尻軽女と貧乏サヴァラン


最近大切なひとから頂いて、森茉莉の本を読んでいる。
なぜ個人名を出さないのかといえば、異性だからである。異性の友人と親しくしているだけで、やれ付き合っているだの性的関係があるだのあっただのと噂を立てられ、何故だかそのコミュニティのなかで相手の男性は今までどおりの関係性を続けられ、わたしだけが悪いような話になっており、嫌な思いをすることが多いからである。

もちろんこれは他人を噂でジャッジする人に対して腹が立っているだけで、特定のパートナーのいない(もしくはパートナーの理解を得た上で)大人が性的関係を楽しむことは否定すべきではないと思っています。ヤリマン上等じゃねーか。何が悪いんだ、ばーか。そこは誤解して欲しくない。

ほんとうに、セックスを理由に他人をジャッジするひとは理解できない。「わたし個人は特定の方としかor誰とも関係は持つ気はありません」ただそれだけでいいのに、なぜそれを双方同意の上で楽しんでいると思われる(しかも見えないところで!)人を下に見ることが出来るんだろう?時にはセックスを消費しておきながらでさえ!

あるとき、「セックスをした時点でただのセフレですよね」とひとから言われたことがある。このひとが意味するセフレとは文脈からして「セックスのみを目的とする関係性」のことなのだろう。
別にそういう関係性も悪いこととは言わないし、つゆも思わないけれど、なぜセックスをした相手と恋愛関係に至らなかったら人間同士の魂での関わりが持てないと思っているのだろう?ただ、わたしのことを見下して優位に立ちたかっただけなんだろうか?わたしとだれかの関係性をジャッジするなんて、たとえ自分に深い関わりのある相手だったとしても、あまりにもデリカシーがないと思う。
そんなにセックスだけが特別なことですか?自分にとってそれは特別なことだ、と思うのは理解できるけれど(それはセックスに限らず、手を繋ぐことやふたりで食事をすることだってわたしは特別なことである、と思う。)、セックスをしても魂の繋がりを持てる相手だっているし、身体の繋がりがなくとも恋愛はできるのに。
そのひとにとってセックスは「わたしはあなたにとって特別な人間である」と相手に示すためのツールだったり、相手に大切にされているかどうかのバロメーターなんだろうか。想像でしかないけれど、もしそうだとしたらとてもつまらないひとだなと思う。付き合う前に身体の関係を持ったから上手くいかなかった、なんてわたしは嘘だと思う。付き合えるか、付き合った上でその後関係がうまく続くかどうかと、そこは本当に関係ないと思っている。
「セックスしたからうまく行かなかったひとはセックスしてなくてもうまく行ってないひと」じゃないのかな。
実際、そのひとはパートナーに簡単に身体を許さない(このことばだって少し違和感がある。許すとか許さないとか、委ねる、預ける、この違和感の正体についてはもう少しよく考えて言語化できたらいいなと思う。)ことで信頼を勝ち得ていたし、同じ様な価値観のひと同士楽しくやればいいですけれど、あなたには、もちろん誰にだって、他人の人生をジャッジする資格などはありません。

自分は浮気をするくせにパートナーには貞淑であることを求めるひと、アダルトヴィデオ等を愉しみながら処女信仰を持つひと、風俗店で説教をするお客さん(さんなんてつけたくない、お金を払ったとしても客ですらない。こんなのはテロ行為。)なんて、もう訳がわからない。性に過剰な意味付けをするひとは苦手です。

他人のセックスに文句つけていいのは明らかな加害性を感じたときと、自分のパートナーの不倫や浮気、見たくもないのに目の前で突然始められた時だけ!

とまあ、そんなことはよくないけれど、よくないんだけれど、一旦は置いておくとして、その友人として親しくしてくださっている方から贈って頂いたのが森茉莉の『紅茶と薔薇の日々』である。
森茉莉は、森鴎外の娘であり、15.6という当時なら結婚してもおかしくない年齢になっても父の膝の上で遊び、紐履は自分で履けず(当時の紐履がとても複雑だったことはさておき)、顔を洗うお湯すら女中に用意させ、学校へ行くにも家の前に人力車が待っており、作れる料理はたったひとつ洋風に白いソースをかけた鮭のソテーのみ、家事どころか着替えすらひとりでできなかったという。
裕福な婚家からも逃げ出し、親の遺産もなくなり、愈々生活のために働こうとも、性根が貴族なので何にもできない。そこでエッセーを書いたところ評判を呼び、今でもファンの多い人物なのである。

彼女の幼少期には全く共感できないが、大人になってからの彼女のエピソードには以前より勝手なシンパシーを感じていた。
美しいもの、美味しいもの、生活の機微、彼女の言うところの"詩"を愛し、たとえ生活費が足りなくともお気に入りのグラスで素敵な時間を過ごすためなら3日粗食をしても構わない、ゴミ屋敷に花を飾り、季節の移ろいを愛でる、そんな彼女は著作のタイトルに『贅沢貧乏』と『貧乏サヴァラン』などとつけ、彼女自身も貴族性と貧乏であることを両立させている。贅沢貧乏、なんとおもしろい言葉だろう!

わたしは常々思っている。貧しいかどうかは、お金ではなく心で決まると。どんなにお金がなくとも豊かに暮らしていきたいと。
わたしも、貧乏でも贅沢でありたいのだ(彼女のいうところの『贅沢貧乏』は見かけばかりの贅沢でその実寒々とした生活をする現代人を風刺したことばだったような気もするが、未読なので分からない。)。わたしも部屋を片付けられなくとも花を飾り続け、美しい茶器で紅茶を飲むことを至上の喜びに感じ、楽しい予定のためなら数日先の生活費のことを考えずに過ごし、そのせいで何日か絶食する羽目になることも厭わない。つい最近まで貯金をすることすらしてこなかった。(それは豊かに暮らすこととは無縁であり、ただ怠惰で浪費家で刹那的なだけだと気付いたので今はちゃんと貯金も始めた。)

前置きが長く長く長くなったが、読んでみたらこの女!もうこの女!としか言いようがない痛快なくらいの意地悪ワガママおばさんである!さすが貴族!貴族なので他人の気持ちなど考えない!たとえ考えていたとしても、それもまた自分本位でしかない!
わたしは出自が庶民なので「貴族」という言葉から優雅な響きしか感じ取れていなかった!貴族というのはもともと、庶民から搾取して成り立っている存在であることを痛感させられる。所詮は「パンがなければケーキを食べればいい」という冷酷さこそが貴族性なのかもしれない。

ドイツ帰りの父を持ち、自身もフランス帰りのお茉莉は日本風にアレンジされた西洋料理と英語を憎み、レストランのウェイターを「コーヒーやデザート料理の名前だけ英語で言えるのを鼻にかけたニキビ面」呼ばわりし、得意のフランス語でやりこめる。オムレツにケチャップがかかっていればそこだけ残して嫌味を言う。近所の定食屋で出てきたハンバーグに沢庵と味噌汁がついていただけで内心怒り狂う。内心とは言いつつも顔にも出ているらしく、また怒り狂いながらも味噌汁と沢庵を残して食べ、家に帰っても怒っている。大人の対応ができないと嘆くが、彼女の考える大人の対応もまったくもってワガママそのものであり、そんなことをするくらいなら怒り狂った顔で黙って食べる方がよっぽど正解である。

もうここまできたら痛快そのものである。
彼女は息子のジャックと長いこと疎遠だったのもあり、のちに再会するとまるで恋人のような関係を築くのだが、こんな女が姑だったらと考えるだけで鳥肌が立つ。「ママはオムレツが好きなんだ」と言われて、オムレツを作らず待っていたジャックの妻の気持ちが痛いほど分かる。お願いだから外で食べてきてくれ、意地悪ババアとマザコン野郎め。と思う。

でも、他人となったら嫌いになれない。読んだが最後ワガママお茉莉の大ファンである。研ナオコ曰く、桃井かおりに喋り方がそっくりだったらしい。研ナオコが遊びに来たら、ぜひ物真似をしてあげようと考えるお茉莉。黒柳徹子にゴミの山から美しいグラスを探し出してコーラをご馳走してあげるお茉莉。テレビが大好きで出演者一覧の「他」に困るお茉莉。親友が病に倒れた時には自分の流儀を文句を言いつつ崩して"粋でない"差し入れをするお茉莉。鷗外が「おマリは上等」と膝の上に乗せてかわいがるのも当然と言った感じだ。

人に愛される資格、なんてものがあるのかはわからないがあるとしたら森茉莉はきっと殿堂入りだろう。こんな女性になりたい、とは思わないけれど、やっぱり少しだけ真似してみたい部分もある。

贈ってくださった方に感謝と敬意を表して。では。

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