全感・信頼感)
③ 「私は共同体のために役立つことができる」という感覚。(貢献感)
アドラー心理学の治療の究極目標は共同体感覚の育成
みんながんばって共同体感覚を持つようにとお説教することじゃない
そうじゃなくて、治療は、共同体感覚を実体験させるための手続きでなければならない
「あなたは『理想の男性』という人と浮気をしているんですよ(笑)」 "治療はゲーム" だから、真剣でなければならないが、深刻になってはいけない。ユーモアは、深刻ぶった仮面をひっぱがすために、とてもよい道具です。
●日本のアドラー心理学では、中級以上の口頭試問でダジャレを言うと落第。ダジャレじゃない、ほんとうのジョークを言えないと合格しない。 皮肉も落第。皮肉じゃない本物のユーモアの感覚がないと合格しないんです。
●与えられた道具でなんとかする(130)
●たとえば、親や教師は、子どもが彼らの気にいらないことをすると、「信頼を裏切られた」とよく言うが、子どもを『信頼』していたのではなくて、ただ、子どもたちが彼らの好みに合う行動をしている間だけ『信用』していただけ。彼らの期待を子どもに押しつけていただけ。

6:共同体とはどういうものですか

  • 「やさしくしているとナメられる」というようなことがおこるのは、元々がファシズムだったときのことです。

  • 自分のことが好きで、世界を信頼していても「白分は役立たずだ」と感じていると、幸福にはなれない。

  • 人間は貧乏性にできているんですね。仕事をしないではおれない。自分が役立たずと感じると不幸になってしまう。

  • 貢献感というのは主観的な感覚。実際に貢献しているかどうかよりも、「私は人々の役に立っている」という感じを持てればそれでいい。

  • 「私は自分のことが好きだ」と言えるためには「私は役に立つ人間だ」と感じていなければならない。また、「役に立つ」相手はこの世界なんだから、世界が好きでなければならない。嫌いな世界に対しては役に立とうなんて思わないでしょう?

  • 共同体というのは、「過去・現在・未来の一切人類全体」アダムとイブにまで、あるいはイザナギとイザナミにまでさかのぼるご先祖さまから、はるかな未来の子孫に至るまでの、すべての人類の一員であるという感覚。これが共同体感覚のもっとも狭い定義です。⇒最大の定義は全宇宙

  • 共同体感覚の定義⇒宇宙意識(コスミック・フィーリング)

  • アドラ—心理学は単なる社会適応の心理学ではない

  • 彼は若いころは、社会主義者だったんです。ほとんどマルクスに近い立場だった。つまり、今の社会は具合いが悪いというのが、彼の基本的な出発点だった。そこで、この社会をなんとか改善しなければと思っていた矢先にロシア革命がおこったんですが、彼はボルシェビキのやり口にひどく失望したんです。
    それで、われわれの社会を変革するためには政治的な革命ではだめだ、個人個人の成長しかないんだ、と確信するようになったんです。そうしてアドラー心理学が今日の形をとりはじめた。だから、アドラー心理学の基盤に、現実の社会体制への厳しい批判がある。

  • だから、患者さんを無理やりに今の社会にあてはめる仕事はしたくない。じゃあ、どこへ持ってゆくのか……。それが共同体。いっでも社会適応が問題じゃなくて、共同体への適応 、共同体への復帰と言ったほうがいいかな、それが問題なんです。

  • すなわち共同体は、われわれの中にすでにあるのです。

  • コスモポリタンというのもひとつのアイデンティティだからいやなんです。私は何かの団体に同一化したくないの。それはすなわち疎外だから。--アイデンティティを持つのは必要なことのように言われていませんか。少なくともセラピーの上では。

  • それがわれわれの不幸のはじまりなんです。何かに同一化していないと不安なのは、神経症的です。
    --アイデンティティを持てないのが神経症ではないんですか?エリクソンはそういっています。

  • それが社会適応論です。 家族への愛着、会社への忠誠、国家への帰属……それがファシズムの温床なんです。

■第3部:治療■

1:グループ療法とはどんなものですか

  • アドラー心理学にもとづくグループ療法では、セラピストは個人じゃなくて、グループ全体を扱うんです。グループは個人の集合じゃなくて、ひとつの分割できない全体、生きた有機体だと考えます。だから、個人に何がおこっているかは、私は知らない、わからない。

  • そのかわり、サブ・セラピストが最低二人いましてね、その人たちが個人を見ていてくれる。男性と女性と、最低一人ずつの助手を使うんです。複数の治療者を使うのは、アドラー心理学のお家芸ですからね。

2:グループがめざすものは何ですか


人が他人を道具にせず、また他人の道具にもならないでおれるように。みんなが自由であってほしいし、みんながお互いに疎外しあわないで暮らしたい。また、自分で自分を疎外する。こともなしに暮らしたい。
そうして暮らすときに、共同体感覚があらわれる。共同体感覚と無疎外とは、同じことなんです。
グループでは、私は参加者に共同体感覚を作ろうとはしない。もし私が作ろうとすると、それは『やらせ』だ。そうではなくて、無疎外な共同体をまずこしらえてしまうと、そこに共同体感覚が自然に現前する。

--「共同体感覚を持ちなさい」とは言わないということですか?
●そうです。たとえば、「ギヴ・アンド・ティクですよ。まず与えなさい。そうすれば与えられるでしょう」というような偽善的なことは言いたくない。

--われわれの社会でもっとも支持されている徳目は、ギブ・アンド・テイクですよね。それがいけないとなると……。
●それは愛じゃなくて商取り引き。信頼関係じゃなくて信用。
共同体感覚を、たとえばギブ・アンド・テイクというような具体的な行動に翻訳して、それを参加者に強要するとき、そこでおこなわれていることは、とてもうまく変装しているけれど、一種の、エゴイズム教育だと思うの。中世の神秘主義者マイスター・エックハルトがうまいことを言っています。
与えられることを期待して与える人には何も与えられない」って。

--ただ与えなさい、見返りは期待せずにというのは、実際問題として非常に困難があります。お人よし、愚かな善人になってしまっては、この社会で適切に生きていけないでしょう。
●そうかな。ほんとうにそうだろうか?
共同体感覚には一種のパラドックスが含まれている。
まず第一に、「与えなさい」と人に強要することは共同体感覚じゃない。強要というのは、「もし与えなかったら罰があるぞ」と暗黙にあるいは明白に脅して与えさせることでしょう。そんなやりかたは縦の関係であり、ファシズムであり、共同体感覚からはもっとも遠いものだ。

3:グループ療法はどのように進めますか

  • フロイト以来、我々はあまりにも人間の暗い側にばかり注目しすぎた。それでは問題は解決しない。人間は、もっともっとちゃんとやってゆける。『反省さえしなければ』昨日ではなく今日を見れば。
    昨日はもうない。明日はまだない。あるのは今日だけ。今この瞬間だけ。

  • 人間にはほんとうは悩みなんかないんですよ。
    悩むと便利だから悩んでいるにすぎない。自分の目的を達成するために悩みを使っているんです。
    たとえば、非行少年の母親はひどく悩んでいるわけですが、あれには目的がある。その目的が何であるかを知るためには、仮に悩んでいなかったら何がおこるかを考えてみるとよくわかる。子どもが非行化しているのに、母親がニコニコしてしあわせそうで、きれいに着飾って繁華街へ買物にでも出かけるとすると、どんなことがおこると思いますか?近所の奥さんが何か言うでしょうね?
    「坊っちゃんがあんなになっているのに、よくまああんなにニコニコしておれるわね。母親があんなだから、あんな子どもができるのね」
    ところが、髪の毛をふり乱して悩んでいると近所の奥さんは何と言いますか?「奥様もたいへんねえ。そんなに悩んでらっしゃるのに、坊っちゃんはちっともわかってくださらないのね。親の心子知らずってほんとうね」って。問題児の親が悩む第一の目的は、自分の顔を立てること。(世間体)

  • 問題児に「君のことでお父さんやお母さんが悩んでくれるほうがいいか、それとも君のことは放つておいてしあわせに暮らしてくれるほうがいいか?」って尋ねると、かならず「悩まないでいてくれるほうがいい」って言いますよ。でも親は悩み続ける。それは、悩まないと自分の社会的な立場が悪くなるから。つまり、悩んでいる親は、子どものことよりも、自分のことのほうが大切なんだ。だから、悩んでいる親は、とてもうまく変装しているけれど、ものすごいエゴイストなんですよ。

  • 親は自分の好みに反する行動をする子どもを悩みを使って改造しようとしている。親の支配性なんですね。これが悩みの第二の目的「あなたがやっていることは、私の好みにあわない」というサインとして悩みを使っているんです。

  • 親は自分の好みに反する行動をする子どもを悩みを使って改造しようとしている。親の支配性なんですね。これが悩みの第二の目的「あなたがやっていることは、私の好みにあわない」というサインとして悩みを使っているんです。

  • さて、悩みの第三の目的は、仕事をしている気になることです。たとえば、私があなたと正午にどこかで待ちあわせをしたとしましょうか。電車に乗って待ち合わせ場所に行こうとしたところがホームに着いたら電車が出たところで、次の電車まで二十分もある。次の電車に乗ると待ち合わせには遅刻してしまう。外で待ちあわせをしているので、連絡のとりようもない。さてどうすればいいか悩むでしょうね、ホームで二十分間悩み、電車の中でも悩み続け、あなたに会うころにはすっかり胃が痛くなっている(笑)でも、ちょっと考えてみてください。悩んでいようがいなかろうが、二十分しないと次の電車は来ないし、二十分遅れてしか目的地に着かないとしたら、悩むのはバカげている。ホームで二十分間ゆっくり休憩して、電車の中では途中の風景を楽しんだって、電車は同じ時間に目的地地に着く。そうでしょう?そうやって楽しんで旅をしてから、あなたに会う寸前に悩んだ顔を作ればいいんだ(笑)それなのに、普通こういう状況では人間は悩む。それはなぜか?悩んでいると、仕事をしている気になるから。「私は何もしていないわけではない。こんなに苦労しているんだ」というわけです。

  • 「悪いあなた、かわいそうな私」と言っているかぎり、問題は解決できない。「私にできることはいったい何だろう」と問いはじめて、はじめて前へ進める。

★アドラーカウンセリングの 一般的なやり方

◆第一段階…それは誰の問題か
カウンセリングの具体的続きとしては、まず「誰の問題か」を問う。これを『問題の分離』と呼んでいます。「息子さんが登校拒否をすると、お母さんが卒業できなくなりますか」とか、「娘さんが不純異性交友とやらをすると、お母さんが妊娠なさいますか?」とか問いかける(笑)
これらは子どもの問題であって親の問題ではない。だって、子どもの行為の結果は子どもの身にだけふりかかるんだから。
人からどう評価されるかで自分の価値を量るのはバカげています。だって、「お前はバカだ」と誰かに言われたとしましょう。言われたとたんにそれまで利口だったのが突然バカになることはないだろうし、それまでもバカだったんなら同じようにバカでいるだけだ(笑)人から何か言われたとたんに、カメレオンみたいに言われたように変身するんだったら困りますわね。

その奥さんは、「まあ、おかわいそうにね。ひどいご主人で、あなたも苦労なさいますね」とでも言ってほしかったんだろうけれど、そうはゆかない。「悪い主人、かわいそうな私」の片棒をかつぐ気はありません。ご主人を改造する相談に乗る気はないんです。「そのようなご主人と仲良く暮らすために、あなたにできることは何でしようか」ということしか話題にしたくないんです。
◆第二段階…「論理的な結末」をみる
次ににすることは、今までやっていたことを続けるとどうなるかを検討することです。これを『論理的な結末』といっています。
◆第三段階…代替案を考える

カタルシスより「代替案」が治療的

クレージー(へんてこ)な代替案:治療者は、患者さんよりもほんの少しだけ余計にクレイジーであるのがいい
ユーモラスな代替案

  • われわれが知るべきは、われわれがどんなに違っていたかではなくてどうすればいいのかです。つまり、代替案です。オルタナティヴ・ウエイです。過去や現状を洞察してもしかたがない。そんなことはすっとばして、いきなり、よりよい生きかたを学んだほうが早い。自分の中に問題点を探せば、いつまでたっても無限にみつかりますよ。雑草を根絶やしにしようとしても無駄なんだ。そうではなくて、まずでつかい花を咲かせてしまえばいい。そうすれば雑草は気にならなくなるから(笑)

4:感情はどうすれば処理できますか

  • 感情は行動の原因ではない
    感情は対人関係の中で、相手を操作する道具としてライフスタイルによつて無意識的に作りだされ使われるにすぎない。たとえば、怒りがあるとしてその怒りがあるために、どうしようもなく相手をののしってしまうとか暴力をふるってしまうというようなことは噓だと思う。あれは相手をののしったり暴力をふるったりするための口実に怒りを使っているにすぎない。

  • 感情は必要に応じてインスタントに作り出される
    子供を叱っているそのときに電話がかかってきてね、「はい、野田でございます。いつもお世話になっております」なんて言うとするでしよう。そのときには怒りはないんです。さて、電話が終わって、また子どもの顔を見ると、怒りでいっぱいになる(笑)

  • だから、治療の場において感情を出させるということには、あまり意味がない。心の中にたまっていると考えるから、たまに掃除をして捨てるのがいいだろうと考えちゃうんだけれど、たまってないんだから掃除する必要もない。

  • 怒りがたまっているように感じるのは
    怒り使って対人関係上のを解決する習慣を持っている人が、怒りを使うことができない状況におかれると、怒りを感じるんだけれど表現できないんですよね。そういう状況をを言っている。
    怒り以外の方法で対人関係上の問題を解決することを学べば、ライフスタイルが変わって、怒りは消えて無くなる。怒りを出させても何も変わらない。同じライフスタイルが存続するんだから……。怒りに代わるものを学んでもらわないといけない。

  • 感情の混乱へ理性で分け入っていく
    感情は、問題解決のために、ある目的をもって作り出され使われる。ところが、それは幼児的な問題解決で、感情を使ってしようとしていた目的は、もっと理性的な手段を使ってでも達成できる。そのことを体験的に教育するために、一度感情的になってもらうわけです。

  • 感情的に混乱しているときには、そのことを恐れないで、智慧のともしびをかかげて混乱の中に入ってゆくと、よりよい道がみつかるんです。感情的な混乱から逃げてはいけない。逃げていると、道はけっしてみつからない。一方、感情的に混乱しただけでも、何も解決しない。感情的な混乱がおこるところには、成長への入口が開いているんです。そこへ入ってゆかなければならないが、別のロから出てこないといけない。

  • 陰性感情、つまりよくない感情には、大別して三種ある『怒り』『不安』『ゆううつ』
    『不安』『ゆううつ』⇒思考と関係した感情
    『今ここで』おこっていることにたいしてではなくて、頭の中で考えていることと関係した感情。『不安』:未来/『ゆううつ』:過去
    今ここで起こっていることを見ると消えてしまう(瞑想)
    『怒り』は、『今ここで』に関係した感情で、思考とは本質的に関係ない。⇒怒りという感情は悲しみと同じもの:個別カウンセリング必要

  • 瞑想と感情の関係について
    瞑想すると、われわれは『今ここ』に帰ってきます。ところが、われわれは『今ここで』のことについては考えることはできません。考えは『今ここで』のものではないんです。だから『今ここ』に帰ってくると、思考はなくなる。なくなるというのは変で、あるんだけれど、影響を受けなくなる『今ここ』にあるものは『感覚』五感に写るものそのまま。

  • 『今ここ』に帰ってくると、それまで問題だと思っていたことの多くが、実は問題ではないことがわかる。心配しても心配しなくても、死ぬときは死ぬということ。あるいは、後悔しようとするまいと、おこってしまったことはおこってしまったということ。思考は役にたたない。瞑想して『今ここ』に帰ってくると、思考が実は何の役にもたっていないことがわかる。思考を見ているかぎり、問題はいっぱいあるように感じられるけれど、『今ここ』に帰ってくると問題なんかそんなにないことがわかる。
    われわれは考えることで、何もないところから手品のように問題を作りだしている

「思考」や「感情」は自分ではない

人間の意識は、潜水艦の潜望鏡のようなものだと思うんです。眠っているときには水面の下にある。起きているときには水面の上に出ているが、見えるものは『考え』か『今ここで』か、どちらかひとつ。『考え』を見ていると『今ここで』は見えないし、『今ここで』を見ていると『考え』は見えない。
われわれは、思考や感情イコール自分だと思っていることが多いのですが、それは違う。思考や感情は、ほんとうは意識の対象であって、外の世界と同じように、われわれの外側にあるものだだから、意識が『今ここで』に目覚めていると思考や感情に巻き込まれないで、それからちょっと離れて見てみることができるようになる。

感情的になれない人
⇒感情的になってはいけないというライフスタイルがある。
不安という感情⇒感情的になれない人は実は感情的

5:瞑想とはどのようなものですか

治療につかう瞑想のテクニック:大きな変革力をもつダンス
ダンスをしたくない女性
彼女は「ダンスをしないのは私の自由でしょう」と言いました。このことには三つの問題が含まれている。
●ひとつは、なぜそんなことをわざわざ言わなければならなかったかということ。すなわち、このことばの対人関係上の目的です。もっとあからさまに言うと、そう言うことで私に何をさせたかったのか、ということ。
彼女は「ダンスをしないでいい」という正式の許可を得たかったんだと思う。そんな許可は、ロが腐ってもあげないよ(笑)
彼女の神経症的な行動の片棒をかつぐのはごめんだから。もし私が、「いいですよ。あなたがダンスしないことを許可します」と言うと、彼女は私の責任でもってダンスを拒否するでしよう。「先生がいいって言ったんだから」って。彼女が彼女自身の責任でダンスを拒否するのであれば、それは立派なことだと思う。でも、私に責任をとらせようとするのならば、それはごめんだ。
●第二の問題は、彼女が私にダンスを強制されたと感じているらしいこと。この人は、たいへん支配的な人であるに違いない。支配的な人がもっともいやがるのは、人から支配されることです。そういうライフスタィルの人は、依頼や勧誘さえも命令3受けとる。彼女は私のことばを命令と受けとったようです。だから、もし私が「あなたはダンスをしなくていい」と許可すると、彼女は私の支配をはねかえして、かえって私をあるやりかたで支配しおおせたことになる。さらには、彼女は内心、他の者にはないある種の特権をかち取ったとも感じるかもしれない。彼女の支配性は、きっとたいへん満足するだろう。つまり彼女のファシスト的なライフスタイルを強化してしまうだろう。これはたいへんマズい。
●第三に、『自由』ということばにひっかかったんです。理屈をこねるならば、ダンスができてダンスをしないんだったらなるほど自由だ。でも、どんな理由なんだかは知らないけれど、彼女はダンスができないんです。この世にできないことがあるのは不自由なことだ。さまざまの可能性から決断して選択できることを自由というんです。
ところが、彼女には選択の可能性がない。「ダンスをしない」という可能性しかないんだから……彼女はちっとも自由なんかじやない。彼女は、ダンスをしないかぎり、自由にはなれない。彼女は自由ということばの使いかたを間違えている。

6:なぜ瞑想が必要なんですか

  • 瞑想すると目標追求が一時的にせよストップする。目標がなくなると『劣等感』がなくなる。劣等感とは、理想と現実のギヤップのこと。劣等感とは、他人と較べて自分が劣っているという感じではなく、"理想の自分と較べて現実の自分が劣っている"という感じのこと。釈尊のいう『苦』を、アドラー心理学では『劣等感』と言う。

7:そろそろおしまいにしましょうかね

習慣から脱けだすこと
私がやろうとしていることは、自由になること、つまり『脱習慣化』なんですよ。だから瞑想の習慣なんか、お願いだから身につけないでほしい。そんなことをしたら、人間が瞑想しているんじゃなくて、機械が瞑想していることになってしまう。習化するということは、機械化するということなんだから……
瞑想だけじゃなくて、すべてのことを習慣化しないでほしい。
誰かある異性を好きになるとしますよね。そのとき、「愛し続ける」ということをやめたい。愛を習慣化したくない。瞬間瞬間に、相手を愛することを決心したい。「この人と今日一日を愛の中で暮らそう」と一日を暮らし、次の日は次の日で、「この人と今日一日を愛の中で暮らそう」と再決断して暮らしたい。そういう生きかたを、私自身は自分の生きかたとしていつも模索しているし、きっと人間のもっとも自然な、もっとも幸福になれる生きかただと思っている。習慣というのは、オートマチックに行動することね。自動操縦装置をつけて、そのスィッチをオンにすることね。私だって、多くのことは自動操縦スィッチをオンにしている。ただ、自動操縦にしたくないこともある。女性と一緒に暮らす時間にはね、何ひとつ自動操縦にしないで、全部マニュアルでやりたいな(笑)

あととがき
そもそも学者というのはいやな奴らであるが、なかでも精神医学の臨床心理だのをやっている連中ときた日には、金輪際絶対にお友だちになりたくない種類の人間ばかりだ。職業的偽善者ども……
こんなことを本心では思っているのだけれど、大きな声では言えない。なんのことはない、私自身もその、呪われた職業でもって食っているのだから。けれどもこれは、実はしかたのないことなのだ。

白状すると、小さな子どもであったころから、私は自分のことを天才だと堅く信じていた。ただ、問題は、何の天才であるのかが、長らくわからなかったことだけれども、とにかくこれは好運な出だしだった。なにしろ、自分に才能があるのかないのかについて悩む必要がまったくなかったのだから。これは、子どもにとっては、とても好運な出だしだった。とにかく才能があることは確かなのだから、あとは、手当たり次第にいろんなことをやってみて、自分がいったい何の天才であるのかを発見しさえすればよかったのだ。で、結局、三十歳になろうとするころにとうとうわかったことは、私には詐欺師の才能が豊かにそなわっているということだった

そのころ私は、たまたま内科医だったが、即日迷わず精神科医に転向した。なんの問題もなかった。なにしろ、私は内科医としては、天地神明に誓って言うが、それはすざまじいヤブだったのだから……
精神科医はめったに人を殺さない。これは私のような人間にはとても向いている。精神科医はしょっちゅう患者をケムに巻いて暮す。これも私のような人間にはとても向いている
そうして自分の才能を日々善用しながらしあわせに暮らしていたある日、ひとりの心理学マニアが私のところにやってきて、私の仕事について根掘り葉掘り尋ねはじめた。ちょっと待ってくださいよ。あなた、そんなにいろんなことを聞いてどうするつもり?
彼、片山交右氏は本屋さんだという。じゃあ、せっかくだから、これ本にしましょうよ……そうしてできたのが本書である。
ほんとうに、そんなにしてたまたまできた本なのである。
丸二日間にわたる対談のテープ記録を起こしていただいて、それをもとにして、四ヵ月余りかけて全面的に書き改めた。元の対談の面影は、実はあまり残っていない。
私は書きながら考えるタイプなので、書いているうちに次々とアイデアがわいて、できあがったものは、元の対談と無関係ではないにせよ、かなり色調の違ったものになってしまった。本書に登場するインタビュアーは、したがって、もはや片山氏ではなく、私の想定した読者代表である。インタビュアーがいささか気のきかない質問をしたりしているとすれば、それは片山氏の責任ではなく、まったく私の責任である。



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