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MP63_親友コンプレックスを考えてみる

親友コンプレックスが中学生時代まであった。当時の私には親友と呼べるお友達がいなかった。

親友の言葉の定義を調べてみた。

互いに心を許し合っている友。特に親しい友。

webilo辞書

仲のいいお友達はいたが、その子たちのことを「親友ですか?」と聞かれると「親友かはわからない。相手が私を親友と思ってくれているのなら、親友なのかもしれない。」と、なんとも歯切れの悪い、自信のない回答を当時していた。

中学生くらいまでは、「親友がいること」は、周囲では当たり前のことだった。
そんな中で、自信をもって「あの子は私の親友」と言えない自分が少し恥ずかしくて、質問されたくなかった。

私の中で親友とはこんなことができる人だった。

迷惑だと感じることを実施しても受け止め合える関係。
例えば、どうしようもない時、それが夜中であろうと早朝であろうと電話をして話を聞いてもらったり、家に行けるような関係。

今考えてみると極端だと思う。当時の私は、自尊心が今より低く、誰かに受け入れてもらえない自分は価値がないという考え方があった。どんな自分でも受け入れてもらいたい、けれども上記のような迷惑なことをしたならば更に受け入れてもらえないという考えが交互に入り混じるような感じ。

今でも私の定義の「親友」を挙げてみてと言われたら正直なところ思いつかない。
けれども、辞書にあった、「心を許し合っている友達」はいると思う。

また、全部を相手に受け入れてもらいたいと以前よりは思わなくなっている気がする。

人にはいろんな顔があり、その顔に応じて、お付き合いをするということ。それで十分だと思っているし、今の友人関係に満足している。

色んな顔は、無理をしていない自分の顔だけ。
無理をしていない自分を、各面から理解して受け入れてもらえていることで、十分幸せ。

  • 30代女性としての顔

  • 母親としての役割を持っている顔

  • 仕事をしている女性の顔

  • お笑い好きでおいしいもの大好きな顔

  • あんまり素直に甘えられない顔 etc…

自尊心が今より低かった時の私は、どんな顔にせよ、自分自身を受け入れていなかったから、それを受け入れてくれる親友がいないと思っていた。でも、私のことを大切に仲良く思ってくれているお友達はいたと思う。

自分自身を少しずつ受け入れ、認めることができるようになってから、親友がいるかいないかは大きな問題でもなく、コンプレックスでもなくなった。

周りのお友達が変わったとは思えない。私が自分を受け入れているかどうかだけが変化したのだと思う。

今の自分にも、別のコンプレックスが大なり小なりある。
それは、自分の中で形があるけれども、輪郭はぼんやりしている。

自分の中にあるコンプレックスと同じようなものは、他者も持っているが、それをコンプレックスとその人は思っていないことがある。
例えば、自分の容姿のことなど、自分がそれを見るとちょっと嫌悪感があるのだが、他者の容姿に同じような特徴があっても、嫌悪感はないし、かわいいと思えることも多い。

コンプレックスはそのことに対する自分の見方や考え方を深めていくきっかけの1つになる。コンプレックスのままおいておくとちょっとしんどいけど、向き合って見方や考え方を変えていけたのなら、成長の種と形を変えるのかもしれない。

今日は親友について思い出して、コンプレックスについて考えてみました。
ご一読ありがとうございました!!

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