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後天性バイリンガル:あなたは日本語もわかるの?


#英語がすき

サンフランシスコに移住して数年経った頃のこと。それがどのような設定でのできごとだったのかはまったく覚えていない。

誰にでも話しかけてしまう私はいつものように見知らぬ人と話が弾んでしまって、どうも社会経済について熱い議論にのめりこんでいたらしい。

すると彼女は言った。

「あなた日系でしょう?」

日系?ゲルマン系でもアイルランド系でもないから、確かに日系だ。

「そうだよ。」

すると彼女は興味津々といった面持ちで言った。

「あなた、日本語もわかるの?」


英語は得意だった。

いや得意というよりは、ネイティブのように話せるようになることをずいぶんと小さいころから自分に課していたように思う。

ALTもまだ全国に配置されてない時代、おそらく10歳くらいだったろうか。

私が育った信州の実家には毎年夏になると東京の音大に通う従姉たちが避暑に訪れていた。

10歳年上の従姉、将来を約束しあったフィアンセ、そして8歳年上の従兄。皆、音大で声楽を専攻していた。

お転婆なのに実は内向的でろくすっぽお話のできない最年少の私は特に相手にされることはなく、遠巻きに見ているのが精いっぱいだった。

姉の伴奏に乗せて、屋根が吹っ飛ぶかのようなけたたましい声量で歌曲を練習し、評価しあう彼らの様子はとっても大人で、眩しく、光り輝いていた。

中でも従姉は人並外れた気丈さで、20歳そこそこながら確固とした未来図を持っていたようだ。

「音大を卒業したらすぐ結婚し、ドイツに渡り、現地のオペラハウスに雇われて主役をもらって歌うの」と断言していた。

私の父も母も、祖母も、そしてその時期にはいつも自営業を営む我が家の助っ人として札幌からかけつけては数か月を過ごしていた叔母も、誰一人それを夢物語だと諭すこともなく、本人がそう決めたらきっとそうなるだろうと信じ心から応援していたように記憶している。

そしてのちに彼女はそのすべての夢をなんなく現実のものとした。

その従姉たちが毎日のように声楽の練習以外に真剣に取り組んでいたことがある。

それはドイツ語とイタリア語の発音を一語一語確かめながら繰り返し練習することだった。

ドイツリートやイタリア歌曲の生まれ育った文化の中で鍛え抜かれた現地の声楽家に交じってチャンスをつかんでいくためには、その地の言語が理解できるだけではまったく無理なこと。

歌声とともに響き渡るネイティブ同様の発音、イントネーションは声楽家として基本中の基本なんだと彼らは解説していた。

その様子を虎視眈々と見守っていた幼子の私には稲妻のような衝撃だった。

私はいつか英語教育が始まった時には、発音を徹底的に勉強し、意味を理解し、やがてネイティブのように話せるようになるんだと、自分に固く誓ったことを覚えている。


待ちに待った中学校での英語のクラス第一日目。

教室につかつかと入ってきた倉科先生は突如、英語でペラペラと話し始めた。

おそらく「私が英語を担当する倉科です。皆さん、一緒に学んでいきましょう。」程度の短い英語だったのだろうと今は推測する。

まだ何一つ理解できなかった私はただただその音に酔いしびれ、なんて素敵なんだろうと、英語習得の決意をまた新たにした。

なんと幸運なことに、発音にも厳しく取り組んで学んできた英語の先生が待ちに待った私の英語教育第一歩に花を添えてくれたのだ。

さっそく母にはネイティブが録音した英語のリーダーのソノシートを入手してもらった。

もしかしたら英語教師のための補助教材だったのかもしれない、父が中学校の教員だったために特別に手配できたのかもしれない。

何事にも飽きっぽく集中力皆無、と毎年の通信簿で評価され続けてきた手を焼く私だっただけに、「娘も漸く勉強する気になってくれたか」と両親は内心大喜びだったに違いない。

そして私の独学英語猛勉強が開始した。

何にでも病名がつく今の時代ならADDやADHDと診断されていたであろう、落ち着きがなく集中力皆無の私は学校の授業はとても苦手だった。

授業中、起きていられるときにはどんな科目であっても英和辞典や英英辞典を常に膝の上に置き、独自に編み出したリレーショナル学習(一つの単語の意味を調べ、説明文の中の分からない英語単語をまた調べ読む)を続けた。

いや、そんな大そうなことではなく、ただ単に興味に任せてハイパーにあちこち飛んでは読んでいただけだ。

時間を見つけては声を張り上げてリーダーを朗読し、文章を端から丸暗記していった。

文法の教科書も徹底的に理解し丸暗記していった。

かつて従姉たちがしていたように、ソノシートに録音されたイギリス人女性の音声に沿って、一語一語発音を確かめ、発声しまた音を聞くということを繰り返していった。

ジュリー・アンドリュースのSound of Musicやカーペンターズのカレンの美しい歌声とともに響く上品な発音も注意深く聞き取り、声に出して何度も何度も繰り返し歌っては発声を真似した。

やがてロックも聞くようになり、ジャニス・ジョップリンのワイルドな内容と音も真似しては絶叫した。

運動と英語以外の科目にはまったく興味がなかったため、大学受験では国語と日本史にはかなり努力を要したが、英語はほとんど勉強する必要はなかったように思う。

大学のゼミでは欧州の宗教芸術の哲学的考察(美学)を学び、教授からはその作品の生まれた国の言語の資料を読みなさいと厳しく指導いただき、フランス語、イタリア語、ドイツ語をかじることになった。

留学することもなくそのまま日本の大学を卒業し、ゼミの研究課題ともまったく方向性の異なる、しかしかねてから念願だったコンピュータ業界に飛び込み、孫氏とともに日本のパソコン業界の黎明期を作り上げたといわれる西和彦氏率いる大手パソコン雑誌編集部で技術翻訳を担当することになった。

社会人になってから始めた3回目のヨーロッパ旅行で初めて英語圏に滞在することとなった。

ミュンヘンの高校で音楽を教えていた姉がロンドン在住の著名なピアノの指導者に教えてもらえることになり、8か月間だけロンドンに滞在することになったからと、英語が大好きな私にロンドンポリテクニックの夏期講習に参加することを提案してくれたのだ。

1か月の予定で渡英したつもりが、どうしても日本に帰りたくなくなってしまい、なんということか、リファンドなしの帰りのチケットを捨ててしまった。

帰りのチケットが買えないので仕事をください、と日本の編集部に泣きついて新作映画に関する取材のお仕事をいただき、2か月だけ滞在を延長することができた。

滞在を延長するにあたって学生ビザ延長のためにロンドンにあるビジネス英語を専門に教える伝統ある学校に6週間ほど通うことにした。

移民局には事情を説明し滞在許可の延長を懇願する手紙を送った。

ビジネス英語コースの第一日目、受付の女性がスコットランド人だったのか、とても訛りが強く、彼女が何を言っているのかさっぱり理解できず、私はPardon?を繰り返していた。

学校に行きたくて居残ったわけでもなく、低血圧を理由に朝が苦手と思い込んでいた私は、地下鉄を乗り継いで1時間かかる学校にはどうしても遅刻してしまう。

受付では英語が通じず、しかも遅刻常習犯ということで、学長からは「他の生徒さんに迷惑だから、せめて遅刻だけはやめて」といや~な顔で忠告されていた。

コースが始まって1週間ほど経ったとき、抜き打ちで能力テストが実施された。

学校が長年集積してきたそれぞれの言語圏から来た生徒たち(主に駐在員とかすでにロンドンでビジネスをしている外国人)の発音しにくい音を集め、生徒それぞれの母国語ごとに難しいとされる発音のみを集め聞き取らせる試験が用意されていた。

日本人は私のほかに、ロンドンでブティックを始めたというトラ子さんがいた。

ヘッドフォンが渡され、日本人が聞き取りにくいとされる言葉が矢継ぎ早に流れてきた。

日本人が聞き取りにくい発音、つまり聞き取れていないから音にすることができない発音はthやLとRの区別だけではない。

sとsh、zとji、dとlなど子音の聞き分け・言い分けのみならず、数多い母音を含む英語には母音と母音、母音と子音の組み合わせが無数にありそれを聞き分ける、言い分けることが学校教育で英語を学んだほとんどの日本人にはできていないことは日本の中ではあまり理解されていないように思う。

聞き分けられなければ発音はできない。

発音の聞き分け能力を測るテストを受けた日本人生徒の中では一般的に流ちょうに英語が話せる日本からの駐在員でも70点を満たしたことはなかったらしい。

それが課題でその学校に来ているのだから当然といえば当然だ。

ところが、私はその試験で100点満点をとってしまったのだ。

学校側は皆、この予想だにしなかった結果に腰を抜かすほど仰天していたようだ。

特に遅刻常習犯で、英語能力はほぼ皆無と決めつけていた生徒の快挙だけにことさら彼らの驚きは大きかったようだ。

学長は私の快挙を称えるどころか、笑み一つ浮かべずにこう言った。

「成長してから日本国内で学んだというのに、この結果は信じられない。でも、あなたの英語にはアメリカ訛りがあるから、美しいクイーンズイングリッシュに直しましょう」

相当悔しかったのだろう。

アメリカに移住したのはその一年後だった。

本来は学部時代の研究の延長で魅力を感じていたイタリアに移住し、工業デザインを学ぶ予定だった。

ところが、英語が堪能でITに詳しければやっぱりシリコンバレーでしょう、という周りからの助言もあり、それもそうだな、と心機一転未踏のアメリカに渡ることに決めた。

英語を勉強する必要はなかったが、とりあえずUCバークレーのESLから学生ビザを出してもらい、様子を観ながら何を勉強したらいいのかを決めるといいという米国に住む友人のアドバイスに従った。

渡米後、数か月ESLでの授業の様子をみたあと「英語はもう大丈夫なので」と学校側と交渉し、同校の公開大学で統計やプログラミングのクラスをとれることとなった。

半年後にはビジネススクールに受理され、図らずも地獄のような暮らしが始まった。

数十人から数百人のクラスでのプレゼンはほぼ毎週のようにあり、一晩で300ページもの資料を読んでいかなければいけないことも頻繁にあった。


発音がネイティブに近いといっても英語を日常的に使って暮らすことは英国滞在の3か月以外ほとんどなかった私。

アメリカ移住直後の私は多少英語に訛りのある現地人と勘違いされたのだろう、英語が上手ですねと褒められることは一度もなかった。

しかし、初めて暮らす文化の中で幼児期のテレビ体験もなければ、2‐3年前に近隣で起きたニュースにも詳しくない。

現地人のように流ちょうに挨拶はできたとしても、そのあとの話題に対応しきれず、会話に積極的に参加できない私は知性がなく英語ができないアジア人とみなされてしまったようだ。

日本にやってきた外国人がお客さん扱いされているようにちやほやしてもらえないことに落胆し、カリフォルニア人たちは結構冷たいんだな、と冷めた気持ちでいた。

しかし、時間が経ってみてふと思った。

様々な人種がその才能を磨き凌ぎを削っては経済社会を盛り上げているメルティングポットのサンフランシスコでは誰もが第一日目からなんの偏見もなくカリフォルニア人の一員として認められているのだ。

誰一人私をお客さん扱いにはしておらず、この土地で相手にしてもらえるかどうかは私次第なのだとがわかった。

お客さん扱いされることが迎え入れられたことではなく、第一日から私の居場所がそこにあったのだ。

機会均一、差別のない社会ということはこういうことだったんだ。

自分が実は温かく迎えられていたことに気づいたあの時の感動を今でも昨日のように覚えている。

そして、アメリカ移住から3‐4年目。

政治経済社会についてネイティブと議論し合い「あなた、日本語もわかるの?」とアメリカ育ちの日系人に勘違いされたのだ。

あれから30年余りが瞬く間に過ぎていき、その途上、同時通訳が突如できるようになったり、暇とお金があれば学校に戻り様々な分野の勉強を英語で続けてきた。

今ではITやビジネス関連のみならず、建築関係、健康関係、化学関係など幅広い分野が両語で理解でき、語ることができるようになった。

また一つ、また一つと知識が増えていくたびに、小学校の時の決意、そして初めて滞在した英語圏、ロンドンでのできごとへと一瞬でタイムスリップしてしまう。

MITスローン大学院のオンラインコースが先週から始まった。20年以上前から注目してきた脳神経科学、さらに脳神経可塑性への理解がビジネスやライフスタイルにどう生かせるのかを学んでいる。

講師である医学博士の講義のほかにビジネスの現場で活躍しているコンサルタントらの取材などが動画で配信されており、オンラインのネット掲示板では学校のスタッフを含め小グループに分けられた学生たちにはそれぞれが脳神経可塑性をどのように活かし、脳機能を拡張していくかなどのディスカッションが推奨されている。

世界中から集まった学生たちの国籍、経歴や年齢の多様なことといったら目をみはるばかり。とてつもなくうれしくなってしまう。私もその多様性を提供している一人だ。

ネイティブのように話せるようになろうと誓った小学生のその先の未来にこんなにも広く深く喜び多い世界が広がっていたなんて、誰に想像できただろうか。





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