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教育の役割とは何だろう?

数日前、世田谷区長の「教育」にかんするインタビュー記事を見かけて、読んだ。

こんなことが言われている。

「新学習指導要領では『主体的・対話的で深い学び』が掲げられていますが、これは『遊び』の経験がないと無理なんですよ。そこが、ほとんど論じられていないのが、おかしいと思っています」

これはぼくにはよくわかる。まがりなりにも"道草家"ですからネ?

「遊び」とは、こういうことだ、と言っている部分もある。

「たとえば芋虫をジッと3時間も見ているとか、クモが巣を張るのをじっと見ているとか、子どもが好きに過ごしている時間が遊びですよね。一見、何もしていないようにしかみえないし、学びというには効率が悪いようにおもえるかもしれない。でも、子どもの内側では何かが熟成しているし、何かを自分のものにしている。まさに、成長の過程なんですよね」

さて、この話を読んでいて、新学習指導要領では「主体的」をどういうふうに捉えているのか、気になった。それに「対話的」とはどういうことか。「主体的」と「対話的」の間にある「・」は何物か。それによる「深い」学びとはどんな学びか。

文科省のウェブサイトに、「平成29・30年改訂 学習指導要領、解説等」というページを見つけた。

まず、「学習指導要領改訂の考え方」を見たところ、学校教育の「目標」は「よりよい社会を創る」ことだと書いてあり、もう「人」を育てるという考え方ではないんだ… と少し暗い気分。

問題の「主体的・対話的で深い学びの実現(「アクティブ・ラーニング」の視点からの授業改善)について(イメージ)」だけれど…

「主体的」な学びとは、あらかじめ用意された教科の内容について「興味と関心」を持って「自己のキャリア形成の方向性と関連づけ」(どういう意味?)「見通しをもち」「粘り強く取り組み」「自己の学習活動を振り返って次につなげる」ということらしい。──これのどこが「主体的」?

「対話的」については、「子供同士の協働」「教職員や地域の人との対話」(「協働」は「対話」とは違うのだろうか)そして「先哲の考え方を手掛かりに考える」とあるが、「先哲」というのは何、昔の哲学者? あるいは誤字?(まさか?)──それを通じて「自己の考えを広げ深める」のが「対話的」な学び、ということらしい。

これ、大丈夫かな…?

ついでに言うと、「深い学び」というのは、「知識を相互に関連付けて」(各教科の知識を関連付けるというくらいの意味だろうか)「深く理解」したり(「学び」と「理解」は違うのだろうか)、問題を見出して解決策を考えたり、「創造」に向かうことらしい。

「深い学び」のイメージにかんしては、まぁまぁ(言いたいことは)わかるような気もする。けれど、この「主体的」「対話的」のイメージにかんしては、この説明を書いている人がそのことばの意味をきちんと理解しているとは思えないし、それを「深い学び」に結びつけるのは無理がある。

──というより、そもそもぼくは、学校教育によって子供たちが「深い学び」を得られるとは思っていない。

学校教育に限らず、ぼくも若い人たちに教える時は、「深い学び」を与えようとか、「深く学べ」と思って接していない。

ぼくのことばの師匠である作家・小川国夫は、こんなことを言っていた。

深い影のなかは、あとあと時間かけて探ればいい。大事なのは出合うことだ。

この考え方にぼくは賛成で、教育というのは、深いところまで行かせようとするのではなく、「出合い」の可能性をひろげるものであってほしい。

いま、ウェブの世界はとっても便利になったけれど、いつの間にか自分の興味あることばかりに囲まれて、自分と意見の合う人たちのことばに囲まれて、取り囲まれてしまうというようなことになっている。

これでは「出合い」は生まれようがない。

「他人」に出合うということ。自分の興味ないことに興味をもつこと。これが本当の出合いだ。

出合いの可能性をひろげるには、「場」がいるだろうとぼくは前々から言っている。「場」は、具体的な建物とか広場とかに限らず、「出合い」が「場」を誘発する。その「場」からまた「出合い」が生まれる。いろんなことが循環してゆくはずの「場」だ。

鷲田清一さんの言っていた、こんなことばも、かつてぼくはメモしていた。

 子どもが自然に育つ、勝手に育つというのが、いちばんいい子育て、教育のあり方ではないかとおもう。
 現代の社会には、そういう「自然に育つ」場所がほんとうに少ない。「自然に育つ」というのは、無視する、放置しておくということではない。そこにいたら子どもが勝手に育つような「場」がしっかりあるということである。

無視するわけでも放置するわけでもないが、勝手に育つ──こういうことに手応えを感じられる大人は、かなり少なくなっているだろうとぼくは思っているが、大人こそ学ばなければならない。

それにしても、うちは来年から子供を小学校に行かせることになる(はず)のだが、最近の学校事情を聞けば聞くほど、心配に、不安になる。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月16日。今日は、家の中を走り回っている機関車の話。

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