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極限状態で人肉を食べることを、罪だとは思わない

先日、彼氏と一緒に映画『深い河』を見た。1995年の映画で、それぞれの悩みや迷いを抱えた日本人観光客グループがインドのガンジス川に旅するというお話。元々原作小説が好きで、インド人(彼氏)から見たらどうなのかな、と気になったのだ。

結論から言うと、インド人から見ても変なところはなくて、良くできているらしい。約30年前の作品なのにインドの光景は全く変わってないな、と言っていた。

逆に30年後の日本人としては、たった30年でこんなに古いものかと思った。喋り方とか、人の見た目とか。入院してる人ってやっぱトトロのお母さんみたいに白い浴衣着て低い位置で髪くくってるんだ、とか。特に古風な夫婦のシーンは面白いくらい遠く感じた。

とはいえ内容やテーマは古びていなくて、苦しみが祈りに変わっていくまで、悩みもがき続ける登場人物たちの姿には心打たれるものがあった。キリスト教、仏教、ヒンディー教という異なる宗教が、普遍的な祈りの違う形での表れとして表現されていて、信仰のない心にもすんなりと消化される。

で、今回の話は、映画の中ではわりと傍の話なのだが、戦時中、飢えた日本兵が自決した戦友の肉を食べて生き延び、戦後もずっとそのことで良心の呵責に苦しみ続け、酒に溺れて死んでしまう、というエピソードについて。

そのシーンを見て彼氏は、「え、なんで?もう死んじゃってるんだからいいでしょ?その状況ならしょうがなくない?」と不思議そうに言った。

「やっぱそう思うよね!?」と私は声を上げた。

高校時代、国語の授業で『野火』を読んだ時、私もそう思ったのだ。

正確には、『野火』では主人公の仲間が食べるために他の兵士を殺しているので話が違うが、なぜか主人公はその肉を「食べるか、食べないか」というところで葛藤しまくるのだ。挙げ句の果てには、「私は殺しはしたけど、食べなかったからまだ救われるんだ」と思っていたりする。

いや、そこ?と思ったのを覚えている。

確かに人間を食べるという発想は気持ち悪いが、ちょっと詳しく想像してみれば豚でも牛でも気持ち悪く思えるだろ。そもそもここまでの極限状態なら、気持ち悪いくらい大したことじゃないだろ。

でも気持ち悪いんじゃなくて、罪だから、ということで葛藤しているらしい。罪は殺すことであって、食べることじゃないだろ。食べる段階では誰も苦しまないだろ。

でも授業ではそれを食べないことが「人間としての尊厳を守るための一線」なのでは、という議論がされていた。

全然そうは思えないけど、私は戦争を知らないし、平和な教室で机上の空論を並べているだけなので、いざそういう立場になったらそう感じるものかなあ、などと考えていたのを覚えている。

あの頃の私はヴィーガンではなかったけど、ヴィーガンになった今、意見はもっとはっきりしている。

生きるか死ぬかの極限状態では、すでに死んだ人の肉を食べることは倫理的に許されると思う。死んだ人は苦痛を感じないから。

食べて生き延びるために人を殺すことでさえ、議論の余地があると思う。

もっと倫理的に問題があるのは、肉を食べなくても生きていける選択肢がある時に、食べるために他者を殺すこと。そして、その肉を買うことでそのシステムを支えること。このような状況では、「食べること」と「殺すこと」はほぼイコールになる。

自然死した動物を食べるとか、農業をやっていて獣害を防ぐために殺さざるを得なかった動物を食べるとかは境界線上になってくると思う。

ヴィーガニズムでは「それをすることで他者に苦痛を与えることになるか」「自分も他者も含む全体で見て苦痛の総量が大きくならないか」という功利主義の視点で判断をする。つまり、自分が死なないために他者を苦しめるのは、ベストではないけど、さすがに許されるよね、と考えるわけだ。

毎日のように畜産動物を食べながら、極限状態での人肉食の可否を議論するなんて、今の私にはとても歪んだ状況に見える。

人を食べることは極限状態でも許されないほどのおおごとで、動物を食べることは当たり前なの?どれだけ人間を特別扱いするの?と。

ヴィーガンでなくても、似たようなことを考える人は結構多いんじゃないだろうか。プラクティカルな考え方というか。これって時代的なものなんだろうか?もっと上の世代からすると、「今の人はこんなふうに思うの??」とびっくりされるものだろうか。

機会があったら聞いてみたいものだ。

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