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ナ・ダーム:あなたの中の不思議な力/ L・チェーズ&C・キング(1975/10/01)【読書ノート】ナダーム

訳者あとがき
―――幸福になる義務について―――
公共施設といいながら、超満員の通勤電車ほど人間性がふみにじられる現象は少ない。さいわいに熟睡できてリフレッシュされた肉体的精神的エネルギーの大半は、この不快とそこから否応なしに発してくるネガティヴな思考と情動とによって食いつぶされてしまう。このとき訳者は眼をつぶって、吊皮にぶらさがりながらでもいい、ナ・ダームと唱えつつ瞑想し、深呼吸することをおすすめしたい。吸うときにナーといい、吐くときにダームという。このリズムと吸と呼とのなだらかな調和を図るととろみが、心を落ちつかせてくれる。これが本書によって訳者が教えられた、いますぐ実行できる、そして大変効きめのあるかんたんな心身健康法である。
だが本書は、もっと根本的な、人間の幸福ということを究明し、アドヴァイスしようとしている。
人間はみんな幸福になる素質があり、権利がある。しかし著者たちは権利とはいわず、義務だと主張している。幸福とは正しい(right)ことである。
人間はみんな幸福になるのが正しい自然の姿なのである。それへ向かって努力することが、われわれ自身に対する、また造物主に対する、われわれの義務であり責任である。しかるにまた、それができないのが人間の常であり、むしろわれわれの考え方、行動パターンは、多くの場合、救い難いまでに歪んでいる。これが人間の不幸の根元的原因であり、これを矯正するためには、われわれがその本来の姿である霊性を再発見し、自己および世界の認識を革新しなければならない、と著者らは叫ぶ。
かくて本書は、病める現代人へのきわめて実際的な建設的アドヴァイスであるとともに、人類未来の無限の展望へむかっての貴重な一指針であろうと志向しているのである。
著者の一人、ローリエン・チェーズ女史はビヴァリヒルズ精神医療研究所、脳性麻痺児童ファウンデーション、カマリヨのカリフォルニア州立病院などのスタフを歴任し、また精神療法補助手段として、記憶、精神賦活剤などの脳波との関係の研究に没頭した経験もある。現在はクリフトン・キングと組んでチェーズ=キング・センターを主宰している。共著者クリフトン・W・キングは、カリフォルニア州アーカディアのサンタアニタ教会の神父で、精神療法としての夢分析と瞑想法のオーソリティである。
昭和五十年十月十二日 川口正吉


はじめに

1 瞑想の威力

ケイ・ファウラーはいま生きている。南カリフォルニアで元気で働いている。そう以前のことではなかった。カリフォルニア州コーヴィーナ市のある病院の手術室で、麻酔をかけられている彼女の体へ身をかがめていた外科医は、たしかに彼女の死の宣告ととられることばを発したのだ。切開第一刀を入れた直後彼が見た患部の光景にショックをうけた外科医は、助手の眼に自分の狼狽ぶりが反映しているのを見た。
「こりゃひどい、閉じてくれ!」と外科医は彼の口をおおっている手術ガーゼをとおしてささやいた。そして経験をつんだ医師ならば当然そう判断したはずの末期ガンの上の切開部を縫糸が助手の手で能率的に封じていくあいだ、そこを離れた。
ケイ・ファウラーは本名である。ほぼ確定的だった死の淵からどうして彼女は引きもどされたのか?そのきっかけはこうである。

「わたしの娘のシリーがローリエン・チーズ博士とクリフトン・キングのことを小耳にはさんだのですわ」と彼女は最近、センターのある新来研修生に話した。「娘はわたしに彼らに診てもらいなさいとすすめましたの。娘はクリフに話をしてくれ、クリフが病院へ訪ねてくれたんですわ」ケイはそれから、はっきり腹を決めてこの療法へ入った結果、快くなったのだといった。瞑想がのち彼女の命を救ってくれただけでなく、彼女の生活をまったく変えてしまったのだという。わたしたちはそこをよく説明してくれとたのんだ。
「そうね」と彼女は微笑いながら、
「まさかと思うかもしれませんが、実はわたくし、たいへんな意地悪ババァだったんですわ。わたしは一生の間、なんでも自分の思いどおりにしないと気がすまなかったのです。どうしてそんな性格になったのか、ほんとのことは自分でも分らないのですが、自分が何でも他人よりよく知っている、そう自惚れていたかららしいんですわね」

自分がガンだと知ったときから、症状も痛みもすべて消えたかに思われる現在までの、わずか年という短い期問に、いったい何が起こったのだろうか?
「ひとつは、自分が死ぬかもしれないという考えからでしょうね」と彼女は真剣な表情になって語るのである。
「ああいったことがあれば、誰だってずいぶん深刻に考えますわよ。自分はいつも正しいことをしてきたかしら?他の人々を、特に自分の家族を正しく扱ってきただろうか?友達や親族に不必要な惨めさを味わわせなかったかしらと……。
でもわたしをそこまで決心させ、立ち直らせたのは、たんに死ぬのが恐ろしいといった感情を超えた、あるなにかだったからだと、わたし思うのです。わたしがクリフと瞑想を始めると、ガンとは何の関係もないある内的な平和がしっかりとわたしを包んでくれるようになったのです。自分が違った人問になったみたいな感じになってきたのです。世界がこれまでとは別のものに見えてきました。他の人々を新しい照明のなかで見るようになったのです。そして見るものことごとくがふるいつきたいくらい好きになりました。」

この理由ひとつだけで、ケイが会う人々も彼女の感情へ鋭敏に感応し、彼女を好くようになったわたしたちは、ケイ・ファウラーのような人がその未来の眺望のなかにこうした根本的変化を経験し始めるとき、その内部に何が起こっているのかを知っている。わたしたちはこれについてつの理論を確立している。ケイ・ファウラーの身体状態に大変化が起こったのは、彼女が新しい心の眺望を得たからである。新しい心的眺望は瞑想と静観によってもたらされたものだ。
怒りと敵意はしばしば身体的な病気をもたらす、そうわたしたちは感じている。

そう推定しているのはわたしたちだけではない。精神科医のウォレス・C・エラーブローク博士の持論は、激しい怒りと気鬱につづいてガンが発生する、そして当然、態度の変化は悪性腫瘍を安定した肉体状態へと逆転させる、というものである。
エラーブローク博士は、カリオルニア州ノーウオークのメトロポリタン州立病院の精神科医員で、カリオルニア人学アーヴァイン校の講師、そして同時にロングビーチで精神科クリニックを開業している。彼はこのタイプの病状軽快の例を数知れず経験しており、「ガンが奇蹟的に治るのは超自然現象でもなんでもない。情動状態を変えて、ガンの進行を回れ右させることも不可能ではない」と主張している。

ケイの場合、まさしくそれが起こったと思われるのである。人が心の持ち方いかんによってガンになることもあるなど、とても信じられないことのように思える。しかし、わたしたちの経験からいえば、それは可能なばかりでなく、大いにありうることなのだ。とすれば、瞑想は自然の与える奇蹟のクスリになる。すくなくとも若干のケースでは、瞑想で患者の眺望を組み変えることによって、ガンの進み方を逆転させることもあり得る。

ここのところ数年間、科学は心的エネルギーの強さ、威力、多面的融通性について実に多くの事実を発見してきた。アメリヵのみならず海外でも、心のもつ威力についてさらに詳しい確実な知識を得るため、またその制御方法を知るため、医学センターや大学などで、つっこんだ研究が進められている。これらの研究は、主として、肉体と頭脳との相互関係の理解を目指している。

2 超越心理学とあなた

3 肉体の発見

4 心への同調

5 悪魔、エロス、そしてこの新しい始まり

6 あなたのコントロール・センター
7 霊的経験としてのセックス

8 指定夢

9 自己発見への道

五つの本能的衝動
わたしたちが知り、対処しなくてはならない基本的な本能的衝動は、①自己保存、②自己表現、③セックス、④群居(社会)衝動、⑤知識欲の五つである。
幼児をよく観察していると、これら五つの衝動がありありと看取できる。健康な赤ん坊に乳を飲むことを教えなければならない場合はめったにない。赤ん坊が母親の乳房に押しつけられるか、哺乳びんをあてがわれれば、彼の自己保存本能は自動的に彼のためにすべてを行なってくれる。自己保存への努力が、なんとまあこんな小さいうちから顕れていることか!赤ん坊はな人とたやすくあなたの世話と愛情を勝ちとることか!セックス衝動も、すでに初めから存在している。フ口イ卜はこれを観察し、大きくなってから多くの情動障害がでてくるのは、幼いときにセックス衝動を抑圧したからだという正しい推論に達した。
群居衝動(仲間をもちたいという欲求)もまた生れながらにして現われている。子供は他の子供たちといっしょに遊んでいるときがいちばん幸福だ。乳児は、彼らの甘やかされたい、愛されたいという欲求が拒否される場合、死ぬという例が多く知られている。われわれ人間は、都市とか小さな共同社会にいっしょに集まる、群性動物なのである。近頃のいわゆる疎外された世代の生活共同体(コミューン)というものも、この衝動の現われにすぎない。
最後に、赤ん坊のなかにも知識欲がはっきりと出されている。赤ん坊はまず自分の手、足、小児用寝台のなかの玩具に惹きつけられる。動けるようになると、どんなもののなかへも入ってみようとする。触わり、見、味わい、しょっちゅう学習しようとし、自分の周囲の世界を知ろうとする。
5つの衝動が満足される程度と型は、個人差が大きい。しかしどんな人にも、五つの衝動は必ず相互に連関したかたちで存在する。一つあるいは二つ三つの衝動満足が妨害されるか、バランスを崩されるかすると、情動障害を経験する。怒り、不安、恐れ、恐怖、嫉妬、羨望、敵対心など二次的情動がでてくる。その他考えられるかぎりの雑多な否定的、自己破壊的な心の状態が現われてくる。

われわれの本能的動因のうち最も強くかつ最も本質的なものである自己保存本能を考えてみる。
もしわれわれが脅(おびや)かされると、いや脅かされていると信じるだけでも、すぐさま不安と恐怖がでてくる。われわれは、親とかボスからなにか重大な身体的な脅威をうけそうになるかもしれない。あるいはちょっとした叱責をうけるかもしれない。いずれの場合も、程度の差はあるが、生存が脅かされるのである。するとわれわれは、瞬時に自動的に反応するのである。

自己表現の欲望は通例他の人々とのコミュニケーションによって、あるいはなんらかの創造的な努力によって満足させられる。この衝動が制圧されると、人は引っこみ思案に、屈従的になり、ふつう自己評価がきわめて低くなり、卑屈になる。逆に自己表現が満足されすぎれば、攻撃的、横柄、高圧的になる。

群居衝動は自己表現欲と密接に間連している。友達がほしい、仲間がほしいという自然の欲が邪魔されると、われわれは孤独になり、なにかしらこわくなる。そうすると攻撃的になりすぎ、他の人々を追い払ってしまい、情況を一層悪化させる。でなければ、他の人々の接触から退いてしまい、自己中心的になる。群衝衝動が極端に強い場合は、友達ができすぎ、社会的約束や義務が多くなりすぎ、われわれ身の内的成長のために割く時間がなくなる。

五つの本能的衝動は相互に関連している。たとえば、われわれの自己表現欲求が、コミュニケーションが辛いか難しいという事情のために満足されないと、詳居衝動がマイナスの影響をうける。こうして、他の人々と闊達につき合うことができないと、セックス衝動がダメになることがある。
もしわれわれが新しい思考を拒否することによつて知識欲を制圧すれば、他の人々になにも興趣のある話題を提供することができなくなるから、群居衝動が損われる。われわれは変りばえのしない非生産的な仕方でしか自己表現をつづけなくなり、これは必ずや自己表現衝動とセックス衝動とにひびいてくる。われわれはさらに生活からも退避するかもしれず、そうなれば、失職し、仲間を失い、自己イメージの緊張病的破壊が起こり、結局われわれの自己保存そのものが脅かされることになる。だから、五つの本能的衝動のあいだに健全なバランスを保つことは、われわれの三位一体の三つの側面のバランスをとることに劣らない重要性をもつ。ある衝動が圧殺され、あるいは重視されすぎると、アンバランスが起こる。このことをよく記憶しておいてほしい。

10 夢の見方

11 新しい自己像


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