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時にはスイッチバック

通りすがりの菩薩。 さりげないので見逃しがちです。
真っ赤なモミジとからし色のコート。コントラストが美しい、いつぞやの写真。


とにかく今夏は猛暑でした。投稿を再開しようとしていた矢先に暑さにやられ、いくらか涼しくなるまで休むことにしました。・・・・・・などと調子のいいことを言ってみたりしながらも、今年ほど残暑お見舞い申し上げられたかった夏はなかったように思います。


秋ですね

秋と言えば栗、栗と言えば『イガグリ ダッフンダ(詞・曲 麗野鳩子)』。
うっかり毬栗を踏んだとしても足は痛くはない。痛いとすれば、踏んだ際に足を捻った場合だ、といったヤボな説明はnoteユーザの皆様には不要だろうが、何はともあれ、今年もまたあの迷曲をお楽しみいただきたい。
 
金木犀は今年も香り、散っていった。
この時期は、窓を開けると風が運んでくる金木犀の香りをルームフレグランスとして楽しんでいる。落ちた桜の葉も、赤々としたもの、桃色がかったもの、黄色から橙に変わり始めたものと、様々なものがある。ほのかに桜の香りもする。部屋を香らせるにはいささか弱いが、束ねて飾れば彩りを添える。
 
越冬に向け、水鳥の移動も始まっている。
なかでも鴨は早々に陣取りを始めている。真冬ともなれば、寒さによるものなのか、一旦体を肥えさせているためなのか、少し近づいたぐらいでは逃げないが、この時期の鴨はまだ警戒心が強い。私はというと、こういった鳥の様子や、夏に比べてトカゲを見かけることが少なくなったなぁ、といったことなどで季節の移ろいを楽しんでいる。移ろいはいい。何がいいかと言うと、お馴染みでもあるところだ。
初夏に開催されたアート・ウィークの類で、近所の公園が謎のシャイニー・オブジェクトに占領された。公園内の池を住処としていた鴨は、恐れおののいて姿を消してしまった。その後オブジェクトは撤去されたものの、夏が過ぎても鴨は一向に戻ってくる気配がなかった。それでも公園内の景観は美しく、池の水面で風に揺れてはキラキラと輝くオブジェクトを眺めてもみた。それはそれで和むものがないわけではなかったが、それでも鴨の代わりにはならなかったのは、それがピンク色であったからだけではないように思う。
そんなある日、公園内でアーティスティックな黒ファッションの男女数人を見かけた。何やら調査をしている風だった。またやるのかと肝を冷やしたが、あれ以来野鳥を脅かすようなアーティスティックなイベントは開催されていない。どこかで誰かがそういった判断を下したのだろうか。それとも、来訪者から野鳥がいないと苦情でも入ったのだろうか。だとしても不思議はない。当該公園には、園内で観られる野鳥マップが設置されているのだから。追い払ってどうするんだということだ。
シャイニー事件後、公園内では鴨どころか小型の野鳥もあまり見かけなくなっていた。風でそよぐキラキラした物体がそこかしこにあるという状況は、野鳥にとっては脅威でしかなかったのだろう。人間の芸術活動は、野鳥にとっては迷惑な話であった。こういった人工物に比較的早く耐性をみせるのは、カラスぐらいなのかもしれない。
少し前のこと、池につがいの鴨が戻ってきているのを見た。以来、日々数羽ずつ増えていき、池は賑わいを取り戻している。
間もなく冬もやってくる。

最近読んだ本/読んでいる本

最近読んだ中からいくつか紹介しようと思い、簡単にまとめようと思ったら案の定長くなった。個別のブックレビューは(たぶん)別途投稿することにして、ここでは本のタイトルと既に書いたドラフトの要約にとどめることにする。 

番茶菓子』、『雀の手帖』、『崩れ』幸田文

以前ブックレビューで紹介した『』を読んでから、久々に一人の作家の作品を集中して読んだ。露伴さんの娘さんという点を差し引いても、文さんは胆の据わった女性であったようだが、自然の描写となるとその文章は瑞々しく美しい。

日本的霊性』鈴木大拙

歴史の流れを知ることで、人は冷静になれたりする。歴史家が冷静なのにはそういった理由もあるように思う。議論となると、えてして感情に引っ張られる信仰・宗教の分野では、点ではなく線で観るアプローチが役立つものとなろう。
それにしても、むしろ古書ほど電子化されたほうがいいように思うのは私だけだろうか。

The Creative Act: A Way of Being』Rick Rubin

結論から言うと、早々に日本語版が出版されることを切に願う。分野を問わず、何かしらクリエイティブなことをしている人であれば、大いに参考になることが書かれている。タイトルに「A Way of Being」とあるように、「在り方」について書かれており、単なるハウツー本とは一線を画す。
私はとうとうグルGuruを見つけてしまったのだろうか。少なくともRickさんの髭は間違いなくグルっぽい。

賞レースは禁物だった

一作目の『丘の上に吹く風』を書き始めた頃、何を血迷ったか、偶然見つけたとある賞に応募しそうになった。応募に際し、文字数制限やら審査員のご都合やらを加味し始め、作品に雑音が入ってしまった。結局、応募自体を見送ることにしたが、雑音は取り去り切れないままnoteに投稿してしまった。応募することがモチベーションになる人もいるのだから、賞レース自体を否定をするつもりはないが、応募を決めるタイミングには気をつける必要があると思った。書き終えたものを応募するという流れであればよかったのかもしれない。なんてことを書いてはいるが、小説を書くこと自体が初めてのことで、何がどうだったかなど分かったものではないが。
以来競争からは距離を置き、その後の作品では削ぐことに専念した。考えてみれば、俳句のような短い詩でも伝わるものはちゃんと伝わる。ならば装飾は少なくていい、というところに落ち着いた。削った部分についても、別の形で残す方法がないわけでもない。
そういったわけで、『丘の上に吹く風』については現在有料にし、見直してから無料公開しようと思っている。有料ネット記事は余程でないと読まれることがないという特性を最大限に活かしたわけだ。
新作を優先したいため、再公開は先になるとは思う。

おわりに/年内の予定

短編小説『倒木三部作』と『白い尾のオナガ』いかがでしたでしょうか。
とにかく毎作品やり切っておりますので、さぞかし暑苦しいことでしょう。しいて心残りがあったとすれば、『白い尾のオナガ』の第9章『Hollow うろ』のトップに景物として添えた木の洞の画像です。近所の公園に頃合いの洞があったことを思い出し、撮影に向かったところ、伐採されていました。洞ができた木は、時にもろいということなのでしょう。それからしばらくうろついたものの、見つけた洞の大抵が木の根元にできたものでした。ならばと、普段は入らない急斜面を上り、また足首を捻りそうになり、危うく自分が倒木になりかけました。人間というのは不思議なもので、危機的状況になるとひらめくものなんですね。箱根登山鉄道のスイッチバック方式を採用して乗り切りました。傍から見ている人がいなくて本当によかったと思います。
結局、ふくろうが巣にするような樹上の洞画像は撮れませんでした。そして案の定と言うべきなのか、連載を終え、すっかり洞のことなど忘れていた先日のこと、なんと撮影可能な樹上の洞を見つけたのでした。

 ふと見上げたらありました。

掲載作品についてですが、例の如く投稿後もちょこちょこ直しを入れています。これからも気づいたら直しは入れると思います。ちなみに、今回どういった直しを入れたかというと、例えば『白い尾のオナガ』の第5章『Fellow 仲間』に出てくる鳩の鳴き声です。当初「ポポポ。グルッポ。」だったところを、「ポポポ。クルッポ。」に変更しました。 

年内の小説の投稿はありません。書く時の何倍もの時間を見直しに使いますし、熟成期間も必要なため、そんなにすぐには出せません。
(たぶん)小説以外の投稿をいくつかと、年末年始のご挨拶をもって今年を締め括ると思います。  

ここで一句

ポポポポポ ポポポグルッポ グルっぽい

鳩語です。


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潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)