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「ぎんなんと 私の葬式」 2018/11/07

死ぬなら、秋の終わりがいい。
冬の始まりでも丁度いい。

私はぎんなんが大好きだ。
今も手元にぎんなんがある誘惑と戦いながらこれをしたためている。ひょいとつまみながら書きたいところだがそうはいかない。これがぎんなんのニクいところだ。

殻つきのぎんなんを買ってきて、それを茶封筒に入れてレンジでチン。レンジからポスンポスンと音がしてきたら食べ頃だ。それをアチアチと言いながら殻を剥く。ちょいとお塩なんかをつけてヒョイと口に入れれば、ほろ苦あまい自然のうまみが口に広がり、もちもちとした食感が楽しい。
最初から殻を割っておくのは邪道。薄皮を剥がすちょっとわずらわしくもどかしい時間が、その1粒を美味しくするのだ。無心で割っては口に入れを繰り返す時間、これがつかの間日々の悩みを忘れる銀河である。

にしても、食べ過ぎると中毒症状が出るらしい。それすらなければもう永遠にアチアチヒョイモチモチを繰り返していたい。

今までいくつのぎんなんを食べただろう。これを全て1回で食べていたとしたら完全に致死量で即死しているに違いない。でも私はこれからもぎんなんを食べ続けたい。
こんなに食べ続けていたら、いつかお腹の中はたっくさんのイチョウの樹に覆い尽くされ、きっと深いイチョウの森になってしまうんじゃなかろうか。

死ぬなら、秋の終わりがいい。

冬の始まりでも丁度いい。

私が死ぬのを勝手に80歳だと仮定しよう。今から57年後。その頃にはぎんなんが立派な樹木に成長し、秋には毎年紅葉して黄金の木々が生い茂り、イチョウの葉がきらきらと舞う。そして足元には......

私の火葬では、遺骨を骨壺にいれるお箸の代わりに、ぎんなんの殻剥きはさみを持って構えていてほしい。

そして火葬炉からポスンポスンと音がしてきたら合図だ。私の体を火葬炉から出すと、そこには永遠にアチアチヒョイモチモチができるほど大量の、食べ頃ほっかほかのぎんなんが現れる...!

それをみんなでアチアチと言いながら頬張ってモチモチとしてほしい。受け付けで渡された清め塩、それまいてる場合じゃないそれでぎんなん食ってくれ!!

.....こんな妄想をしているうちに、熱すぎて持てなかったぎんなんが、冷めすぎている。

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