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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』映画評・かつて天才だった私たちへ

この世界の片隅に三原則

1.原爆ものではない
2.テンプレの反戦メッセージは書かない
3.様々な角度から論じることができる


はい、どうも。ササクマです。マッチングアプリ始めました。彼女募集中。

今回の映画評は『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。いきなり謎の三原則を掲げていますが、これはわたしが本作の映画評を書く上での心構えです。詳しくは作品紹介の後に説明します。では、さっそくどうぞ。


○何を伝えたい話だったのか?

■あらすじ(公式より引用)

誰もが誰かを想い
ひみつを胸に 優しく寄り添う


広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。昭和19年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。

ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりに気づいてしまう。だがすずは、それをそっと胸にしまい込む……。

昭和20年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。 そして、昭和20年の夏がやってくる――。

■前作と今作の違い

今作「さらにいくつもの」は、前作「この世界の片隅に」の30分長尺版です。しかし、単なる長尺版ではありません。前作で少し登場したリンとのエピソードにより、これまで見えていた物語の意味合いが異なってきます。

物語の大筋は同じはずなのに、なぜ見え方が変わってしまうのか。それはカメラの視点が前作よりも、すずの内面を丁寧に描いているからです。前作と今作を比較しながら説明します。⚠️ネタバレ全開。


■前作:自分を取り戻す物語

子ども心を持った18歳の少女すずの元に、いきなり結婚の話が舞い込んできます。特に好きかどうかもわからない男の家に嫁ぎ、今までと全然違う場所で新しい家族を形成することに。そこにロマンチックさは無く、むしろ痛ましく見えますが、当の本人は順応して大人になることを受け入れました。

それでいて子ども心は大切にしているため、大人の階段を上がる度に痛みを感じます。痛みを感じるということは、自分が何者かになる変化に抵抗している証拠であり、その内面が表に出てしまうのが怖い。空っぽに見える内面の床下には宝物があるわけで、そこへアプローチできるのは右手で絵を描いている時だけです。

本来ならゆっくり少女から大人へ成長するところ、彼女の上から爆弾が降ってきて踏みにじられます。右手を失い、居場所も失い、子どもにも大人にもなれません。懸命に生活する中で戦争が邪魔をして、何もかもが嫌になりました。

終戦後、すずと周作は相生橋の上で、2人が初めて出会った思い出話に浸ります。タイトルである『この世界の片隅に』の由来は、自分が主人公で世界の中心にいると思いがちだけど、ふっと心の底から誰かを思い出すと、それは片隅な気がすることから名付けられました。そんな片隅で自分を見つけてくれてありがとうと、すずは周作との関係性を見つめ直します。

そこへ唐突に再登場するばけもん。ばけもんの正体はすずの創作である「鬼イチャン」です。冒頭で現れたばけもんは子どものすずを背負い、今度はすずの子ども心を降ろすのでした。本作は人さらいから始まり、人さらいで終わります。最後にすずは広島で戦争孤児を拾い、母親となって自分を取り戻しました。


……ここで映画評を書き終えても良い気がしてきましたが、残念ながらまだまだ続きます。


■今作:世界を広げる物語

リンとのエピソードが追加されたことにより、周作が彼女に熱を入れ上げていた過去が明らかに。そのため前作で前向きな意味で捉えた思い出話も、実は不安定な足場の上で成り立っていたことに気づかされます。しかし、すずは割り切って彼との関係性を受け入れました。それは諦めのようでありながら、納得できるだけのプロセスが描かれています。

新規シーンが追加され、何が一番変わったのか? それは可能性です。今作ではリンと周作の関係が判明したことにより、すずは自分が代用品であることを意識します。リンはすずにとって呉で初めてできた同世代の友達であり、性格もボーッとしたところが似ているもうひとりの自分です。実は2人は幼い頃に出会っているため、もうひとつのありえたかもしれない可能性を示唆しています。

複数の可能性を提示することで世界が広がり、すずの周りにいた人たちのことがもっと見えるようになりました。例えば周作は前作だと何を考えているのか謎でしたが、女性に幻想を抱いてリンと結ばれようとして、でも反対されたから実態が全然わからないまま、偶像として記憶の少女を引き寄せたのがわかります。それが段々と実際のすずと一緒にいることによって、幻想から解放された彼の中で彼女の存在がリアルなものに変わっていきました。

他にも広島で被爆した親子、入市被爆した知多さんなど、すずにもありえたかもしれない可能性が提示されます。さらには時限爆弾に遭った日、すれ違った女学生たちが防空壕で亡くなっていました。その日は他の人にとっても重要な日だったことを知り、誰かからの視点を想像することで世界が広がります。もしかしたら被害を回避できた選択肢もあったかもしれない、より悲惨な目に遭ってたかもしれない。最善と最悪の狭間には、いくつもの可能性が無数にありました。

以上のことを踏まえると、橋の上の会話も意味合いが異なります。自分が主人公で世界の中心にいると思いがちだけど、いろんな可能性(片隅)の中で自分を見つけてくれてありがとうと。何も前向きじゃないし、何も乗り越えらえず、何もかも失ってばかりで、何も選べないまま諦めてしまったけど、今いる不安定な場所を自覚することでしか、その道の先にある未来は見えないのではないか。

先に亡くなった人がいて、生き残ってしまった自分がいる。喪失感に苛まれる中、周作がすずを見つけて、すずが周作を見つけたからこそ、空っぽだった自分にも大切なものが流れ込んできます。この世界の片隅で出会った人々、すべてのものが記憶としてすずさんに宿るのでした。


■まとめ

前回は不遇を乗り越えて成長し、主人公すずが1人で自分の居場所を見つけていく話。そして今作は色々なものを諦める過程を描きつつ、生きている人全員が同じ片隅に思っている話です。

……とまぁ、わかりやすかった前作と比べ、さらにいくつものは純文学のような深いメッセージが込められています。よく作品のレビューで前作の方が見やすかったとか、今作の方が原作に忠実だったとかの感想が見受けられますが、あまり参考にしなくて大丈夫です。どちらにも創作者の意図があり、それぞれで受け取れる印象が異なるように作られています。

映画は受け取る観客がいなければ、ただの映像でしかないので、残念ながらまだまだ映画評はダラダラと続きます。スタッフやキャストの紹介、本作の制作過程については以下の公式サイトをご参照ください。


○この世界の片隅に三原則

1.原爆ものではない

本作は「主婦の普通の生活」であり、「呉空襲の話」です。原爆ものとして扱われるのは不本意だと、原作者こうの史代先生自身が公言しています。なぜなら、広島出身なので最初から原爆ものだと思われがちで、呉でも戦災があり多くの人が亡くなっているのに、原爆の陰に隠れてしまうからです。

それに原爆ものは『夕凪の街 桜の国』で既に描いています。「夕凪の街」は被爆者の話で、「桜の国」では被爆2世の話。こうの先生は原爆をテーマに日本人の戦後を描きましたが、原爆以外の死である戦時中の話も描かなければバランスが取れないと考えます。そこで自身のもうひとつのルーツである母の実家、大好きな呉を舞台に『この世界の片隅に』を描きました。

原爆について知りたい方は、こちらの記事を参考にどうぞ。


2.テンプレの反戦メッセージは書かない

戦争は悲惨なので起こしたらダメ、ありふれた日常生活こそが愛おしいよね、なんてことは映画評を書くまでもなく誰もが理解しています。そこらへんの小学生も、血気盛んなヤンキーも、「他の国と戦争したいですか?」と質問したら「嫌だ!」と答えるのではないでしょうか?

例えばの話ですが、長い文章の映画評を読んで、まとめが家族の個人的な暖かいエピソードだと腹立ちません? ただの息子自慢かよって、何を良い話にしてんだよって、読んだ時間を返せって。結局わからなかったことを、なんとなくの文章力で誤魔化された気になります。わたしだけ?

せっかく作品を調べて映画評を書くのですから、答えが無い中でも調べた先にある「光景」を導き出しましょう。

……なんて偉そうなことを書いてますが、これは田中泰延氏の映画評を参考にしています。もしかしたらわたしは田中さんの回し者なのかもしれません。金は貰ってます。


3.様々な角度から論じることができる

原爆ものではない、反戦メッセージは書かないと述べましたが、本作を通してそれらについて考えるキッカケとなったのなら良いと思います。しかしながら、本作を利用して原爆を語ったり、テンプレな反戦メッセージに帰結するのは的外れです。

本作のテーマは「戦争もの」でありながら、その戦争を様々な角度から見つめています。先述した自分を取り戻す物語であったり、可能性の話であったり、当時と現代の恋愛観であったり、主婦の家事と男の仕事から見たジェンダー論であったり、はたまた戦艦大和であったりと、さまざまな切り口からアプローチできるでしょう。

で、わたしは何が読みたいのか? それを探るために本作を分析します。いつものアレです。ちなみに、わたしの映画評を読まずとも、以下の対談集さえ読んでおけば作品についての知識は十分に得られます。

……もしかしたらわたしは片渕監督の回し者なのかもしれません。金は受け取ってないです。てか、むしろわたしが片渕監督です。わたしの正体は片渕須直でした。サポート待ってます。


○リアリティの話

「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

はい、みなさん大好き映画の分析手法です。これやらねぇと気がすまねぇ体になっちゃってます。

本作はファンタジー作品ではなく、限りなくリアルに近い物語となっているため、どこがフィクショナリティなのかわかりにくいです。人によっては不思議要素を勘違いしちゃうかもしれないので、監督であるわたし自ら解説しましょう。贅沢ですね。(⚠️この後も監督ぶって書いてみたら、あまりにもウザかったのでやめました。)


■すずの存在について

すずさんは実在しない人物なので、そこが作品のフィクショナリティなのではないか? もう全然違います。なぜなら、登場人物の存在が1%の不思議だと言い張れば、ほとんどの創作物はリアリティの無い物語となってしまうからです。

まぁ、中にはそんなアニメや漫画もありますけどね。学校の美少女とかギャルが、なぜか自分のこと好きみたいな。確かにすずさんは可愛い。でも結婚したからって周作を無条件で愛すような、都合の良い萌えキャラにはなっていません。

すずが存在しないからこそ、舞台となっている広島と呉の街並みを徹底的に再現することで、彼女のような女性が生きていたかもしれない実在感を演出しています。

例えば作品の象徴的な相生橋ですが、すずが幼い頃は二重に架かっていたのに、物語の終わりでは一重です。なぜなら橋の形がV字型(明治11年)から、T字が合わさるような形(昭和9年)となり、V字が撤去されたT字型(昭和15年)に変わったからです。ただし、「冬の記憶(9年1月)」の段階ではT字が一部完成しておらず、幼い頃のすずは歩行者用のV字を歩いていたと。知ってるわけねぇ。交通不便そう。

これ原作では説明されてませんし、橋の名前すら出てきません。自分で気づいて疑問を持ち、好奇心で調べてみると、実はすずと周作からは原爆ドームが見えていた、という謎解きに近い仕掛けで驚くことになります。

相生橋の度重なる変遷について、片渕監督はこうの先生に質問せず、自力で解明したらしいです。調べることは好きですけど別に歴史マニアではなく、すごくリアリティのある街の中にすずを置くと、そこにいる彼女にも自然とリアリティが備わると考えてのこと。また、広島と呉の町がこういう歴史を辿ったことがわかると、過去も現在と地続きで繋がっていると感じられ、すずの実在感が増します。

それとは別に創作論での話をすると、本当に実在する人物のことを描けば物語が制限されるでしょう。本作はあくまでも「戦争」が主役であり、すずなどの登場人物は脇役です。すずは世界の片隅にいることが重要なので、誰かの体験談をそのまま描くとテーマが外れてしまいます。


■ばけもんについて

「冬の記憶」にて登場した謎のばけもん。最初に見た時、わたしは「これ何?」と思いました。原作だと夢か現かわからないようになってますが、映画だとすずが漫画を実際に書いており、すみが読んで笑っては要一に怒鳴られるシーンがあります。

なので映画では、ばけもんの存在はすずの創作であることがわかります。原作でも最後の方で「鬼イチャン」の漫画があり、ばけもんの正体が判明しました。

以上のことから、ばけもんはすずの子ども心の象徴です。広島に行って迷子になり、同じく迷子になった周作と出会ったのは本当なのでしょうが、そのエピソードをすずがおもしろおかしく脚色しています。

なぜ、ばけもんなのか? 周作がそう呼んだのを聞いたからです。すずはおっさんとしか言ってません。本当に何があったかはわかりませんけども、物語終盤の相生橋にてばけもんが出てくることで、すずは周作の中にも自分と同じような子ども心があったとうっすら覚えます。これまでは周作に対して違和感があったわけですが、それが「こういう人もいるんだな」と認められるように。

まぁ、周作のばけもん発言は原作だけで、映画には無いんですけどね。わたしの解釈がすべて正しいわけではないですが、ばけもんの存在がすずの子ども心に対して重要な役割を担っていることは間違いないので、ここは別に作品のフィクショナリティではありません。


■出会いについて

浦野すずという名前の情報だけで、なぜ周作は幼い頃に出会っただけの少女の元へ辿り着けたのか? すぐ読み返せる漫画とは違い、映画ではご丁寧に林夫妻が説明してますね。リンを諦めるための条件として、周作は咄嗟にすずの名前を挙げたらしく、林夫妻が苦労して同じ名前の女子を探し出したとのこと。

なので偶然に再会できたというよりかは、知らない所での思惑が交錯して引き寄せられたのでしょう。よくあるラブコメ漫画での食パンくわえて遅刻遅刻〜〜、みたいなロマンティックさは無く、そこには人と人との縁があります。

では、すずとリンの出会いは何だったのでしょう? 幼い頃、祖母の家の屋根下に住み着いていた少女が遊郭に拾われて成長し、大人になったすずと再会する。さらにリンは周作から求愛されており、その後で周作はすずの夫となっていた。とんでもない巡り合わせです。

しかし、不自然さはありません。なぜなら先述した通り、彼女たちが生きる街並みのリアリティが凄まじいからです。すずは闇市に行こうとして遊郭に迷い込んでしまいますが、迷ってしまう理由も背景にありました。

呉は山がいっぱいあるので、トンネルができると突っ切って向こう側に行けます。トンネルを掘れば交通の便が良くなるところ、物資を入れる倉庫が必要となったため、掘ってる最中でも開通をやめて倉庫にしました。

こういった事情で地理的な不便さがあり、いったん道を間違えると、来た道を戻るしか帰る方法がありません。だから上がる道をひとつ間違えただけで、もう二度と行きたい場所には辿り着けないのでした。すずが遊郭に迷い込むのは偶然ですが、ついつい迷い込んでしまうだけの構造があります。

また、リンはすずが呉に来て初めての同世代の友達であり、もう1人の自分です。2人は幼い頃に出会っているため、リンとすずの存在はお互いにとって、もうひとつのありえたかもしれない可能性を秘めています。

2人が出会ったことは物語上で重要な意味を持つし、運命的に思える再会にも収束するリアリティの道筋がある。だからこそ、これからわたしが指摘することは、ただの言いがかりだと思ってください。そんな都合の良い巡り合わせあるか?

同世代で仲良くなった友達が、夫の好きな女性だったって、なかなかにヘビーな設定では? 現実でも全く無いとは言い切れませんが、すずはリンも周作も、どちらも失ったかのような浮遊感に襲われたでしょう。

とゆーわけで、本稿では3人の関係性を作品のフィクショナリティとします。この仮説を念頭に置いといて、次章では原作者と監督の作品性を調べます。


○日常生活での気づき

■こうの史代

本作は戦争ものですが、その裏にはもうひとつのテーマがあります。それは本作が「最愛の家族になる」プロセスを描いたストーリーであることです。

当時の女性は見ず知らずの家にいきなり家族として入ってきて、今までの家族とは当たり前のように離れ離れになります。だから嫁ぎ先の家族は降って湧いたようなものだったにも関わらず、それが戦争ものでは「最愛の夫や家族が死んでしまった」話として描かれる。そこに疑問を持ったため、同じく戦争もので家族が最愛となる過程を描いてみたかったとのこと。

このテーマは全部の作品に該当しているわけではないですが、共通する作品に『長い道』があります。これは親が勝手に決めた婚約で夫婦になった2人が、どう夫婦になっていくかのお話です。

女癖が悪くギャンブル好きで甲斐性なしの夫・壮介と、そんな男を健気にも支える能天気な妻・道。典型的なダメ男として描かれる壮介ですが、それは親が勝手に決めた婚約に対する反抗であり、道からわざと嫌われようとする不器用な優しさがあります。

しかし、浮世離れした道は壮介に愛想を尽かさず、知ってか知らずかより献身的になっていくのでした。いかにも男性に都合の良い女性像ですが、漫画の表紙には道が1人でポツンと立っているだけです。夫婦の一体感を表すなら2人一緒に描くところ、壮介は裏表紙に小さく描かれていることから、作者は男性を冷めた視線で客観的に見ていることがわかります。(この世界の片隅に劇場アニメ公式ガイドブックより)

だから周作のことも、女性に幻想を抱く男として描かれます。男って、こういうもんだよねと。それが実際のすずと一緒にいる内に、女性に対する幻想が解かれます。周作の中で彼女の存在がリアルなものに変わっていくことで、すずも彼に対する違和感を取り除いて認めるのでした。

また、こうの先生は世間の風潮として、恋愛に幻想を抱きすぎていると指摘しています。よく戦争ものだと恋人が死んじゃって泣ける、みたいな感動ストーリーばかり見かけてしまいますが、そんな一世一代の恋愛をリアルでする人は滅多にいないでしょう。

情熱的な出会いではなく、たまたま縁があってその人と付き合って、違うと思ったら別れればいい。でも一緒に生活する中で愛情が芽生えたのなら、そこに気づく感動があるのではないでしょうか?


■片渕須直

2001年公開の『アリーテ姫』にて、初の長編アニメ映画監督を務めた片渕監督。作品の主人公であるアリーテ姫はお姫様だけども、外の世界に興味津々な普通の女の子です。それが魔法によって姫らしいお姫様の姿に変えられ、自分の魂を無くしてしまいます。そこから自分とは何かを取り戻すお話です。

すずも知らない家へ嫁ぎ、自分とは何かを失いかけます。浦野すずから北条すずへと名前を変えられ、アイデンティティが混乱しているがゆえに、自分と向き合わざるをえません。もはや『アリーテ姫』のリメイクとも言える『この世界の片隅に』では、いろんな人と出会って、自分をつかみ直していきます。

この出会いというファクター、実は『マイマイ新子と千年の魔法』でも機能してました。舞台は昭和30年の山口県防府市。平安時代は「周防の国」と呼ばれ、当時の遺跡や地名などの名残がある環境で、主人公の新子は千年前の街に想いを馳せます。その豊かな想像力で学校の友達を巻き込んで遊ぶのですが、大人の複雑な事情により子ども心が傷つくことに。

子ども心の痛みは『この世界の片隅に』でも共通してます。そもそも片渕監督が本作を自分で作りたいと思った理由は、アニメーションで「日常生活」を描いた時、その画面を見た時に幸せを感じるからです。それだけでドラマにするのは難しいですが、本作は戦争ものなので飛行機や爆弾、戦艦など異質なものが家事中でも映り込むからこそ、日常生活自体の価値とか意味が光り輝きます。

それは「マイマイ新子」でも同じことで、千年前の平安時代を再現しながら、当時の生活を想像して描きました。ただ日常生活を描きたいだけなら、別に現代の話でもいいわけです。よくある日常アニメでも、『よつばと!』の監督をしてくれとも思いますが、片渕監督は自分たちで千年前を画面に描きたい気持ちが高まります。

自分で調べて、貴重な資料を眺めていると、平安時代でも今と変わらない部分が見えてきたとのこと。買い物したり、洗濯したり、散髪したりを想像していく中で、当時の人間による合理的な生活の知恵があったりすると、過去と現在が地続きに感じられます。

そういうことがわかった瞬間、千年を超越できてしまった、と。

得体の知れない時代の断層を超えて、片渕監督は千年前も戦時中も現在と繋げます。昔の人たちは現代人と全く違う暮らしをしていた生き物ではなくて、生きるために工夫を凝らす自分たちと同じ人間だったのです。

片渕監督が時代を超越したように、わたしたち観客も作品を通して断層を乗り越えます。その世界には井戸やかまど、土間に畳、着物やもんぺがありました。自分たちの世界とそう変わらないどころか、自分たちと同じ人間が住んでいると気づけた時、わたしたちはすずさんと出会えるのです。



○親密性の変容

縁としての出会い、時代を超えた出会い。それぞれが見たかった光景は異なりますが、どちらも日常生活を通ってアプローチしました。

この出会いについて、先ほど粗探ししたフィクショナリティの「人間関係」を組み込みます。ひとつ保険をうっておくと、本作は物語のリアリティが異常なまでに強固なので、作品のどこに違和感を覚えるかは人それぞれでしょう。どこを叩いても絶対に壊れません。

ただ、わたしの持論としては創作者の願い、伝えたいメッセージはフィクショナリティと繋がっています。それが今回は「出会い」と「人間関係」でした。

一言で人間関係と言っても形は様々ですが、元々はすずとリンと周作の修羅場から気づけたことなので、ここでは恋愛に焦点を当てます。そして出会いについて、仮に時代を超えられたとしても、昔と今では結婚に対する意識も変化していることでしょう。

もしも「嫁に来い!」って急に押しかけられたとして、付き合いもせずホイホイ嫁げますか? 当時でも嫌なら断れたらしいですし、径子さんは自由恋愛で結婚してます。具体的に何が変化したのか、社会学的に分析していきましょう。ちょっと退屈かもね。


■純粋な関係性

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容―近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム―』を参考にします。この本は端的に書くと、近代社会における恋愛感情の歴史的変遷について分析したものです。

昔は今よりも女性が経済的に不利だったため、一般的に父親中心の家庭が制度化されてたところ、その家父長制が高度経済成長以降で実現した豊かさにより崩壊し、女性たちは夫婦が対等に協力し合う家庭を理想とするようになりました。そして女性たちが性的にも感情的にも、男性との対等を望む関係性を構築するようになり、男女間での親密性が変容してきているとのこと。

こうして新たに成立しようとしている関係性が一体どのようなものであるかについて、ギデンズは対等を望む女性たちの恋愛感情という観点から述べています。それによると、ギデンズは恋人や友人などの親密な関係が、現在では「純粋な関係性」に近づいていると指摘しました。この「純粋な関係性」とは何か、本文から引用します。

「純粋な関係性とは、社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況を指している。」(ギデンズ 1995, p90)

要するに、相手と一緒にいたいか、いたくないかです。


■子ども心とアイデンティティ

相手と一緒にいたい、いたくないの判断基準は何でしょう? それは相手と関係を結んだとして、自分が純粋(子ども)でいられるかどうかです。

つまり男女間での恋愛が、親友と接するような友愛と同じ意味になります。そうすると男女間以外の関係にも当てはまり、愛情や性関係は家族という容器から外へ滲み出てしまうのです。

「別にええやん。友達みたいな夫婦最高やん」と思うかもしれませんが、それでは未熟な恋愛ごっこの域を出ません。子どものおままごとと何が違うのでしょうか?

男女で対等な夫婦関係を望むのは当然です。しかし、その理由が子ども心を伴うものであるなら、かえって自己のアイデンティティが混乱してしまいます。

なぜなら、男女関係や友人関係が複雑に錯綜するからです。そこに葛藤が生じてしまう場合には、相手に応じて切り変えられる各々の自己が互いに矛盾を孕んでしまうことも多いため、自己の一貫性を見出しにくいでしょう。

また、複数の関係を円滑にするコミュニケーション能力の有無は、ありのままで対等の関係を望む純粋性と相容れません。なので恋愛を軽く見ることができず、重く受け止めてしまいます。自分の純粋さを理解してくれる相手を求めているからこそ、運命の出会いに憧れてしまうわけです。

本作は子ども心を大切にしていますが、子ども心を持ったままでは本当の意味での夫婦になれないことも伝えています。だからこそ縁で相手と出会ったとして、すぐに純粋さだけで関係を結ぶか決めるのではなく、生活を通して相手を知っていくことでしか愛情は芽生えないのではないでしょうか?

運命の相手なんていないので、違うと思ったら別れればいいとも、こうの先生はおっしゃってます。でも、すずは最後まで呉に残りました。本当は広島に帰ろうとしたけど、径子さんと和解して自分の居場所を見つけます。そして周作との関係も見つめ直せました。

どうせ他人と出会うのなら、より良い関係を築きたいでしょう。もし出会った直後に意気投合できたとしても、相手の純粋さを傷つけないような、繊細なコミュニケーションが求められたりします。そのへんの話は別の映画評で書いてるので、気になった方はどうぞ。

「ローマは1日にしてならず」ではないですが、人間関係だって一朝一夕で築かれるものではありません。ましてや夫婦なんて、そりゃ時間かかるに決まってます。夫婦だからこそ時にはぶつかって譲歩して、生活する中で良い所にも悪い所にも気づくことで、いつしか子ども心とも折り合いがつくのではないでしょうか。


○まとめ

実はノープランで書き始めた『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』映画評。本作の特徴として、後で調べた方が楽しめる仕掛けとなっているため、映画を観た当初は特に感動しませんでした。普通におもしろいとは思ってましたが、てっきり原爆ものだと勘違いしてたくらいの理解度です。

おもしろいのに何の話かわからないって、すごく気になりませんか? 人生の命題に近い。つまらないなら放置できますけど、おもしろかったら無視できないでしょ? エヴァンゲリオンとか。わからないまま死ぬのが怖い。

というわけで本作の別の映画評を探してみたら、マジでまともな映画評がありません。テンプレな反戦メッセージばっかり。読み飽きた。自分で読みたい映画評を読むには、自分で読みたい映画評を書くしかありません。わたしが8月生まれってのもあり、ただの興味本位で調べることに。冒頭の挨拶なんて、マッチングアプリを始めた報告ですからね。誕プレはサポートがいいです。

それがまさか、こんな所にまで行き着くとは夢にも思いませんでした。これほどまでに映画評を書くに適した作品も珍しいでしょう。本作の映画評を書くまで、わたしは子ども心こそが自分らしさだと信じていました。でもそうじゃなくて、自分は世界の片隅だと感じているからこそ、出会った人々との想いが自分を形成していくと。

あれ? 似たようなテーマの映画評を、前にも書いたことがあるぞ? はい、『若おかみは小学生!』です。終盤でボリュームある映画評を2本も読ませちゃって、ごめんなさいね。


読んでスキした前提で話を進めます。

「若おかみ」では仕事が自分をつくると書きました。仕事に誇りが持てないなら転職して、転職もできなかったら自分のやりたいことやれと伝えています。

しかし、すずがやっているのは家事です。外部と接触できないまま、毎日ご飯を炊き続けます。しかも右腕を失い、大好きな絵を描くことができません。

やりたいことをやるってのは、自分の子ども心に触れる行為だと、本作の映画評を書いていて気づきました。わたしも映画評を書くのは子ども心に触れて、自分を見失わないようにするためだったのです。そうでなければ、自分のことを片渕監督だと名乗りません。信じちゃった方はごめんなさいね。わたしは地方公務員です。彼女募集中。収入はある! 仕事やめてぇ!

でも結局、自分の子ども心に触れたままだと、高坂監督が目指す「滅私」には程遠いのでしょう。

子ども心を持っていると、自分が世界の中心だと思ってしまいがちです。特別な才能で飛び立てるのなら良いですが、もしも翼が無いまま自己中心的な性格でいると、誰かとの出会いも己を形成する糧にならず、純粋な自分を受け入れてくれる承認欲求でしかなくなります。

正直、誰かと出会ったとしても、嫌な奴の方が多いです。渡る世間は鬼ばかり。「あなたにはこんなことしかできないんだよ」と、「こんなこともできないのか」と現実を繰り返し叩きつけられます。

子ども心を持った自分は無敵です。無限の可能性が広がっており、野球選手でも、アイドルでも、ミュージシャンでも、漫才師でも、漫画家でも、何だってなれます。とてつもない全能感。

でも生きていく中で、赤の他人から「おまえは運動音痴で、バカで、ブサイクで、音楽も絵も下手クソだ」とか言われるんです。そういう凡人どものノイズを跳ね除け、自分の夢を叶えるべきでしょうが、どこかで彼らの声が自分の行く道を示してたりします。いや、許さんけどな。「Creepy Nuts」の『かつて天才だった俺たちへ』は、そんな歌です。ぜひ聴いてみてください。



子ども心を持っているからこそ、自分に大いなる可能性を感じます。そのため自分の現状に満足できない方は、「俺はこんなもんじゃないはずだ」と、「もっと評価されるべきだ」と思うでしょう。わたしの話だから書けます。

可能性が無限であるがゆえ、自己実現への欲求も際限がありません。めちゃくちゃに辛い茨の道です。純粋な自己の存在証明をする限り、この苦しみからは抜け出せないでしょう。

すずさんは右手を失い、自分の子ども心に触れる術さえ無くしてしまいます。それでも、すずさんはすずさんです。

純粋さは必ずしも自分らしさではありません。むしろ自分らしさを捨て、誰かとの出会いと思いが重なり続けることで、自分が生きる足場に未来が見えます。

とはいえ、子ども心を下ろす「滅私」に至るのは、無我の境地に近いです。並大抵ではない人生経験が必要となります。むしろ、子どもを育てて親になることでしか、純粋さの呪縛からは解放されないのではないでしょうか?

だからこそ、子どもの子ども心は大切にしましょう。それを無理に引きはがそうとするのは、戦争で右腕を切り落とすくらいの苦痛を伴います。できる限り温かく見守り、大人になることへの負担を減らしてあげたいですね。

天才になれなかった私たちへ。何者かになろうとして頑張るのは正しいけど、それで何物にもなれなかったとして、誤った道を選んでしまったわけじゃありません。無限にある可能性の中で、選び切れなかった道のひとつでしかないです。どれも過ぎ去った夢と変わらないのなら、今ある現実の上を歩み、わたしは私として生きて見せましょう

この世界の片隅から風景を眺めて、いろんなことに関心を持っていきたいです。たまたま縁で知り合った人が、いつか最愛の家族となりますように。

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