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強迫症に翻弄される高校時代   闘病記【7】

高校生活

前回まで中学校時代を振り返りました。今回は高校時代にスポットを当てたいと思います。高校は一応進学を目指す学校に入りました。その高校は入学してすぐにテストがあり、春休みのうちに勉強してくるように言われました。範囲は高校生で習う範囲も入っていました。要するに予習して来てくださいということでした。私は「そんなのはったりだろう。中学の復習がほとんどだろう」と思って全然勉強しませんでした。

ところがテストでは先生の言う通りほとんどが高校で習う範囲でした。私はさっぱり分かりませんでした。その結果365人中362番でした。私はとてもショックを受けました。これまでの学生生活で勉強ができないという経験はしたことがなかったからです。大変な学校に来てしまったなあと思いました。

入学後も勉強には身が入らず成績は低迷していました。それには理由がありました。中学時代からの見る強迫がひどくなっていたのです。本を読むときに、丸の数だけでなく点の数も数えるようになったのです。また5文字の単語を見つけると、それを気が済むまで数えなければいけません。ページを何回もめくり直して5文字や丸、点を確認してやっと次のページにいけるのです。教科書を読むのが苦痛でした。

強迫症の症状

強迫は高校に入ってからも続いていました。学校へは電車で通っていたのですが、他校の生徒と一緒でした。私の学校ではヤンキーと呼ばれるような人はほとんどいなかったのですが、他校の生徒にはヤンキーと言われる人がたくさんいました。私は中学生の時と同様に「いじめられるのではないか?」という不安を抱えながら登下校していました。中学時代と同じ強迫観念に苦しんでいました。

一方で変わった部分もありました。それは前回も触れたように強迫観念の中に理不尽なこと全般が入ってきたのでした。具体的に言うと、親が死ぬとか車で事故に遭うというようなものでした。理不尽なことに対する不安がイメージされ(強迫観念)、その不安を打ち消すために縁起担ぎの行為(強迫行為)をしてしまうという典型的な強迫症でした。

そのため高校生になっても父親と風呂に入っていましたし、相変わらず家を出るのは大変でした。前にも述べたように、触る回数を縁起のいい数字まで数え、ぴったりこなければ次

の縁起がいい数字まで触るということを繰り返していました。中学校の時よりも強迫観念は多様化し、強迫症は全然よくなる気配がありませんでした。

クリニックへの通院

高校に入ってもクリニックには通い続けていました。すでに2年以上通っていましたが、相変わらず変装していました。やはり精神病であるということは恥ずかしいことでした。ところで高校に入ってから徐々にうつ症状が出てきました。なにもやる気が起きない日が増えてきました。学校を休むほどではないのですが何に対しても無気力な日があるのです。また眠れないという症状も出てきました。
クリニックでその旨を伝えると抗うつ薬、SSRIを処方されました。薬の効き目は分からなかったのですが、その頃から気分にムラがあるようになってきました。気分のムラによる躁鬱エピソードは次回述べたいと思います。

妄想

相変わらず授業中や休み時間は伏せって過ごしていました。伏せっていて何をしているかというと、中学校時代と同様に妄想をしていました。中学校の時はプロ野球選手になるというサクセスストーリーを描いていました。高校からは野球をやめてハンドボールを始めたため、プロ野球選手になるというストーリーは途絶えました。代わりに妄想したのが大学生活での恋愛ストーリーです。ちょうどそういう年頃だったのです。

妄想では大学に入ったら自分は病気が治って、社交的になり、全てがうまくいくというストーリーを描いていました。悲惨な現状から逃れるように、高校でも妄想に耽っていました。妄想では病気を抱えたありのままの自分は出てきませんでした。

私は病気さえなくなればうまくいくはずだと思っていました。今の自分は本来の自分ではなく、病気が治り何でもうまくいくスーパーマンのような自分像を描いていました。言い方が適切か分かりませんが、病気を自分の内側でなく外側に見ていたのです。どこかで病気は自分のせいじゃないと考えていたのかもしれません。

妄想の中では「あるべき」自分が活躍していました。それは現実の自分とは大きく異なっていました。そして現実世界では妄想と現実のギャップで苦しむのですが、背景には強迫症を生み出す完全主義や「かくあるべし」という「べき思考」があったのです。当時は全く分かりませんでしたが、高校生の私は、森田療法で言われる神経症患者の典型的な考え方をしていたのです。しかしそういった自分の神経症気質に気づくまでに24年間の月日を必要としたのでした。

誰にも打ち明けられない

そんな妄想に耽りがちだった私は、授業で寝ていることを担任の先生から注意されました。それも度重なったので職員室に呼ばれました。私は眠気がひどいこと、またやる気が出なくて困っていることを伝えました。そうすると担任の先生は心配して、「困ったことがあったら夜に家まで電話して」と言いました。
私はこの言葉を聞いて、「自分のことを心配してくれる人がいる」ということでとてもうれしく思いました。もしかしたら私の病気に理解を示してくれるのではないかという期待を抱いてしまいました。私は初めて「助けてください」という相手を見つけたと思ったのです。

そして勇気をだして夜電話してみました。寝てしまうのはクリニックで出される薬のせいだと伝えました。すると先生の態度は急変しました。「クリニックにかかっているのならお医者さんに相談してください。私にできることはありません」と言われたのです。そしてそれからは私の相談には乗ってくれませんでした。
私はものすごくショックを受けました。期待していた分落ち込みました。やっと自分のことを理解してくれる人が現れたと思ったのに、それはぬか喜びでした。「やはり誰も分かってくれない」そう思って落胆しました。

病気のことについては親や友達に、そしてクリニックの先生にも相談できませんでした。クリニックの先生も気分の落ち込みや、やる気が出ないことについては聞いて来るのですが、強迫症のことについては話をしませんでした。
今になって思うとひどい医者だと思います。積極的に相談しない私も悪かったのですが、患者の困っていることをろくすっぽ聞かず、ただ薬だけを処方していたのです。高校生になってSSRIを処方したのは、うつ症状に対してというより強迫症のことを考えているということだったのでしょうか?今になっては分かりませんが、せめて説明だけはして欲しかったです。

そのクリニックでは高校生になっても自分と近い年代の人はいませんでした。医者が私の強迫症に対して積極的に関与しなかったのは、自分が担当した子供の強迫症例が少なく、病識に欠けていたからかもしれません。私はこの時点でも病気に対する知識はなく、自分の頭がおかしくなったと思っていました。そして自分が狂っているという自覚があったので、誰にも病気のことを話すことができませんでした。

孤独でした。自分だけが頭がおかしくなったと思っていたのです。前に書いた通り、自分以外の「声」がして、それを「神様」が指令を出してくるように感じ従わざるを得ない。それに対してやめようと思ってもやめられない。こんなことは誰にも理解されるはずがないと思っていました。非常に苦しくてどうにもならないのですが、「助けてください」という心の叫びが表には出てこなかったのです。

膝のけが

さて先にも触れましたが高校ではハンドボール部に入りました。中学生の時に肘を痛めてしまって野球は困難になったからです。心機一転ハンドボールをがんばろうと思いました。ハンドボールはマイナースポーツですが、とてもおもしろくて一生懸命練習しました。
練習して少しこつをつかんだところで膝が痛み出しました。そこで整形外科に通うことにしました。MRIなどで検査をするのですが異常はなく、よく分からないとのことでした。精神だけでなく膝も分からないのかとうんざりしました。そして病院で治療とリハビリをすることになったのですが、ちっともよくなりませんでした。

治療を続けても治らないので内視鏡検査をすることになりました。内視鏡検査で「たな」が見つかったので検査のついでに「たな」を取り除きました。ところで検査は無事終わったのですが内視鏡検査をしたときに思わぬ症状が出ました。
麻酔後に誰でもなることがあるそうですが、いわゆる「ハイ」になったのです。看護師さんにしゃべりかけて止まらないのです。やめようと思っても言葉が止まりません。また後に分かることなのですが、膝は精神的なものからきていました。当時は精神の病で膝が痛くなるなんて思ってもみなかったです。誰もそんなこと知らなかったのです。

膝をけがしてからは病院に通い、部活には参加しませんでした。その頃から生活全体が荒れ始め、気分のムラが出てくるのですが、それについては次回述べたいと思います。

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