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手向け花

親友が死んだ。
それはそれは憎たらしいほど青い空が地上を見下ろす、三月の晴れた日のことだった。
連絡をしてきたのは奴の母親。途中から泣き始めてよく聞き取れなかったが、「葬儀は明後日」と言っているらしいことはわかった。
親友の葬式。……出たいとは思うが、身内の葬式でもないのに急遽仕事を休むこともできそうにない。どう言葉にしたかは忘れたが、空いている日に花を手向けに行くと伝えた。
電話を切ると、静かな喧騒が耳についた。窓の外から聞こえる風や、自転車や車の出す音に、人の話し声。春とはいえまだ寒いから、とつけられている暖房の機械音と、時計の針の動く音。
あのよく喋る親友はもう、そのどの音も聞くことがないのかと思うと、妙な気持ちだった。実感が湧かない、とは少し違う。
奴はもうこの世に存在しない。それは理解しているし、そうなのかと思う。けれど、俺にとってのこの世があまりに小さすぎて、何処か別の国へ行ったくらいの気軽さにしか感じられない。それこそ、電話したら三コールくらいで出てくるような気がする。
LINEを確認してみると、奴へのメッセージに既読はついていなかった。
『来週火曜にサイゼ、何時にする?』
返事を待っていたのだが。
──来週の火曜、永遠に来なくなったな。
未読のまま止まった約束に、何故か笑いが零れた。時々約束を反故にすることのある奴ではあったが、埋め合わせもする奴だった。それがもう、二度と会うことさえないとは。彼奴らしいのか、らしくないのか、今となってはもうわからなくなってきた。
『七時にしようや』
ぼんやりと眺めていたら、なんとなくそう送っていた。
返事など来るはずがない。
「阿呆だ……」
口の中でそう呟いて、スマホをソファへ投げる。静けさが嫌に耳について、テレビの音で掻き消した。俺には関わりのないニュースはいくらでも流れてくる。
意味不明な株価情報。
何処ぞの街の殺人事件。
遠い道路での事故。
過去から続く裁判の決着。
海の向こうの戦争。
芸能人の不祥事。
…………あの馬鹿の死を悼む人間がいる、などというニュースは聞こえてこない。当然だ。人はいつだってどこでだって死ぬし、彼奴は有名人でもなんでもない。生きていたことも死んだことも、知っているのは彼奴の家族と友人だけだ。
そしてそれすら、いつかは忘れられていく。本当に、妙な気持ちだった。

****

数年ぶりに舞い戻った地元は、細かい所が変わっていて、見慣れた景色の中に異物が紛れ込んでいるようだった。
駅前の風景は、近代化している。今にもぺしゃんこになりそうだった建物は新築に変貌し、草木が自由に伸びていた箇所は車で埋まるロータリーと化していた。
風の吹き付ける音さえ、異物だった。
今の家から電車で二時間弱の距離だというのに、過去か未来か、はたまた別の国にいるようだ。それなのに、確かに昔暮らした土地なのだ。
……あまりいい思い出は無い。
駅前からタクシーを呼んでも良かったのだが、気が向いたので歩くことにした。奴の実家は、最寄り駅から歩いて二十分程だ。
線路沿いに歩くと、小さな公園がある。子ども心にも物足りなかった公園は、最早小さな空き地だった。遊具は殆ど撤去され、残るのは安全性の高いベンチだけだ。
誰がこんなものを公園と思うのだろう。
それでも、小学生や中学生の時分は此処に来ていた。たいてい、邪魔されずに読書したり寝たりするためだ。
あの頃はそれなりの大きさの木があって、その上に登って座れた。風を感じて、ひとりきり、穏やかに、平和に、過ごせた──
『お前ほんと此処好きな。ちっちゃいし、遊具だってブランコと鉄棒と、あの変なぐるぐる回るやつだけじゃん。あれも危ないから持ってっちゃうってさ』
『だからいいんだよ。こんな物足りない公園で遊ぶ子なんていない。秘密基地みたいなもん』
『秘密基地にしては丸見えだよな。でもいいかも。なぁ、俺らのお決まりの集合場所にしようぜ、此処。いつもの場所で、つったら此処に集まんの。スパイみたいでかっけーじゃん?』
『ガキかよ』
『ガキだよ。いいじゃん、此処は俺とお前のハチ公前ってやつだ。知ってる? 渋谷のハチ公前って、待ち合わせ場所のお決まりなんだって。母さんが言ってた』
『はぁ?』
……そんな会話の流れから、彼奴と俺は遊ぶ時には十中八九この公園で待ち合わせた。だいたい彼奴は遅れてくるから、俺はいつもブランコに座って待っていた。
そんな公園を通り過ぎると、あとは家が建ち並ぶだけだ。線路の向こうには児童館や小川もあったが、此方側には大したものが無い。思い出してみると、彼奴と遊ぶ時にはいつも線路を越えていた。俺はそれを儀式のように思っていた。
なんのことはない、ただ踏切を渡るだけ。
それでも、まるで境界を越えて異世界に出掛けるような楽しさをおぼえていた。子ども特有の高揚感だろう。あるいは、逃避への憧憬だ。
線路は続く。
線路沿いの町並みは駅前と同じく細かな改変が施されていた。見慣れない分かれ道に、失くなった植物たち。何年も足を踏み入れていなかった事実が、視覚的に明らかになる。
綺麗な一軒家を見ると、わざわざこんな所に住まなくとも、と思ってしまう。口を出す必要のないことだが。
こんな家のために、美しく大きかった木々が消えてしまっているのが残念でならないだけだ。……春や秋になると彩り豊かで、それだけがこの辺りを色付けていたのに。

****

「お久しぶりね」
奴の母親は、目を伏せたまま言った。流石に喪服は着ていないが、声も表情もまだ黒い服を着込んでいる。息子を亡くしたのだから、今後数年は立ち直らないかもしれない。
……こういう時の作法は、生憎と教わっていない。
「この度はご愁傷さまでした。あの、これ」
頭を下げて、持参の菓子折りを渡すと、彼女は頑張って笑みを作り、陰鬱そうに受け取った。
「ご丁寧にありがとう。……お茶でも飲んでいく?」
前を歩く彼女をゆっくりと追いかけながら、首を横に振った。見えていないだろうことを思い出し、なるべく失礼にならない言葉と声色を探す。
「いえ、線香をあげたらすぐにお暇します」
「……そう。どうぞ」
仏壇は、子ども部屋に置いてあった。
彼女はそそくさと居間の方へ向かってしまったので、勝手に入らせてもらう。この部屋も、町並みと同様変化を受け入れていた。
尤も、大きな変化は仏壇だが。
きっと彼女の意向なのだろう。飾ってある写真は、赤ん坊の頃から大人になるまでの数種類にも及んでいた。どれも良い笑顔だ。呑気で、底抜けに明るい。
──元気そうだ。
片笑みが浮かび、鼻をこすって誤魔化す。
線香をあげて、二三言心の中で呟いてみた。サイゼにはひとりで行ってやるとか、奢る約束だったのにとか、そんなことを。届きやしないから、自己満足だ。
息を吐き出して、部屋を出た。
「お邪魔しました。僕はこれで……」
居間でぼんやりとしていた奴の母親は、俺の声に肩を跳ね上げた。振り返った顔は、疲れ果てて皺だらけだ。目だけは、まだ若いようにも見えるが。
彼女は、斜め下を見つめながら小さく頭を下げた。
「来てくれてありがとう」
「いえ。本当に、残念でした」
「本当に。今でも信じられない」
「そうですね。……それでは」
長居する気もなかったし、かけるべき言葉もわからなかったので、そそくさと踵を返す。彼女の視線は追いかけてはこない。
悟られない程度の早足で玄関まで歩き、最後に深く頭を下げて扉を閉じた。鍵もチェーンも、驚くべき速さでかけられ、溜め息が零れる。
用事を済ませてしまえば、あとはもう家に戻るだけだ。また二十分歩くことを思うと多少うんざりはするが、運動不足解消とでも思うことにする。
しかし先程見たばかりの景色をなぞるだけの帰路は、思うより退屈で、流れる雲を見上げるくらいしか変化がない。気の抜けた鳩の鳴き声も、耳を撫でる風の音も、静かすぎる道路に染み込んでいた。脳味噌が空になるようなこの感覚は、けれども昔から嫌いではなかった。
歩いて歩いて歩いて、ふと足が止まる。
あの踏切だ。
無防備に開いていて、今なら何も待つことなく渡ることができる。別にどうということもないのだが、彼方側に渡ってみたくなった。
何か変わっただろうか。それとも向こうは何も変わらず、子どもの頃のままだろうか。──有り得ない。

****

此方側も、やはり駅前と同じだった。
細部から大枠にかけてちらほらと変化が見られ、居心地の悪さと感嘆をおぼえる。とはいえ、昔よく見た変な置物やら汚い看板やら、捨て置かれず残されたものも多く、安堵した。
思いの外楽しくなって、裏道を通ったり、路地裏を覗いたり、猫とじゃれたりしているうち、懐かしい場所に辿り着いていた。
──此処は何も変わってない!
たったそれだけのことが、ひどく貴重で例え難いことに思える。
のびのびと育つ草花に囲まれた小川と、一人分の大きさしかない木のベンチ。随分と汚れているが、当時のままだ。思わず「はっ」と息が零れた。
無駄に大きな木々の中、一本、たった一本だけ桜の木が生えているのだ。ベンチは、その桜の下に置かれている。
ゆっくりと座ると、ベンチは唸るような悲鳴を上げた。大人の体重に耐える強度はないかもしれない。
座ったまま見上げると、桜はほとんど満開だった。桃灰色の花弁が風に揺れる様は芸術的だ。こんなに早く満開になってしまっては、四月の入学式には半分ほど散り落ちているだろうが。それを思うと、まだ四月に満開になる時代に学校生活を終えていて良かったと思う。
昔から、桜が好きだった。
壮大な存在感で目を惹くところも、さっさと散ってしまうところも。儚い印象のくせに、豪胆な猫のようで、好ましかった。
亡き親友などは、散ったあとの桜は綺麗じゃないと酷い言いようだったのを憶えている。俺はその木が桜であるなら、見た目はなんだってよかった。
足元に落ちている、花の形を保ったままの桜を拾い上げ空にかざしてみる。
──死んだんだ、彼奴。
ふと思って、息が遅れた。桜をポケットに押し込みながら、喉につかえた息を吐き出し、小川の方に目を向ける。幾つかの花筏が、何処かへ向かって進んでいくのが見えた。今頃、彼奴はもう三途の川を渡りきっているのか、それともぐずぐずして渡し船を待っているだろうか。
……死ぬ、というのは想像もつかないものだ。それ自体は当然の現象でしかないのに、そこに行き着くまでの過程がそれに感情を与える。
相手との関係性。
共に過ごした時間の長さ。
関わりの濃薄。
相手の性質。
その死に様。
それらに点数をつけて、合計値によってその死を悲しむべきかどうかを決定するのだ。
俺は彼奴の死を嘆いて沈んで、一生喪にふくすべきだろう。点数はかなり高いから。
彼奴しかいなかったのだ。親友どころか、友人と呼べる相手も。喧嘩をしてもいいと思える、壊れても直せる関係性のある人間は。
それは俺の性格のせいだし、生き方のためだ。今更それを変えるつもりはないから、俺は一昨日、後にも先にも唯一の繋がりを喪ったと言っても過言にならない。
しかし、だからといってどうすればいいのだろう。彼奴が死んだからといって自分の時間を止めても、彼奴がひょっこり戻ってくるわけでもない。いつまでも囚われて生きていくのは性にあわないし、そんな人生はつまらない。彼奴のための人生でもない。
ならば、さっぱりと断ち切って日常に帰らなくてはならないだろう。
──置いてくなんて、お前らしいよ。寂しくなる、少しの間。
恨み言を呟いたとき、強い風が吹いた。
一瞬目を瞑り、身を竦める。風がやんでから目を開けると、ひらひらと桜の花びらが空に舞っていた。小川に、幾つもの花筏が浮かぶ。
遠くへ流れていくそれを見送りながら、ベンチから立ち上がった。そろそろ家に帰らなくてはならない。
腹が減った。
今度は寄り道せず、真っ直ぐに例の踏切へ歩いた。
カンカンカンカン……と音がして、待たされたくなくて走った。
渡り終えたとき、丁度遮断機が降りきる。突風と共に電車が走り抜けていく。
五月蝿くて耳障りな電車の音が、今は何故か清々しく聴こえた。
ポケットから先程拾った桜を摘み出し、線路へ投げ入れる。風に舞うこともなく、桜は石の上へ落ちた。現実世界に戻った寂寥と意識の浮遊感に、あることを思い出した。
──桜の別名は、手向け花だ。

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