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冬至と古代の巨石遺構

本日は、冬至。日の出から日没までの時間が、一年の内で最も短い日である。

古代人にとって、冬至は非常に重要な意味を持っていた。
それは、古代人が世界中に残した、様々な遺構によって明らかである。

例えば、アイルランドにある、世界遺産の古墳、ニューグレンジ。

ケルト神話では、愛の神オィンガスが住む場所とされるが、この古墳は、ケルト人がアイルランドに渡って来るよりも、はるかに太古から存在する。築造年代は、約5000年前、日本で言えば縄文時代のものである。
私は、2004年に訪れた。下は当時の写真。

渦巻模様のエントランス・ストーンが有名であるが、年に一度、冬至の日の出の時にのみ、このエントランスから長い羨道へ太陽光が真っ直ぐに差し込み、石室の床を照らすように設計されている。

五千年も前に、これだけ大きな古墳を作り上げるだけでも、大変な技術なのだが、それだけ厳密な測定が出来た事は、驚くべき事である。

同じような仕組みは、かの有名な、イギリスのストーン・ヘンジなどにもある。

そしてそれは、日本にも存在する。
例えば、秋田県鹿角市にある、国の特別史跡、大湯環状列石。

大湯環状列石は、日本最大のストーンサークル。約4000年前のものだ。
私が初めて訪ねたのは、1996年。初の本格的な長距離泊りがけ一人旅の、初日に寄った、記念すべき場所だ。余談だが、当時は大学生で金がなく、環状列石脇の、パラソルがついたベンチで、寝袋に入って寝させて頂いた。
ここには、その後何度が訪ねていて、ここに載せた写真は2010年のものである。

大湯環状列石は、万座遺跡、野中堂遺跡の、二つのストーンサークルから成っている。その両方の中心を線で結ぶと、冬至の日の出と、夏至の日の入りの方角と、ピタリと一致するのである。

また、どちらのストーンサークルも、石を菱形あるいは円形に並べた組石が、輪状に並んでいて、さらにその輪は二重の同心円を描いているのだが、その内輪と外輪の間に、「日時計状石組」と呼ばれるものがある。下の写真は、万座遺跡の「日時計状石組」である。

これは立石を軸に、その根元に細長い石を放射状に並べて、さらに外縁を円形で囲ったもので、ストーンサークル内でも特別な意義を持ったものである。その形から「日時計状石組」と呼ばれているのだが、実は、先述の冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ線には、この「日時計状石組」も乗って来る。ストーンサークルの中心から「日時計状石組」を見れば夏至の日没方向となり、「日時計状石組」からストーンサークルの中心を見れば、冬至の日の出方向となるのである。

「日時計状石組」は、万座遺跡、野中堂遺跡の双方にある。上の写真は、野中堂遺跡のもの。

東京都町田市にある、約3500年前の遺跡、田端環状積石遺構(下の写真)からは、冬至の日、丹沢山系最高峰の蛭ヶ岳山頂に日が沈むのが見える(2009年の冬至訪問)。

学術的な調査が不十分ではあるが、縄文早期の遺物が出土している岐阜県金山町の岩屋岩蔭遺跡(下の写真)では、冬至、夏至、春分、秋分などの観測が可能とされている(2016年訪問)。

なぜこれほど、数千年も前の人々は、太陽の運行を観測する事にこだわったのか。高度な道具はなくとも、地道な観察によって、上に挙げたような設計を行う事は不可能ではない。しかし、30歳や40歳まで生きれば、長寿の部類にさえ入った時代だ。食べて、生きて、子孫を残すだけで精一杯の、現代人からは考えられない程ギリギリの暮らしであった人々が、長大な時間を掛けて観測を行い、多大な労力を掛けて巨石遺構を造るのに、伊達や酔狂という事はあり得ない。

が、その理由は、まさに食べて、生きて、子孫を残す、日々の生活の為なのである。この時代は、狩猟採集が食糧を得る主な手段であった(一部では農業も始まっていたが)。狩猟採集社会においては、太陽運行の変化、即ち季節の変化は、極めて重要な事象であり、その情報の有無は、死活問題であったのだ。

なぜならば、自然のままの、動植物を取るのであるから、どの季節に、どの動物がどういう行動を取り、どの植物がどんな花実をつけるか知っていなければ、餓えてしまうからである。文字も数字もない時代、その指標となるのが、太陽運行の変化であり、それを知る為に、風雪にも耐える不変の巨石構造物が必要だったのである。

そしてそれは、祭祀の場所でもあった。生命を左右する太陽、あるいはそれを通じて理解される時も含めた、この世の理に対する祈りの場であった。なかでも冬至は、太陽の勢いが最も弱まり、これから勢いを取り戻していく、「死と再生」の日であった。ゆえに、ストーンサークルは、同時に古代人の墓所となっている事もある。「死と再生」の祈りの場に墓を造る事で、過去の祖先や、未来の自分達、子孫たちが、死を経て復活する事を祈ったのであろう。
なお、上の写真は、大湯環状列石の復元石組で行われた「ストーンサークル縄文祭」のものである

このような冬至を祭日とする信仰は、古代ヨーロッパにもあったことは、上のニューグレンジやストーンヘンジなどで明らかである。そして、そのヨーロッパ古代宗教において重要な祭日は、キリスト教布教において、古代宗教を信じる人々を改宗させるために、大きく注目された。かくして、その「死と再生」の祭日は、イエス・キリストの生誕日──即ち、クリスマスとして、取り込まれたのである。

アイルランド北西の都市・スライゴの郊外、ドラムクリフの墓地。丸に十字を重ねた、ケルト十字といわれる独特の形態である。これは、古代信仰の強固なアイルランドにキリスト教を布教する際、彼らが信仰する太陽を、シンボルとして取り込んだ結果出来たと言われる。

なお、ドラムクリフには、アイルランド文芸復興の立役者、イエイツの墓がある(2004年訪問)。



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