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ビジネスと人生の幸福論 『脱都会主義』

なんとなくバンコクに来た。ユースホステルに泊まってみていろいろと感じていた点が線で繋がった感じがするので、取り留めもなく書きためてみる。

東京がおかれている現状

円安・インフレ・世界の経済成長率の低下・高原社会の到来・環境破壊の臨界点・過剰温暖化・二極化・日本の衰退など、すべてのベクトルがそこにある気がしている。東京の不動産は高騰、給与は伸びず、物価は高騰。

この先にあるものは豊かな社会か?いや、東京のスラム化ではないか。

高度成長期からの名残である全国民のサクセスストーリーがいよいよ本格的に終焉する。成長を前提とした社会設計がいよいよその役割を終える時代に入っている。今こそ誰もが自分の人生を一度立ち止まって哲学すべきタイミングである。

私が立ち止まったところで、世界経済の成長は地球が滅びるまで止められないであろう。そもそもこれは地球のためではなく、自分の人生のための話だ。
「勝ち組・負け組」という言葉がある。世界は一部の勝ち組と大多数の負け組で構成されている。勝ち組はこれからも勝ち続けるであろう。しかし、負け組が負けていると言えない豊かな社会が到来しているのだ。

豊かさとは何かを今一度考え直す

先日、カンボジアに行って水上生活者を見て確信したことがある。彼らは決して貧しくない。慎ましくも、選択肢が少ないながらも、毎日をしっかり生きていた。一方、東京の都心で暮らす日本人はどうか?ほとんどのモノは足りているであろう。無料で使えるサービスやインフラも充実している。

しかし、心はどうか?ぽっかり空いているのではないか?ユニセフの幸福度調査のなかで「人とすぐ仲良くなれるか?」「困った時に頼れる人がいるか?」「人と相談できるか?」という項目があり、日本の順位は低かった。一方カンボジアはどうか?調査データはなかった気がするが、おそらくその質問項目の順位は高いであろう。理由は家族やご近所などの人々が当たり前に支え合って触れ合って生きているからである。実際、自殺者は都心に多く、幸福度を大きく下げる代表的な要因はイジメであり、都会では学校でも会社でも氾濫している。

実際、私も東京の表参道に住んだ2年間でできた隣人の知人はゼロであった。東京といえば世界的に見て面積あたりの人口とGDPがトップ、さらに表参道と言えばその中でも都心中の都心の場所である。都心の全てが密集しているこのエリアにいて、誰とも知り合うことなく2年間を過ごしていたわけである。私自身が社交的でないとはいえ、人間という生物として見てもいささか変な話である。

疑問に思いネットで世界の幸福度について調べてみた。実際に個人で世界中の人々にインタビュー活動を行なっているブログがあって非常に興味深かった。

「あなたの幸福度は何%ですか?」という問いに対して、それぞれの国の人物が回答していたが、貧しい国だから低いわけではなかった。彼らが口を揃えているのは「貧しいし、選択肢は少ない。けど、家族や音楽があって慎ましくも幸せよ」というようなコメントであった。

その中で、1つ確信をついたコメントを見つけ、自分の中で1つの回答が出た気がした。それはブラジル人へのインタビュー「都心のスラムが一番惨めだ。犯罪が起こるのも仕方がない」という内容であった。

そう、つまりそこには隣を見て過剰に刺激される環境があるのだ。資本主義のエンジンである消費社会には、幸福と不幸の二極化の魔法がかかっている。カンボジアではルイヴィトンのTシャツを着た男性やバックを持った女性がたくさんいた。言っては悪いが、特に富裕層である雰囲気のない彼らに買えるものではないのでおそらく偽物であろう。

なぜ彼らがそういった見栄に手を出すのか?理由は「社会から憧れさせるように仕掛けられているから」に違いない。日本でも年収200万円以下のワーキングプアと呼ばれる層であっても、みんながブランドモノに憧れているような滑稽な構図がある。その欲望を生み出す仕掛けが広告でありSNSであり、企業が必死で取り組んでいるマーケティングとブランディング活動の正体であり、行き着く先が増え続ける貯金ゼロ世帯であり、それを助長しているのが消費者金融やフィンテックであろう。
多重債務者で任意整理を行なった知人が言っていたが「カードローンはポップな借金への入り口」だそうだ。AIによる最適な角度でSNSで煽られ続ける日々の中で、そのポップな入り口に辿りつくのも仕方がない。

東京は勝者と出稼ぎのための街

話を東京に戻そう。東京は要は「勝者である金持ちが遊ぶ街」だ。俗っぽく表現すると、外車を走らせ、高級レストランやホテルに泊まり、ブランドもので身をまとい、タワーマンションに住む。または西麻布で港区女子のような煌びやかな女性と遊ぶ。そのような街だ。起業して成功している富裕層の知人に聞いたが、私立小学校に入れ、入学金で120万円、授業料は200万円以上かかるそうだ。

以前、グループ会社で打ち合わせ後に新宿三丁目で飲みに連れて行った。打ち上げでもないし高級なところは避けようと思ったが、喫煙OKやうるさい店は避けたかったため15分ほどうろうろしたがピンとくる店がなくて、結局入った店はハリボテのような子綺麗な居酒屋であった。とりあえずのジャズが流れ、特に美味しいわけでもなく、テンプレ的な高級風な店内でのそのお店では、お会計が3人で2.5万円だった。その店に文句を言う気はないが「都会に消費されてるな」と感じた瞬間であった。
おそらく自分がもっと貧乏であればもっと血眼になって探していたであろう。しかし、今は別にその金額を払ったところで対して心は傷まない。そう思っている私のような中流の人たちこそがこの街にじわりじわりと消費されてしまうのだろうと感じた。

私は兵庫県の苦楽園口というエリアに住んでいる。芦屋の真横で高級住宅地である。そこでかなり高級な部類のマンションに賃貸で住んでいるがそれでも家賃は21万円だ。賃貸マンションであればこれ以上の家賃の家はあまり見かけない。引越ししたくないほど気に入っている素敵な住居である。一方東京ではどうか?グループ会社に自宅兼事務所でやっている会社があるが、彼はスタッフが出社できる仕事部屋が欲しいという理由で大森という品川から外側に2,3駅離れた下町に家賃30万円の家に住んでいる。その金額を聞いて信じられず見に行ったが、はっきり言って大したことのない家であった。言っては悪いが私の関西の自宅の方が10倍良い。

東京はすでに出稼ぎに行く街に変わってしまっている。山手線の内側に住むのはハードルが高く、頑張ったところで消費されてしまう。住めるのは独身貴族のような高年収のサラリーマン、小金持ちの起業家だ。青山などは成り上がった人たちしか住めないであろう。

表参道に住んでいた頃、ランチ代はだいたい1500円だった。激安の店舗を選んでいるわけではないが、高級店を選んでいるわけでもない。普通にパジャマの延長のような服装で食べに行く感覚で外食に行っていた。あの時から5年が経過した今では、物価高と円安でさらに値段が上がっているであろう。

東京では稼ぎも他よりいいが、出費もそれだけ高い。一般的な従業員がそこで富を蓄積しようと思えば我慢して小屋のような小さな部屋に住んで節約するか、千葉や埼玉から満員電車を我慢して通うことになる。もしくは家族みんなで我慢して実家に居座るケースも多い。この構図は東南アジア諸国が先進国に出稼ぎに来ているのと同じようなものである。

シンガポールに住む金持ちの知人はフィリピン人のメイドを雇っている。雇うというのは一緒に住むと言うことである。メイドには納戸のような小さな場所が与えられて、週1の休暇の条件で毎日一緒に住むのである。安い賃金でこき使われるのであるが、生活費がゼロなので給与がそのまま全額仕送りに当てることができる。

このメイドのお話はもはや人ごとではなく、東京という街もそうなりつつあると感じるのは私だけだろうか?普通の水準の日本人であればそこでは住めない。つまり出稼ぎに来る街なのだ。まともに住もうとすれば途端に消費されてしまう。

では日本全体も生活できないほど高くなっているか?といえば、まだそうではない。地方にはまだ救いがあるのだ。

地方都市にある世界観

地方に行けば過剰な欲望を刺激するものがないからこそ、平常な感覚が保たれている。ここでいう平常な感覚は人々の心の平穏さを保つ。金持ちには刺激は足りないかもしれない。生まれてずっとその地で育つ若者にも物足りないであろう。しかし、一般的な人にとっては欲望を逆撫でされる機会が少なく、穏やかで幸福度の高い環境がある。食べ物は安くて美味しい、二極化の幅が狭いため過剰な資本主義の刺激が少ない。みんなが貧乏なのではなく、みんなの水準が低くないというイメージだ。

ファクトフルネスでも証明されている通り、二極化が進んでいると言っても世界はどんどん豊かになっているのである。つまりボトムも十分上がっている。世界中の「普通」のレベルは今後も上がり続けるであろう。資本主義が煽るのは「もっと上へ」という夢であり、足元はすでに十分満たされている。

もし大金があったとしても、ある程度地方に行ってしまえばむしろお金を使えるところがない。外車を乗り回すのも小っ恥ずかしい。せいぜい家を買うくらいだ。大金があってもなくても、まあまあ一般的な所得があればそこから上は大した変化がないということだ。この状態を山口周さんは「高原社会が到来した」と表現していた。もうこれ以上人類は「成長という山」を登り続ける必要はなく、今は誰もが「自己実現と向き合える高原」にいる豊かな時代なのだ。これ以上存在しない成長の山を登るのではなく、その高原を楽しむことを始めてはどうか。

しかし、滑稽な話であるが豊かになってがんばる必要性が薄れた今、資本主義に煽られることに慣れてきた我々にはやりたいことが見つけられないのである。(このことはまた別の機会に書きたいテーマである)

テレワークのグローバル化

さて話を戻そう。
私のグループではテレワークで成り立つインターネットの仕事が多い。それであれば余計に東京で住む必要はない。ここで強調したいのは「もう時代は変わってしまっている」のだ。

地方だからと言って情報が取れないわけではない。むしろ、LCCが充実して航空券は安くなっているため、東京に来るくらいなら他の国に行ってもコスト的に大差がない。実際、今バンコクにふらっと来てこの文章を書いているが、片道1.5万円だった。あまりにも安かったため予定もないがふらっと来てみた、というところだ。実際、私の経営塾には兵庫のど田舎に住みながら世界中の企業と取引をして売上の100%が外貨というスーパーフリーランスがいる。彼女は東京在住者以上に世界中の情報を日々取得できている。

バンコクのホステルに来て確認したことがある。それは、この場所には欧米のフリーランスが結構いることである。今私もノートPCでこの文章を書いている外国人の一人であるが、同じような外国人が何人もいる。みな何か目的があってバンコクに来ているという雰囲気ではなく、ふらっといる印象だ。もう世界中ではとっくの昔からこのような現象が始まっており、進んでいる。恥ずかしながらベテランノマドワーカーである私もここまでグローバル化が進んでいたことには気が付かなかった。

この記事はバンコクのユースホステルより投稿している

さて、ここまで論じてきたことを一旦まとめると以下の通りである。

・一般人が東京で住むことに限界が来て、出稼ぎの場所になった
・世界は既に豊かであり、地方は資本主義の煽りが少ない
・国を超えてテレワークが当たり前の時代になった

東京都の付き合い方

さて、ここまで述べてきた結論としての私の主張はこうだ。

「オンラインでできる仕事をしている人は脱東京をし、軽やかに東京やその他の国にアクセスして生きた方が幸福度が高まる」

実際、知人で何の縁も理由もないがただ気に入ったという理由で福岡に引っ越した人を何人も知っている。いずれもテレワークで成り立つ仕事をしている20代後半〜30代の男性である。起業家もいればサラリーマンもいる。彼らが都会の仕事を捨てて移住したかと言えばそうではない。スタートアップで働いていたり、オンラインで事業を行っていたり、東京で飲食店を営んでいたりする。福岡は空港が街から近いため、東京が案外近いのである。

私は関西に住んでいながら東京で仕事をしているが、ドアtoドアで4時間で移動ができる。移動のうち2時間半は新幹線なので、充電しながら作業も捗るのだ。東京で人と会うと「わざわざ関西からありがとうございます!」とありがたがられるが、実は千葉や埼玉から1時間半かけて満員電車で通っている人と比べても、ストレスはあまり変わらないと思っている。

私が思うに都会はたまに行って刺激を得るのがちょうどいい。確かに東京は情報は多いし刺激もある。私は経営者会を主催しているが、地方の経営者も1-2ヶ月に1回は東京に来た方が良いと普段から伝えている。

たまにの東京だからこそきっちりと堪能すればよい。いつもより高くてもお金も使って資本主義を楽しめばいい。いざ東京に住んでしまえば、意外と出歩かないものだ。たまにだからこそきっちり楽しもう・何かを得ようという意識が働く。たまにだからこそ効率が高まるのだ。

地方には人との繋がりがある

地方に行くメリットはもう一つある。それは「人間関係の構築のしやすさ」だ。都会と比べて地域コミュニティが強く、知り合い同士がどこかで繋がっている確率が高い。都会では関係が切れたところで他の候補者が無限にいる点が異なる。人間関係はしがらみに聞こえるかもしれないが、繋がりがあると不義理を働きづらくなるため、人々が真面目に生きるためのインセンティブになる。

人とのつながりは人生の幸福度に直結する重要なテーマである。リアルな人間関係を簡単に作れる人もいれば、なかなか作れない人もいるであろう。私は後者でなかなか新しく人間関係を作るのが苦手である。そういう人は、いっそのこと仕事をキッカケにしてしまうのも手だ。ひとまずきっかけは強制的に作ることができる。仕事を通じて話す機会があるためお互いのことを知るチャンスも継続的に発生する。

例えば、起業家であれば何とかして地元企業と取引をしてみる。もしくはフリーランスとして地元企業で働くのもいいかもしれない。もっと言えばバイトでも良いのだ。また、仕事があれば交流は簡単になる。情報交換という名目で人と会いやすくなるし、経営者の交流会や飲み会など、ビジネスを名目に集まれる場所はたくさんある。話題のテーマも明確なので逆に会話も弾みやすいのだ。仕事は手っ取り早く地元のつながりを作る方法であり、会社はコミュニティそのものでもある。

逆にフルリモートワークで部屋にこもりっきりになることはオススメしない。人間は動物であり、人とのつながりが断絶され感情的に滅入ってくる。まだ人間はそこまでデジタル化できていないのである。だからこそ、リアルな人間関係を作りやすい環境が大切なのだ。

ここ3ヶ月で出会えた静岡の仲間たち

資本主義をアンラーニングせよ

ここからは話を別の角度に変えて、この時代の変化を生きるために何を心がけるべきかを述べる。

これは自分自身も実験中であるが、今までの資本主義の感覚をアンラーニングするべき時が来ている気がする。資本主義とは簡単に言えば「人間の欲望をエンジンにした、もっともっと!と成長する指針」である。今に満足していては成長が止まり、富(資本)が増えないので資本家が困るのである。しかし、労働者は資本を分け与えられていないため実は困らないのだ。ピケティの言うところのr>gの話であり、資本主義とはつまり「rの人たちの利権を作る構造」である。

私はここで経済学者として述べているわけではないので、この構造そのものを否定する気はない。一個人としては、構造は変えられないモノとして受け入れて、うまく活用しつつも流されないようにするのが大事だ。資本投資は個人でも法人でも行っておくべきことであり、未来のために長期分散複利の力を使おう。それがr側に入るコツであり、格差社会の上層に食い込む方法になる。

ただ、この時に罠が発生するのに注意が必要だ。経済が暗黙の前提としているのが、「経済成長を目指す」という点である。逆に言えば、成長しなければダメなのだ。この考え方は、私たち個人に対してもきっちりインストールされている。つまり、我々個人としても「成長して当たり前だ」という感覚がどこか潜在的にあるのだ。

貯金は増えて当たり前、収入は上がって当たり前、生活水準は上がって当たり前と、どこかで思っていないだろうか?ドライに考えると、生産性が高まらない限り収入は上がらない。貯金だって増えて当たり前なのは戦後の預金金利が5%を上回っていた時代の話であろう。

なぜ増えるかと言えば国の経済が成長しているからであり、経済成長が止まれば投資商品の利回りも止まる。今や貯金が100万円以下、さらにはゼロの世帯がどれだけいることか。貧困であってもiPhoneは欲しい、ブランド物は欲しい、美味しいものを食べたい。この欲望を刺激して消費を促すことで経済成長してきたわけであり、いち個人としてこの世界の前提にある呪縛から逃げ切ることは難しい。

ただし、これを弱める方法がある。いや、正確に言えばこれが極端に強い場所から逃げることで弱まるのだ。つまりは、脱都会主義である。

脱都会主義とは

脱都会主義とは何か。つまり都会主義をアンラーニングすることである。それは、テクノロジーやインフラが発達した現代からこそできる最新の考え方であると言える。従来からある「田舎への憧れ」を実現する考えではない。

従来の都会の暮らしを実現する土壌が地方都市で確立されており、その範囲が広がっているのだ。つまり「何もないど田舎に住む」のではなく「何でもある地方都市に住む」のである。言い換えるならば、従来の「都心」が今の「地方都市」であり、今の都心は「超都心」とでも言い換えるとイメージがあるかもしれない。

雇用・人材における利点

また経営者にとっては人材面でもいい影響がある。

東京は人も多いが刺激も多い。最低賃金も日本で一番高く、その金額を払ったところで労働者も報われない。ファーストフードやコンビニのバイトで時給1500円ももらえるのに、それでも外国人しか集まらないのだ。労働者には数えきれないほどの就職先の選択肢があるため転職する引力が常に高いのだ。人口も多すぎて人間関係も簡単にリセットできてしまう。都会ではあらゆることに対して選択肢が多いからこそ、1つ1つの選択が希薄になるのだ。

一方地方はどうだろう?そもそもの傾向として、地方で暮らしている人たちは刺激を求めるタイプは都会と比べると少ない。本当に刺激が欲しければその人は上京していたであろう。雇用面で言えば真面目に働くスタッフが多いのである。ローカルな人間関係も身近にあるため、急な人間関係のリセットもしづらい。結果的に秩序は保たれやすい。しかも賃金水準は東京よりも安い。同じ賃金でも生活水準が違うため豊かである。仕事も都会と比べると少ないためありがたがられる。もしあなたが時給1500円を払うなら、その金額で豊かになれて喜んでくれる相手に払った方がお互い幸せを感じないだろうか?

一点、デメリットとしては東京の人の方がいろんな情報に普段から晒されているためリテラシーは高い。人は見たり経験したりしたモノしか考えられないため、知らない物はイメージしようがないからである。一流のサービスを知らない人に一流のサービスはできない。その点、東京の人材はいろんなサービスや知識を持っている。地方では東京以上に教育の努力が必要になる。しかし、東京と比べると雇用が安定しやすいため、教育もしやすい。そもそも教育とは投資であり、離職すると意味がなくなる。すぐに離職しそうな社員に投資なんてできないわけだ。

ちなみに半分余談であるが、人は投資することで愛着が生まれることをご存知だろうか?古代どころか中世までの人類は、生存率が低かったことを理由に我が子に愛情を持っていなかった可能性を指摘されている。理由は生まれたばかりの子供は生き延びるかわからないためである。だからこそたくさん子供を産んだのだ。そして生き残った子供に対して投資をし始め、そのタイミングで愛情が生まれていたのだ。信じられない話に聞こえるかもしれないが、歴史学者曰く人間は本来そのような動物なのである(詳細は大ファンであるCotenRadioの教育シリーズを聴いてください)。

この話は、現代社会に置き換えても容易にイメージが持てる。すぐに離職する相手に投資なんてできないのだ。だったら教育などせずに、今できることでこき使うしかない。投資ができないから愛情が持てず、希薄な関係性になる。使い捨てるために雇用しているとも言えるが、長期的な関係性が構築できそうにない相手に投資ができないため使い捨てざるを得ないとも捉えられる。

さて、このサイクルは果たして豊かなことであろうか?そのような希薄な会社が成長したとして、その会社は本当に社会に必要なのであろうか?私や私のグループ企業には、人のつながりを大事にした愛情のある社会を作りたいと願っている。

雇用における幸福論

欧米のような業務上の機能的な関係による労働をジョブ型といい、従来の日本型のように長期雇用の中でさまざまな業務と経験をする労働をメンバーシップ型という。簡単にいうとジョブ型は「社員と取引をする」であり、メンバーシップ型は「社員が所属する」ということだ。

ジョブ型では社員と「メリットデメリットの取引を積み重ねるような関係」なので、転職も取引条件に応じてカジュアルに行われていく。日本でも欧米に見習ってジョブ型の導入が騒がれており、それは確かに都会の特徴に合っている。しかし、これまで論じてきた経済的成功ではない幸福論の観点で言えば、そもそもジョブ型の組織よりもメンバーシップ型の組織の方が幸福な会社が作りやすいのではないかと私は考えている。

知人の社労士の大先生も、中小企業でジョブ型を採用すると企業がガタガタになることを次のように指摘していた。

ジョブ型はあくまでも大企業が取り入れるべき人事の考え方であり、中小企業では取引や業務が明確に切り分けられるほど事業ができていないため、なんでもやる覚悟のあるメンバーシップ型の正社員がいないと組織が骨抜きになってしまう。

私も中小企業向けの経営コンサルタントとして同様のことを思う。フリーランスのような人員が集まったところで、足元の業務をこなすチームにはなっても、長期的にビジョンを実現する組織にはなり得ない。また幸福論の観点でも、メンバーシップ型はきっちり長期的な人間関係性を作る前提と覚悟があり、給料や業務などの取引内容だけではない人間的なコミュニティを作ろうと言う経営者のスタンスでもある。古臭い考えに聞こえるかもしれないが、そちらの方が人間の豊かさがあるのではないかと思う。

つまり、私の主張としては、雇用のしやすさや人間関係の豊かな会社づくりという観点でも、地方の方が実現しやすい土壌があるはずだ。

「高める」のではなく「戻す」

都会主義のアンラーニングに話を戻すと、個人としては「感性を戻す」必要がある。「感性を高める」はこれまでの都会主義の成長意欲からくる言葉である。ここで指摘しているのは、本来持っている感覚に戻すことだ。例えば、生活水準を戻す、慎ましい幸せを思い出す、自然に回帰する、新しい何かよりも今ある何かを大事にする、というな感覚である。「新たな成長」ではなく「本来を思い出す」のである。

子供は金銭感覚がまだ未発達であるため純粋に自分の興味や愛着心で物やコトに対しての価値を見出している。大人からみたら価値のない泥団子でも子供にとってはかけがえのない宝物になる。その感覚を大人になった今、思い出すことは大変難しいことである。

これまでの人生の中で、「もっともっと!」と登って来た成長の坂道から一旦降りることはとても勇気がいることである。しかし、それは原始時代に戻るわけでも、自給自足の村社会に入るわけでもなく、ただ単に人間的な自分の感性を見つめ直して、高原社会を生きていくことを決めることにある。そのヒントは先進国や最新テクノロジーではなく、自然や後進国にこそ我々現代人が忘れてしまったヒントがある。

都会の生活が長くて本来の人間らしさを思い出せなくなってしまった都会人には、ぜひ実際に見て体験して学ぶ視察をお勧めする。東京の最先端のサービスよりも、地方の豊かな社会の見学の方が感情に来るインパクトがあるはずだ。

まとめ

最後に、この記事のまとめをおこなう。

・資本主義の中核にある都会思考をアンラーニングせよ
・地方都市に拠点を置き、東京と海外を同等にとらえよ
・長期的な人間関係を作るという幸福論
・感性を「高める」のではなく「戻す」

新しい時代のヒントは地方都市や自然にこそ眠っている。今一度、価値観をリセットし、自らの仕事を幸福論を哲学すべき時である。

おわりに

この記事は自分のメモ用に書き始めたものでしたが、途中から仲間に伝えるための記事として書き直して仕上げました。現在進行形で静岡に拠点を移そうと旗振りを行っており、その背景にある考えを伝える内容です。

「脱都会思考」というのは、実は何よりも自分に対する言葉です。東京一直線で上京し、起業し、迷うこともなく都会のど真ん中に住んでいました。そんな僕がコロナをきっかけに都会にいる意味を失い、家族や身近な仲間との時間が増え、オンラインコミュニティを発足し、農業や漁業の体験をし、地方への視察・海外視察などを通じて感じてきたことの集大成です。スティーブ・ジョブズの言う「点と点が線に繋がった」という感覚です。

グループ企業の代表はもちろんですが、その会社で働く従業員の方々の幸福までも考えると、僕らのような普通の中小零細企業が東京でみんなの幸福を担保することは難しいと思っています。かといって地方の内需を狙っても経済的に難しい。だからこそ、オンラインを駆使して地方から東京や海外の経済にアクセスする拠点を作りたいと考えています。もちろんオンラインだけでなく定期的には物理的にもアクセスをすればいいですしね。

この記事が僕たちのグループのみならず、都会に違和感を持つ人々や地方で頑張っている方々にとってのヒントになれば幸いです。

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