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命を知り命を立て、偪であらず福と為す

4月13日付の松下幸之助 一日一話に次のようにあります。

「運命を生かすために」
サラリーマンの人びとが、それぞれの会社に入られた動機には、いろいろあると思う。中には何となく入社したという人もあるかもしれない。しかしいったん就職し、その会社の一員となったならば、これは“ただ何となく”ではすまされない。入社したことが、いわば運命であり縁であるとしても、今度はその上に立ってみずから志を立て、自主的にその運命を生かしていかなくてはならないと思う。そのためにはやはり、たとえ会社から与えられた仕事であっても、進んで創意工夫をこらし、みずからそこに興味を見出してゆき、ついには夢みるほどに仕事に惚れるという心境になることが大切だと思う。(松下幸之助)


「運命を生かすために」必要となるのが、自らに与えられた「命を知り」、その上で「命を立てる」ことと言えるのではないかと私は考えます。安岡正篤先生は、「命」について次にように述べておられます。

「実は自分を知り自力を尽くすほど難しいことはない。自分がどういう素質能力を天から与えられておるか、それを称して「命」と言う。それを知るのが命を知る、知命である。知ってそれを完全に発揮してゆく、即ち自分を尽くすのが立命である。命を知らねば君子でないという『論語』の最後に書いてあることは、いかにも厳しい正しい言葉だ。命を立て得ずとも、せめて命を知らねば立派な人間ではない。」(安岡正篤)


更には、『論語』の最後の一篇である堯曰第二十の最後の一句には、次のようにあります。

「命を知らざれば、以って君子たること無きなり」
人にはおのずから天から授かった使命がある。その自覚を持たず、その使命を果たすべく日々努力しないものは、君子たる資格はないという意味です。


更に、安岡先生は、次のような言葉も残されております。

「命とは先天的に賦与(ふよ)されておる性質能力であるから「天命」と謂(い)い、またそれは後天的修養によっていかようにも変化せしめられるものという意味において「運命」とも言う。天命は動きのとれないものではなく、修養次第、徳の修めかた如何(いかん)で、どうなるか分からないものである。決して浅薄な宿命観などに支配されて、自分から限るべきものではない。」(安岡正篤)


安岡先生は、先天的な要素と後天的な要素に関して、幸福という観点からも別の言葉を残されております。

東洋の文字学は、福という字を考えて作っております。福という字の旁(つくり)=畐は、人間が努力して収穫した物の積み重ね、即ち蓄積を表わす形象文字であって、その蓄積の神の前に供(そな)えることの出来るものが福であります。自分の心掛けによって神の前に差出す事の出来る蓄積、これが本当のしあわせであります。自分の努力や心掛けによらずに偶然に得たものは、如何に都合の好いものであっても、それは幸であって、福ではない。この畐が神の前の福ではなくて、人の前の畐、即ち偪になったらどうなるか。偪という字もやはりふくとか、ひつ、ひょくという音がありまして、第一はせまるという意味であります。自分の持っておる財産だとか、地位だとか、或は名誉だとかいうような蓄積で、どうだ俺は偉いだろう、貴様はなんだ、というわけで人にせまることです。更に倒れる、ひっくり返るという意味に使う。人間・柄にもない地位や財産などを持つと、威張って、そして自らひっくり返る。示偏と人偏とではこれだけ違うのであります。(安岡正篤)


つまりは、幸福の幸とは、先天的に与えられた環境や資質による「しあわせ」のことであり自分自身ではどうしようもできないことであると言えます。即ち、天命や宿命に影響を受けることとなります。更には、福とは、後天的に自分の努力で勝ち得た「しあわせ」の蓄積のことであり、努力次第でいかようにもなることであると言えます。即ち、運命や立命に影響を受けることです。命とは、天が与えた宿命がベースにありながらも、自ら命を運び、命を立てることによって変えられるものであると言えます。換言するならば、立命とは主体性を持った「行動」であるとも言えます。誰かに言われたことを、言われた通りに、何も考えもせずただ行動しているだけでは、立命には繋がりません。即ち、それでは幸は得られたとしても、福を得ることが出来ません。加えて、自分の努力で勝ち得た「しあわせ」の蓄積であろうとも、その使い方を誤り自らの為に使用すれば偪となり、やがては身を滅ぼすことになります。

ここ最近になり急激に減少してきてはいますが、数年前までは多くの日本企業の中に、旧態依然の化石化した思考回路しか有していない、組織にとっては動脈硬化を齎すミドル層が存在しており、部下に対して自分同様の「極めて保守的な組織の構成員」になることを求めてくる人間たちが多くいました。その求めに対して、何も考えずに従い極めて保守的な組織の構成員になるということは、中国古典のひとつである陰隲録のお話に登場する、易者に自らの運命を予言され、それを信じ切っていた袁了凡そのものでしかありません。易者は、日本企業における化石化したミドル層であり、「お前は考えすぎだ!お前はまだ先を見る余裕がない。若い時というのは考え過ぎるものだ。何も考えずに上司の言う通りに従っていればお前は将来幸せになる。」と。 つまりは、あなたにとって何も考えずに極めて保守的な組織の構成員になることが、一番幸せな生き方なのだと易者に予言されていたようなものであるということです。

ご存知のように袁了凡は、禅寺の老子に自らの愚かさを一喝されたことが大きな契機となり、その後は自らで命を立てた生き方をしたことにより、結果的には易者に予言された年齢をはるかに超えた天寿をまっとうしたばかりではなく、出来ないと言われていた子供にも恵まれることとなり、「福」を手にしたと言えます。極めて保守的な組織の構成員になっていれば「幸」は手にすることは出来るかもしれません。しかし、それだけでは「福」を手にすることは難しいと言えるでしょう。

私はこれまでに、命を立てることなく生きてきた人たち、具体的には「考えるな!」という人間に多く出会ってきましたが、その多くは思考耐力がないばかりに、考えることから逃げ続け、自分自身の答えまでたどり着くことがなかった人や、答えを知らない人、或いは、答えを持たない人ばかりでした。そんな人達が定年を迎え手にしたものは、福ではなく「自分自身はこれまで何のために仕事をしてきたのだろうか」、或いは、「私はこれまでに何のために生きてきたのだろうか」という、人として振り出しに戻った根本的な問いであることが多いようです。「運命を生かすために」は、主体性を持って命を知り、命を立てる努力が不可欠であると私は考えます。


※こちらは2017年4月13日(木)のnakayanさんの過去の連続ツイートを読み易いように、補足・校正したブログ記事になります。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

記事:MBAデザイナーnakayanさんのアメブロ 2019年4月15日付

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