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屍姫と桜の葬儀

「どうぞ祖父をよろしくお願いします」
まだ二十歳にもならないような青年は、泣くのを堪えて頭を下げた。私はそれに、はいとか、わかりましたとか答えて、落ち着かずにペコペコやった。とにかく、早く立ち去って欲しかった。
青年は、何度も何度も頭を下げて、やっとの思いで帰路につく決心がついたらしい。それじゃあまた明後日に、と念を押してトボトボ遠ざかっていく。私はそれをたいして見送らず、とっとと玄関のドアを閉めてしまった。
ハァ、とついため息がこぼれる。しかし、呆然と立ち尽くしているわけにもいかないので、フゥッと疲れを押し出して脚を動かした。
向かう先は、玄関から一番遠いところに位置する部屋で、私の仕事場の一つだ。ドラマなどでよく見る、解剖部屋のような雰囲気だが、同時にちょっと大きな風呂場のようでもある。部屋の右側には人が乗れる、まな板のような台があって、近くにはシャワーが設置されている。左側は台が一つ以外は何もなくて、広く空いている。ザッと、室内はこんな風だ。殺風景。スピーカーで室内に流している音楽が、かろうじて明るさを保っているというふうである。
今、台の上には客人がいる。彼は見事な白髪に白髭をたくわえた老紳士で、七十を優に超える年齢とは見えない。寧ろ肌はどこかハリがあって、そこらの若者より若者じみている。
恐らくは、毅然として、慕われるような人物だったのだろう。死してなお威厳を示すかのような凛々しい眉が、性格を表しているようだ。
そんなだから、私はこの老紳士の衣服を取り去る時、今に怒られやしないかと妄想してしまうくらいだった。
「さて、綺麗にしましょうか。失礼しますよ」
一応、と声をかけ、お湯をかけていく。すっかり全体を濡らしてから、髪や顔や、上半身や下半身をサッと洗った。身体を拭いて、タオルをその上へ乗せておく。あくせくしながら、台の先へ頭が出るよう動かして、髪にドライヤーをかけた。ここからが大変で、濡れた台から乾いた台へと、滑らせて移動させなくてはならない。よしやるぞ、と入りもしない気合いをかき集めて、エイヤと動かす。上手くいかなければ、チマチマと調整する。
一通り終わると、こっちの方が体が固まってしまって、我ながら妙な声を上げてぐにゃぐにゃを身をよじった。ほぐれたところで、今度は老紳士へ服を着せた。これがまた重労働で、ふぅふぅ言いながら終わらせた。
「お疲れさまでした」
これは、老紳士と私に対しての言葉である。
それから顔に布を被せてやって、濡れた床をモップで拭いて乾かした。モップは水をしぼって壁へ立てかけた。
かくして、ひと仕事は一旦の終わりを迎えた。取り掛かり始めてから、かれこれ一時間半。欠伸が出るのも仕方ないことだろう。
私は、肩を揉みながら部屋を出ると、ドアを閉めて電気を消した。

二日して、葬儀は執り行われた。
棺の中、老紳士は安らかに眠り、その周りではあの青年を筆頭に数人がすすり泣いている。私は、それを少し離れて見ていた。近づく気にはならなかった。
神父は何やら諳んじて、呼応するように遺族や友人は涙したり肩を震わせたりする。神妙な気持ちで、私はその様子を目にしていた。何度経験しても、例えようなく不思議な光景だった。
ふと視線を上へ向けると、満開の桜が風に揺れた。
風情がある。ぼんやりとそんなことを考えていると、ワッと泣き声がした。何事かと気を向けると、老紳士の娘が墓石に縋りついて泣いている。その背中を、夫だか兄弟だかが、慰めるようにさすっていた。
「ほら、葬儀屋さんが困るから……もう」
彼が言うと、娘はしゃくりあげながらもなんとか墓石から離れることができた。それから、各人神父へ挨拶をして、解散していった。
各々帰路へ着く中、あの青年が私に近づいてきた。私は少し嫌になって、けれどもこんな時に浮かべるべきであろう笑顔を作って、
「素敵なご葬儀でした」
と言った。青年はにわかに息を呑んで、不器用に笑みを浮かべてみせた。
「葬儀屋さんのおかげです。ありがとうございました。……母が、亡骸を燃やしてしまいたくないと言うので、どうしたものかと思っていたのですが、貴方を見つけてよかった」
「お役に立てたようで、何よりです」
私の言葉に、青年はついに涙を零した。それを悟られまいと、深く頭を下げて走り去る。
その背を追いかけるように、桜の花びらが舞い落ちた。

***

私は、その気になるとどうにもうずうずと落ち着いていられないたちだった。なので、普段は外なぞ出る気にもならないのに、欲しいものがある、と思い立って散歩に出た。
この季節にしては晴れ晴れしく、雲がどこにも浮かんでいない空の下だった。肌寒いが、歩いていると汗ばんでくる。季節の移り変わりが、疎ましい。
わざわざ出なければよかった、出たからには目当てのものをどうにかしてもこの手に入れる。そんな冷めた激情でもって歩いた。
私は生活音を好かないので、イヤホンをして、音楽を流していた。そうしていると、生々しい感覚も作り物めいていて、閉塞的な安心感があった。無遠慮に侵食してくる歌は、私のやかましい脳内を力任せに落ち着けてくれる。
十分は歩いた頃、私は少女を見かけた。それは、赤ん坊の人形を大事そうに抱いて歩く少女だった。なんとなく微笑ましくなって、意識せず視線を向けていた。
すると、少女はぴたりと立ち止まった。なぜだか私もまた、イヤホンを外して立ち止まった。
「お兄ちゃん、おっきなブランコとぐるぐるしたのがある公園知らない?」
舌足らずに尋ねられ、私の方がたじろいでしまった。この子は、見知らぬ人間に親しげにしては危ないと教育されていないのだろうか。
「……アッチだよ。真っ直ぐ」
指差して伝えると、少女は赤ん坊の人形をなおのこと大事そうに抱き直して、道の先を見つめた。
「ありがとう。ばいばい」
少女は、嬉しそうに走った。
私は、その背が私には目もくれず遠ざかるのを見た。そして、空を見上げた。雲ひとつない。
急に、家の桜が恋しくなった。
私は早く帰りたくて走った。店に着くまで走って、品物を買って、家まで走った。途中息切れして止まったり、歩いたりもしたが、あれ程までに熱を上げて走ったのは、学生時代の嫌な思い出の中以来だった。
私は、川の流れに逆らう小魚のような気持ちでいた。
そうして家に辿り着くと、先客が待ちかまえていた。隣人であるその男は、玄関へ続く階段へ腰掛けて、暇そうにしていた。
彼は私を見つけると、片手を上げてヨォと言った。
「会う約束してたっけ」
「してない。まァなんだ、入れてくれよ」
彼は立ち上がりながらそう言って、私がドアを開けられるよう半身になって空間を作った。私はやれやれと思いながら鍵を開けて、後ろから着いてくる彼の気配を寒々しく思っていた。彼のことは人間的に好きなのだが、今日はひとりでいたい。
「それで、なんの用で来たのさ」
「暇だから、ちょっかいかけに。それにほら、お前んとこの桜、綺麗に咲いてるからさ。見ながら酒でも飲もうかと」
「うちは居酒屋じゃないんだけど」
「固いこと言うなよ。お前の好きな白ワインと、チーズとハム買ってきたからさ。あ、あと昼飯用に唐揚げとかサラダとか、塩おにぎりも買ってきた」
「歓迎しよう。でも準備はアンタが」
「はいはい。皿、勝手に出すからな」
そうしてリビングに着くと、私はソファにふんぞり返って彼が諸々の用意をするのを待った。テレビをつけて、てきとうなニュース番組を流してみる。世相のことはよく理解できないが、私の半径三メートル外では、多種多様なできごとが飽きもせずに目まぐるしく沸き立っているらしかった。
ひどく退屈で、私はチャンネルを十秒と待たずにアレコレ替えた。
「ほら、用意できたぞ。カーテン開けるぜ?」
彼は戻ってくると、そう言ってテーブルに料理を置いてカーテンを開けた。私の気質を知っているから、自分が座る側の半分だけ開けるに留めていた。それでも十分、外の桜は見える。
「あ、このニュース知ってる。怖いよなァ、子どもが親兄弟をメッタ刺しって。最近、こういうの増えてきたよな。嫌な時代になったもんだぜ。家族で殺し合うなんて、ゾッとくるな」
ソファに戻ってきて、彼は流れるニュースに眉を寄せながら言った。私はさして気にしていなかったのだが、彼が気に留めるので内容を注視してみた。
なんのことはない、ありがちな殺人事件だ。映画や小説なら、常套となるくらい。
「珍しいことか」
「珍しいだろ」
私たちはそれ以上、事件について語らなかった。私は飽きて酒に手を伸ばしたし、彼はチャンネルを替えてしまった。
「やっぱ、桜って綺麗だよなァ。別に花が好きなわけじゃねェけど、桜はいいな」
彼は、窓の外を観察しながらしみじみと語った。酒を飲みながら言うものだから、私は邪推した。
「花見を口実に酒が飲めるからだろ」
彼は、私の推理に笑った。図星だ。
「まァ、な。お前はあれか、毎年特等席で見られるから、もう感動とかしなくなったか」
「感動はない。でも、オレも桜は好きだよ。墓に咲いてる桜だから、いっそう妖美で」
「妖美、ねぇ。桜って、公園とかに咲いてるからいいんだと思うけどなァ」
「桜の樹の下には死体が埋まっている。桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです」
「なんだそりゃ」
「梶井基次郎、坂口安吾。桜の樹の下には、桜の森の満開の下。そもそも、桜は恐ろしいモノだってこと。桜は、河川敷や墓や戦場跡によく咲いてたものだ。うちに咲き誇ってる方が、生来正しいんだよ」
私がウンチク垂れたからか、彼は肩を竦めて黙り込んだ。私の理屈が理解できないのか、それとも納得しているのか。どちらでもかまわない。
結局一時間ほど居座って、やがて彼は自宅へと引き上げていった。

***

雨の中、ひとりの亡骸が運ばれてきた。それは大層美しい女(ヒト)で、私はちょっと面食らって、その亡き顔をまじまじと見つめてしまっていた。死体を愛好する趣味はないのだが、やはりどれだけ目に入れても、彼女は美しかった。驚いた。
腰まである長い黒髪は絹のように滑らかで、肌は雪のように白いがしっとりと艶めかしい。薄い瞼を飾る睫毛は長く豊かで、鼻は高く先が少し丸い。唇はまるで猫のように愛らしく怪しい形をしていた。
死の美を詰め込んだような亡骸だった。
「自ら命を絶ったそうです、手首を切って。風呂場で見つかりました。病院に運ばれましたが、間もなく亡くなったとのことで」
彼女を連れてきた某(ナニガシ)はそう情報を寄越した。私はそれを聞いて初めて、彼女の細い手首に無惨な切り傷が存在していることを知った。これはいけないと思った。せっかく美しいのに、損なわれてしまう。
けれども、同時に安堵していた。そうだ、彼女は既に死んでいるのだ。それが何故私を安心させたのかはわからない。
私は一呼吸して、運び人へ返事をした。
「では、彼女のご家族は」
「それが、天涯孤独の身だそうです」
「そうですか。では、土葬か火葬かは」
「全てお任せします」
「わかりました。どうも」
運び人は、そそくさと立ち去った。
私はひとり、暫くぼんやりとしてしまって、立ち尽くしていた。傍らには、美しい亡骸がある。私は呆然と見つめて、やっとのことで魂を取り戻した。
我に返り、彼女をあの奥の部屋へ連れる。
慎重に彼女を台の上へ移すと、裁縫用の道具を準備した。彼女の手首に残る、惨たらしい切り傷を縫い付けるためである。ざっくりと縫い合わせてはあったが、更に綺麗に、傷などないかのようにしてやりたかった。
ぷつり、ぷつり、と糸を取り払うと、傷跡はいっそう生々しく、悽惨に見えた。血の滴らない傷跡は、妙に芸術じみている。
私はそれこそ、様々な傷口を目にしてきたが、これほどまでに繊細で絵画的なものは、初めてであった。
「少し、触れさせてくださいね」
自然、私は彼女へそう語りかけていた。隣人の彼などがこの光景を見たら、正気を失ったと言ってまごつくに違いなかった。
そっと彼女の手を取り、針を差し込んだ。ひと針ひと針、熱心に取り組んだ。室内に流れる音楽も、遠いことのように両耳をすり抜けていくようだった。
そうして、指先も視界も痺れるほど疲れた頃、縫いものは完成した。我ながら上出来である。遠目から見れば、傷跡などあってないようなものであろう。
私は目を擦り、手を振ってほぐしてから、彼女の衣服を脱がせた。息を飲んだ。
まろみのある胸、程よく肉のついた腹や太腿は、ギリシア彫刻のような色気を放っている。作り物めいて、生を感じさせる。
私は放心したように彼女の身体に触れた。美しい黒髪も、眠るような顔も、彫刻のような肢体も、リアリティが失われていた。
時の経つことさえ、私は忘れた。
実際、どれ程の時間が経ったのだろうか。
「さぁ、終わりましたよ。お疲れ様でした」
そんなことを口走って、私は驚いた。どう過ごして終わりの時間が来たのか、わからなかった。彼女の顔に布をかけるのはとんでもない悪戯のように感じたが、結局はそっと被せた。
電気を消して部屋を出る時、私は気が疲れていた。

***

翌日、私は彼女の身体を灰にする決意をした。美しいまま形を失ってほしいと思ったから。
彼女は、眠り姫か白雪姫のようだった。キスでもすれば、目を開けて、欠伸をしながら起き上がりそうだ。「あら、貴方だったの」などと言いながら、笑いそうだ。
とんだ妄想である。
「化粧しますね」
私はやはり、気の抜けたように彼女へ声をかけた。返事はないので、勝手に手を加える。
下地を塗り、ファンデーションを伸ばした。頬と瞼には、ひとつのチークでほんのりと色をつけた。唇には、赤い口紅を少しだけ乗せた。
知らず止めていた息を吐き出し、一歩離れて彼女を見つめる。
私は白状せざるを得ない。私は、彼女に愛情を抱いていた。
それは、これまでの亡骸へ向けていたような労りによるものではない。純粋に、人へ向ける愛情そのものだった。
最早狼狽することもなく、私はそれを受け入れた。そして、頭の片隅へと追いやった。愛情などというものは、行為に擦り付けると無粋なものになってしまう。
棺の中で、化粧をして目を閉じる彼女は、美そのものなのだ。屍人(シビト)らしく色を失くしていた顔に生気が描かれると、死を疑いたくなるほどに。
彼女は生きていた。化粧を落とすのを忘れて眠ってしまった美女の姿をして、息をせず。
私は初めて、「死は旅のひとつだ」という、どこかで耳にした言葉を真に理解できた気がした。彼女は、旅をしているのだろうと。
彼女がどのような人生を歩み、何故自ら死を選んだかは、私には知りようもないし、その必要もない。ただ、私はさいごの宿になったのだ。名も知らぬ、どこへ向かうかも知らぬ旅人が、一晩身を寄せる宿に。
「さぁ、お時間ですよ」
私は彼女の髪にそっと触れ、棺の蓋を閉じた。そして賑やかしい気持ちで、厳かな気持ちで、彼女の身体を灰にした。
炎と煙が空へ向かうのを見て、私は薄く笑みを浮かべていたように思う。
「いってらっしゃい」
立ち上る煙は、彼女の足跡だろうか。私は小さく手を振って、見送った。
すっかりと灰になってしまった彼女の身体を引き取る者はどこにもいない。
私は、桜の下に立った。
彼女の遺灰を、土へ撒いた、木へかけた、花へ落とした。遺灰はさらさらと風へ舞ったり、雪のように地面を飾ったりした。
全て撒き終えてしまうと、私はそのまま地面へ大の字に寝転んだ。目に映るのは、灰色の空と、満開を過ぎた桜の木だけだった。ところどころに緑が見えて、季節が移り変わっていくことを教えてくれる、桜の木。
私は、じぃと見つめた。
それから、眠るように目を閉じた。
びゅう、と音を立てて強い風が吹き付けた。
桜が散るな、と思った。

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