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最近のニュースとわたしの政治vol.1

世間一般に本を読むスピードが遅いとか発達が遅れているとかを聞くとその後の人生にどういう悪影響が及ばされるのかってことを心配するとは思うんだけど、本を読むスピードが遅いからと言ってその場で少し時間を時短できたっていうことにそれが後々どれぐらい影響してくるのかっていうことを考えるとそれほど大きい差異になったりするのではないのではないのかなんて思ったりする。少し読むのが早い成長が早い後になって見返してみると程度の差でしかなくて成長が後になって成長期が来たり能力が伸びたっていう人がいた時にそれがその人の人生にどういう影響を及ぼしているのかっていうことを考えると、例えばよく言われるのは就職活動。人が何かに伸長する時にいい先生に出会ったとかたまたま自分のそれに対する熱量が高かったとか没頭できる趣味がちょうど自分の好きなこととかぶっていたとか挫折を経験してそこから這い上がろうとしてバネにしたとか色々だとは思う。そんな中、短期間的に見て優劣がついたとかいうことで判定をもらうことがどれだけ後々伸びてきた人にとってしんどいことだったかとかいうのは基準をはるかに超えていることだと思う。今の世の中は発達が遅い人たちに対して優しい社会なのだろうか?前にも書いたことがあるかと思うが一度挫折してしまうと起き上がりにくい起き上がっても追いつきにくい社会構造になっているのは否めないのが日本社会だ。短絡的に短いスパンでの見た目でしか判断ができてなくて本当にいろんな人がいて就職活動をしていく上で、新卒か第二新卒かとかしか判断基準がないというのはあまりにも人を見ていないというか伸び盛りの時は人それぞれ違うし能力とか発達の度合いとか人と違って当たり前なのにそういう能力だけで人を判断してしまうのは何とも惜しいように思ってしまうまあ能力は大事なのだが、人を評価する時にはその人が、例えばこの目の前にいる面接に来ている子はお母さんたちのことをどういう風に捉えていてどういう風な関係を築いていてどういう頭で接しているのかっていうことを考えてそれを受け止めるとか、例えば朝ごはんに対してどういうこだわりを持っていてどこに重きを置くのかとか美味しいと思うポイントはどこなのかとか自炊に対する考えは何かとかそれを仕事に活かせるにはどうするのが良いのかとか、例えば寒がりな体とかメンタルが弱いとかどういう配慮をいつもしていてどういう風に向き合おうとしていて自分の今のコンディションなどに対してどう思っているのかとか人から見られた時にどういう返しをするのが良いのかとかその返しに対して自分の心が大切に扱えられているのかとか助けはいるかとか。その人自身を深く深くよく知ろうとしてその人ならではの問題点や悩み相談疑問などいろんなことを織り交ぜて考えていきながらその人という人を知って行ってこの会社で働く時にはどういう感じになっていくのかっていうのが、面接の時からもうビジョンが見えてるとかこの人は会社に入った時にあそこの部署の誰々さんと相性が良さそうだからとかたとえ発達障害だと言われていたとしても深く知って特性を理解して配慮があるところに配属されるとぐんぐん伸びてくれるということもあると思う。発達障害だからという理由で考慮されるところがあるかもしれないけれどでも発達障害だからと言って遠慮するんじゃなくこの人はこの時期の発達の度合いを見ると、ということも鑑みて伸びしろがあるんじゃないのか、とかいうところも考慮に入れて見て行って考えていくのがいいんじゃないのかと思う。人生は長くて例えば職人になる人もいるだろうし自分の生きがいを見つけてそっちに没頭することもあるだろうし一念発起してたまたま反りのあった人たちと起業する人たちもいるかもしれない、人生何があるかわからないそんな大海原に漕ぎ出す時に、狭量な目でその人を切り捨ててしまうのは本当に惜しいことだと思う。人は発達の度合いが違う。その人の本当の特性も見ずに面接で落とされてしまうとか本当のその人を知らずして判断するっていうのはあまりにもその子にとっても会社にとっても損がいっていると思うし失礼なことのようにも思うし悲しいことだと思う。人の人生にのためのことを思った本当にその人の人生のことを考えた社会構造になっているのだろうかと疑問に思う。就職活動以外にも部活動や学業成績家庭訪問などが学業のところで小中高大全てにおいて評価されて生きてきたのが私たちだ。先ほども言ったように発達の度合いが人によって違うとか時期的にまだまだ伸びしろがあって後になって伸びてくる人たちもいるっていうことなのにその短期間で評価してしまうのは恐ろしいことのようにも思う。6年間で1つの区切りにしているのもおかしなことなのかもしれないクラス制で能力も発達もう違いがある子たちが同じクラスにまとめられているっていうのもかしな話なのかもしれない。私はフリースクール製にしてたらいいと思うアメリカのように大学のようにって言った方がいいかもしれない。好きな授業を取って義務教育はあっていいのかもしれない、どこが伸びてなくて後々になってどれが伸びてくるのかっていうのがよくわからないっていうのもあれかもしれないのだけれども、四柱推命で占いだけれど時期的に出る発達障害とかもある実感しているから、それを通り過ぎたら楽しく勉強ができたり運動も伸びたりいろんなことが身の回りで変わっていくことになっていったりすることになるから。みんな違って当たり前なのだから一律にみんな横並びになることをすると思わないでいてよくできたところはよく伸ばして私は学業だけが小中高大学生のやっていることじゃないと思う人生長いのだからその子の人生にとって一番ベストであるということをやっていくのがいいと思っている。学業だけが全てじゃないその子にとってその時期に一番伸ばせば伸ばせればいいと思うことをやっていくのがいいように思う伸びにくいところを伸ばしていくのもまあ大事なのかもしれないけれどそれだけじゃなくて例えばじゃあ数学が不得意で英語が得意だっていう子がいたとしてその子が人生でどうなりたいのかとか社会に出てどうして行きたいのかとか自分はどういう風に生きていきたいのかっていうことをちゃんと考えられるようにしながら英語や数学に取り組んで行ったらいいと思う。私がそうだな学生の時にあったら良かったなあと思うことは社会に出た時にこれ見とけば良かったーっていうのが業界地図と四季報あと資格試験の参考書等々だ。業界地図はどこどこの会社が◯◯っていうところと手を組んでてそれが海外にどういう風に言っているのかとか逆に政治的側面はどうかとか考えるのに面白いと思ったしそういうところから企業っていうものの本質を見たような気がするし早くに見ておけばよかったと思った小学校ぐらいの時に見ておけばよかったと思った。四季報は読み方さえ読めれば会社がどういう具合になっていてどんな風に移り変わって行って今どういう状態であるかっていうのが見て取れると思うからそういうのも含めてサラリーマンになるのであれば見ていけばよかったなと思った。資格試験の参考書は言わずもがな資格を取っていればたとえ土地が変わったとしても食うには困らないようなスキルを身につけておけると思ったからそれをそうだなできればまあ資格試験は結構難しいから大学生の暇な時間の時に取れればそれは良かったななんて思ったりしたけれどもしあれだったら簿記試験とかもあるだろうし商業科の子たちはとってたし高校や中学校ぐらいのところから試験勉強を始めておいても良かったななんて思う。
まあそれを置いておいて私はそういう人生を捉えながら短期的に見ていくのではなく長期的にその子自身の能力や発達の度合いを見ていってその子自身の評価をしていくのがいいと思う。私が思うのは高校とか学校の評価で世間の社会に出た時の評価が決まるわけではないっていうことがあるのだからそういう短絡的に評価を受けるっていうのは私はちょっと嫌だなと思う。世間が評価するのは平均を取っている人たちが平均的な生活を送るためにという目線で評価していくということだと思うんだがでもそれだと発達が遅れている人たちは評価されないってことになるまだまだ伸びしろがあっていつ伸びるかわからないって言う人達かもしれないということなのに。確かに X で書かれていた通りそういう大器晩成型の人たちを待つのはギャンブルと一緒だっていう人たちもいるとは思う。でもそういう人たちを特性を分かってちゃんと理解してどういう人なのかっていうのを深く知ってて伸ばしてあげるっていうのも私たちが(後に書きますが私起業したいと思っているので経営者目線になってしまいます)経営者側の人たちがやってあげたらいいと思うことなのではないのかと思う。ここまではグレーゾーンらへんの発達障害の人にフォーカスして言ってきたことであるが発達障害を抱えている知的障害者の人たちも然るべきケアをされると日常生活が難なくスムーズに過ごせるようになるのかもしれない。私は平均的な人に基準を合わせる社会じゃなくて一番弱い人であろう障害を持つ私たちのような障害者に基準を当てて社会を作っていくのは大事だと思う。これは障害者だけケアしていればいいというわけじゃなくて全ての人が個性を持って成長の度合いも違うし発達の仕方とかも変わってくるんだからそういう全員の人を対象に市町村の役場が教師が見守っているような社会になっていったらいいように思う私たち障害者だけじゃなくて健常者と呼ばれる人たちだってケアがあると伸びるのも変わってくるのかもしれないし、人を深く知るということがどういう手助けがあったらその子にとって一番人生に豊かになることなのかっていうことがあるのかっていう経営者目線で見ると人をよく観察して深く考えて知って理解しててするのが今障害者含む全ての人の生きる日本社会にとって求められていることだと思う。
産休クッキーなるものが世でもてはねされているがというか X で叩かれたり話題になったりしているのであるが、こういう、誰かを妬んだり優劣で比較してしまったり上層階級というか自分より下に思っている人を見下したり逆に自分より上だと思っている人に劣等感を抱いたりする女特有の男にもあるかもしれないがドロドロしたところが大人になってから出てくるわけではなくてこれは小学生がいじめをするとかいうことに対しても同じことが言えると思ってて高度な心のやり取りの不完全燃焼を残さないようなところが求められてくると思うこの産休クッキーは妊婦さんになった人が気を使って会社にこのお菓子迷惑かけることになるからどうぞって言うので持ってくるものだがそれが妊活している人に対して配慮がないとかじゃあ結婚して浮かれている披露宴をあげたっていう人が婚活して失敗している人たちに配慮があるのかとかいうことになってくるとかいうことで炎上していたわけだがやはり日本社会におけるいじめも妊婦に対する配慮も、そして障害者に対する配慮も本質は同じなのだと思う。私は程度の差がもたらす比較的に優劣をつけてしまうようなそしてそれで傷ついていじめに発展していったりするような日本社会は長いスパンで見てったら人の幸せを人生において何が豊かにさせていくのかっていうことを一番重きを置いて見ていくと割と結構なことが解消されるように思えてならない。私は学校時代にというか幼稚園や保育園の頃から市や町が子供の成長を見守りながらその過程で発達の子達とか発達の度合いが遅くない子たちに対してもケアをしていくと長いスパンで見ていくとその子達が成長して大人になった時に、就職活動なんかに対しても、中長期的に見ていくとその場その場で優劣をつけるとかじゃなくて長い目線で見ていくことでその子の本当に幸せに思うような人生がどういう形で訪れるかっていうのを見ていくようになると思う。そうすると私たちが抱えていた劣等感や幸福感の低下などのネガティブな思いが消えていくと思う。私は生まれた時ぐらいから人に対してそういう目線で接して学業で比較されたりする時の対処法や心の持ちようなどを教えていくとかそういう情操教育とかのことに力を入れていくのがいいと思う。私たちに社会人の取り巻く環境は厳しく生活保護を受けている人に対して厳しい目線が注がれているところは確かだ肩身の狭い思いをして生きている人たちも大勢いると思う。まあそういう目で見られても仕方ないのかななんて思ったりするところはあるがでも私たち障害者にとってそれでも生きる権利を主張していくことで私たちが腕を振っても何も障るものがないそういう社会になっていったら私は誰に対しても壁とか障害がないような世界になっていくと思うからそれを実現したい。

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