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N・S・ハルシャの漂流術

森美術館で、南インド・マイスールを拠点に活動するアーティスト、N・S・ハルシャの個展「チャーミングな旅」を観た。たまたま観ることができた。ほんとうに何の前知識もなかったので、出会えたのは偶然で、幸運だった。
そこである作品を前に佇んでいたら、ふいに涙が出てきた。絵をみながら泣くなんて、久しぶり!

なぜ、泣きたくなったのだろうか。

ハルシャの作品が、それくらい自分にとって他人事じゃないからだろう。出会ってから1週間、たまにぼおっとする時間をつくって、そのことに思いを馳せていた。そのことについて書こう、と思うと、心の芯にちかいところに近づきたいと願う気持ちがまた生まれてきた。

会場は幾つもの「部屋」で構成されていた。「部屋」ごとにゆるやかなコンセプトが敷かれ、ハルシャのこれまで約20年に渡るアート活動の、可能な限り全貌を見渡そうというもの。なかには南インドやマイスールにかんする資料室もあり、そこにはハルシャの完成された作品以外の、スケッチやメモも置かれ、インタビュー映像をみることもできた。
作家や作品にかんする情報は他でも読める。ここではそのインタビューについて書いてみよう。
その映像のなかでハルシャは、毎日通っているという市場での一風変わった瞑想法(?)を実践して見せたり、アトリエを案内したり(「これは考え事をするテーブルね」「そこはリラックスするための庭」「ここは未完成の作品たちの部屋」……)しながら、制作にむかうアイデア、思考、手法、技術、姿勢などを人懐っこい表情でどんどん語ってくれた。
よく行くというお気に入りの場所(丘の上)から町を眺めて、「あれがマイソール、ぼくの町」と語るのがその映像のラストシーン(「マイソール」が「私の魂」と聞こえた)。記憶で書いているので曖昧だけれど、そこで彼は「目的に向かって生きるのではなく、漂流するように生きる」というようなことを言った。
ハルシャの作品群から感じられるのは、いま我々が生きているこの世界の、さまざまな感触だ。彼はその「世界」を望遠鏡で眺めたり顕微鏡で覗き込んだりして、描いたり、つくったりする。
その現在の「世界」がどうあれ、また、どう評価されようが、我々はみなそのなかで生きてゆかねばならない。目的や目標を設定してそれに突き進むのではなく……と語るハルシャの声を聞きながら、人は「何を成すか」ではなく「どうあるか」に尽きるということではないか、とぼくは感じた。自分がどこへ向かってるのかはわからずとも、「あり方」が決まれば、「あり方」を探ってゆけたら、自ずと行き先は決まる、と。

自分はどうだろうか。どんな「あり方」をしているだろうか。これから、どう「ありたい」だろうか。——ハルシャの作品や、ことば、佇まいから、ぼくは自分自身がまぶしく照らされているのを感じる。

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