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セピアと桜

自分の自宅兼職場に大きな桜が植わっているのは周知の事実だ。それを嫌がる人もいれば、風情があると好む人もいる。
葬儀屋に桜。
自分としては、この上なく噛み合った組み合わせだと思う。桜ほど静かに死を見つめ、見送る花はないのだから。
あからさまに死を嘆く様でもなく、かといって似合わぬ花でもない。ただ、死と掛け合わせた時に、妙にしっくりと静かに嵌る花だ。
子どもの時分は、花のひとつにここまで情を向けた試しはなかった。ただ、毎年同じ季節に何処かで咲いては枯れるもの。それだけのことで、興味関心を抱くものとは思っていなかった。
「で、いつからそんなに桜にご執心になったんだ?」
「いつから、と言われても」
「花になんぞ興味ないくせに、桜にだけは異様に熱を上げてりゃ気になるだろ。此処だって、あの桜があるから決めたんだろ?」
興味津々、問い詰められて口を噤んだ。あまり自分のことをべらべらと話すのは行儀が悪い。他人に感傷を当て擦るのは互いに気分の良いものでもあるまいし。
それになにより、言葉にするのは難しい感情なのだ。
「おーい?」
「……まぁ、慣れ親しんだ花だから」
「それだけかよ」
「苗字にも入ってるし、育った場所に並木道があったんだよ。だから、見慣れてるし、頭に残って印象が強く根付いた」
「ふーん……」
明らかに信じていないが、引き下がってもらうしかない。説明し切れる気もしないし、多く語るつもりもないのだ。
手元にあった、春限定の味だというチューハイを一気に飲み干し、ふぅと息を吐き出した。酔いの回る目で、窓越しの桜を見る。夜桜は、それは大層美しく闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
アルコールに浸った感嘆が零れた。
「まぁ、話したくないならいいけどな」
「隠し事は、女を美しくするらしい」
「うるせ、酔っ払い」
流れるような罵倒への文句も思い付かず、欠伸をして目を閉じた。
────別れる男には、花の名前を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。

*****

自分には、たったひとり親友がいた。
長い黒髪に、琥珀色の瞳をした、可愛い女の子。頭は悪いが優しくて、元気な子だった。
彼女はある日、自殺したのだ。
社会人になって、二年ほど経った頃だろうか。その日は、例年より少し遅れて桜が満開になったというニュースで持ち切りだった。
春の陽気が窓から差し込んでくるのが煩わしくて、カーテンも閉め切っていたのをよく憶えている。休日で、さしてやることもない、静かでくだらない、ささやかな一日。
翌日からの仕事にため息を漏らしてだらだらしていたところに、電話がきたのだ。はて誰ぞ、と確認すれば、電話の主は彼女だった。
何処かへ遊びに行こうとか、何か食べに行こうとか、今から家に行くとか、そんなことを言い出すのだろうと思っていた。
しかし電話越しに届いたのは、
「サクちゃん、今から会ってくれる?」
彼女らしくない、小さな声。会おう、ではなく会ってという言葉選び。
心臓が不気味に跳ね、一も二もなく承諾した。彼女は本当に嬉しそうにか細い笑い声を零し、場所を言うと電話を切った。
落ち着かない気持ちで着替えを済ませて、家の鍵も雑に回してとにかく走った。指定されたのは幼い頃に長く過ごした公園で、走れば五分ちょっとで着くような距離だ。
汗も拭かずに走って、やっと着いた公園には彼女しかいなかった。彼女は、焦点の合わない目をして、桜の木の下に座って此方を見上げてへらりと笑った。
綺麗なのにゾッとする笑みで、近づくのを少し、躊躇った。それでも、彼女は安心したように此方を見ている。
「……来てくれたぁ」
「呼んだの、そっち……」
「うん……でも、来ないかもって……それならそれで、仕方ないかなって……」
呂律の回っていない話し方、青白い顔色、少し震えている体。垂れ下がった手元に転がっている、薬の抜け殻。彼女に何が起きているのか、知識がなくとも見当はついた。
何故自分を呼び出したのか、それも、なんとなく理解できる気がした。彼女は、明るくて人好きで、人一倍寂しがりなのだ。
だから、隣に座った。
彼女は、震える小さな手を一生懸命に絡めてきた。頑張ってきたんだな、と思った。
突然、戸惑いも不安も、寂しさも消えた。
「ごめんね、サクちゃん……」
「うん」
「そんな、つもりじゃなくてね……」
「うん」
「……ここの桜、きれいでしょ? だからね、そしたらね……サクちゃんの、顔が浮かんでね……」
「うん」
「会いたくなって……ごめんね……」
彼女が必死に身を寄せてくるから、苦しい気持ちになった。謝ってほしいとは、これっぽっちも思わない。
ただ、休めばいいと、それだけだった。
「いいよ、もう、いいよ」
今度は、自分から強く手を握った。冷えた掌を温めようとするように、ぎゅっと握り込んだ。
そうすると、彼女もそっと指に力を入れる。
眠りに落ちる前の、弱くて頼りない力だった。
何を伝えればいいのか、何を伝えたいのかわからず、自分は黙ったままだった。
彼女はそれを責めることなく、身を寄せて小刻みに震えていた。まるでカウントダウンが早まるように、荒い呼吸が耳を打つ。
それは少しづつ、不確かな音にかたちを変えていった。
その寸前、でも耳はしっかりと聞こえるらしいという知識が突然頭の中に湧き上がり、息を吸い込んでみる。何か、気の利いた言葉が出てこないかと、そう思って。
「……桜、好きなの?」
「うん……サクちゃんに……そっくり……」
「自分?」
「そう……だいすき……」
「……そっか。疲れたね、もう、寝ていいよ」
最後まで聞こえていたかは、今となっては知りようがない。震えていた体がぴたりと止まって、頭が膝の上に滑り落ちてきて、握り合っていた手を自分だけが繋ぎ止めていて。
脈を測ってみても、何も感じとれない。息遣いも、何もない。
死んでしまったのだと、理解するのに少し時間がかかった。けれど不思議なことに、彼女を可哀想だとか哀れだとかは思わなかった。
穏やかな表情で、大好きな桜の下で、眠るように旅に出たのだ。きっと、それを哀れに思われたくはないだろう。
こうなるまでに何があったにせよ、だ。
「頑張ったね」
その言葉は、思った以上に素直に聞こえた。
彼女の髪を撫でながら上を見上げれば、満開の桜がそよ風に吹かれてきらきらと輝いている。なるほど、彼女の桜好きが理解できた。
いい花だ。
死体と、桜と、その両方に身を預けながら、凪いだ気持ちで目を閉じる。次に開けた時、景色は何も変わらないと知っていた。
けれど、確実に何かが変わった。この日を境に桜が散っていったように、何かが。

*****

「……寝るならちゃんと布団いけよ」
ぼんやりした耳元で響く声に、つい眉間に皺を寄せてしまう。どうやら、少しの間意識を飛ばしていたらしい。
目を擦りながら身を起こすと、彼が呆れたように立ち上がるところだった。
「帰るの?」
「なんだよ、珍しい。寂しいってか?」
「いや、今すぐ上着を着て出てってくれ」
「可愛くねぇの」
「眠たい」
ぼすん、と音を立ててソファに沈むと、酒に浸った頭が少しだけ痛んだ。二日酔いにならないよう、眠る前に水を飲むべきだろう。
ぶつくさ言いながら帰り支度をする彼の様子を見ながら、先程の夢のことを考えた。
今でも、あの日のことは鮮明に思い出せる。音も、匂いも、感触も、感情も。
良くも悪くも、強く大切な記憶だから。
窓から見える夜桜が、そよ風に揺れる。
「……教えてもらったんだ」
「んー?」
「……彼女にさえ、恋心なんか抱いてなかった。そうじゃなくて、好きだった」
「……そうかい……ま、お前らしいわな」
「だから、桜が好きなんだ」
「……そうかい」
死んだ人のことを思い出すと、天国でその人の周りに花が咲くという。
彼女の傍には、きっと一本の桜が咲いているだろう。吹雪のように花びらを散らす、あの公園にあったような大きな桜が。
そして、彼女は花びらに囲まれて笑うのだ。前よりもっと、楽しげで屈託のない、子どものような顔をして笑うのだ。
毎年、終わることなく。

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