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故郷・鹿児島にて②

吉野公園へ行ったのは、じつは、吉野台地には「しょうぶ学園」があり、1年ぶりに再訪したついでだった。
昨年はパスタを食べたが、今年は蕎麦を食べた。二八蕎麦も、蕎麦湯も、野菜の天麩羅も、とても美味しかった。一緒に行ったぼくの両親も「あの蕎麦を食べにまた行きたい」と言っていた。そこに「鹿児島らしさ」はない。鹿児島にはあのような蕎麦を食べさせるような文化がたぶんない。あってもかなり少数派だろう。どちらかと言うと関東風だ。帰省して、わざわざ食べるようなものか、という気もするが、あの空間でいただけるからまた行きたいと感じる。
「しょうぶ学園」は、知的障害のある園生と支援者である職員の共同制作による木工や紙の作品、陶芸、過剰なまでにからみあった刺繍を額縁に入れて見せたり服にデザインしたりする「nui project」や、演奏の「ズレ」を音楽に仕立てる楽団「otto & orabu」などで知られる。ぼくは何の前知識もなく、1年前に偶然、旅のフリーペーパーに載っているのを妻に教えられて知った。
施設長・福森伸さんが書いていることばの数々も、まったく福祉の人らしくない、芸術家のような装いで新鮮だった。
しかし、いま、ぼくが最も強く受け止めているのは、そんなことより、(福祉の人たちに対してだけではない)「もっと自前の仕事(事業)をやろうよ!」という彼らからの呼びかけだ。
「しょうぶ学園」が素晴らしいからと殊更に持ち上げようとしているのではない。「すごい」から惹かれるのではない。べつに「すごく」はないかもしれない。逆になんだって「すごい」と言おうと思えば言える。
そんなことはどうでもよくて、そこに美味しい蕎麦があり(パンがありパスタがあり珈琲があり……)、心地いい空間があり、いい感じで仕事してる人がいる、そして、そこにしかないものがあるからわざわざ足を運ぶ。
「しょうぶ学園」を他の場所で「見た」ら、色あせて見えた、という体験も昨年はした。そこは東京のギャラリーで、いい場所だったが、そこには「しょうぶ学園」はなく、きれいに仕立てられた「作品」が置かれているだけだった。そのことにイチャモンをつける気はないが(くり返すけどそこはそこで「いい場所」だった)、鹿児島で出会った「あの感じ」は、そこにはないのだった。
「場」の力、というのは、これまでぼくが思ってきた以上に強いらしい。

「そこにしかないもの」があるから、わざわざ足を運ぶ、と書いた。さて、「そこにしかないもの」とは何だろう。

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