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人権宣言とフェミニズムー性から読む「近代世界史」④

・革命勃発、人権宣言、オランプ・ドゥ・グージュ

 1789年6月、三部会で国王と特権階級たちが聞く耳を持たないことを知った第三身分の代表者たちは、国民のためを思うのは自分たちだけだと宣言し、宮殿の球戯場で憲法の制定まで団結しようと誓った。7月9日には、彼らは「国民議会Assemblee nationale」として自ら憲法制定に取りかかる。
 7月11日、国王により財務長官のネッケルが罷免される。公正な経済改革を試みて国民議会を支持した彼は、第三身分の民衆から人気を集めていた。人々はネッケル罷免に王と特権階級からの敵意を感じ取り、武装を呼びかける者が現れる。そして7月14日、遂に民衆の一部がバスティーユ牢獄を襲撃して武器を奪った。パリ市長は殺され、牢獄を占拠した人々は新しい市長を誕生させる。彼らが闘いを挑んだバスティーユ牢獄は、旧体制Ancien régimeの意に反する者を閉じ込める支配の象徴であった。ここにおいて、フランス革命が勃発したのである。
 この経緯が農村に伝わると、もとより飢えと不平等への怒りを募らせていた農民たちは貴族や地主を襲撃した。農民たちの反乱は瞬く間に全国に広まり、8月4日、国民議会は人々をおさめえるため領主の特権や農民の税負担を廃止すると宣言した。さらに8月26日、独立戦争に参加したラ・ファイエットら起草の人権宣言Declaration of the Rights of Man and of the Citizenを採択、アメリカ独立宣言と同じく生来の自由・平等、圧制への抵抗権などが記され、身分制からの解放が謳われた。
 
 革命勃発から数か月、冬を前に食物は依然として最もそれを欲している人々に届いてはいなかった。
「このままでは、わが子が飢えて死んでしまう」
「王は何をしているんだ?王妃は?」
「アントワネットや取り巻きの貴族たちは、贅を尽くして国庫をからしているらしい」
「そんな、見栄を張るだけの飾りのために、、、」
「宝石やドレスに使う金でパンを買えば、いったい何度の食事が賄えることだろう?」
 10月5日、飢えた家族のため、しびれを切らした6000人を超える女性たちがパリからヴェルサイユへ20km近くを行進、パンをよこせと怒りを爆発させた。議会で税の廃止を渋る聖職者を罵り、宮殿に押し入いると国王にパリへ食料をもたらすと約束させた。さらに彼女らは国王に領主特権の廃止と人権宣言を認めさせると、王の一家をパリに連れてゆき、国王と議会を衆人環視の下においた。女たちが歴史を動かしたこの行進には、革命の報を聞いてパリに来ていたメリクールも加わったといわれている。

1789.10.5ヴェルサイユ行進

 最初の三部会で議席を持ったのは男性だけであったし、「バスティーユの勝者」として名が上がったのもほとんど男たちだけだった。しかしヴェルサイユ行進を経ると、女性たちは次々と公の場に現れて革命の一翼を担うようになってゆく。 
 1790年1月、メリクールは「法律の友」を設立、民事・軍事の観点から両性の平等を要求する。3月には「両性の愛国者協会」が創設され、女性も討議に加わって自ら意見を表明した。つづく7月、コンドルセが『女性の市民権について』を書いて参政権を女性にも与えるよう主張する。彼は女性が理性も正義感も欠いてるとみなすことを批判し、男女の不平等を生むのは本性などではなく、教育や社会的な扱いによるものだと説いた[6]。翌年3月、オランダ出身のエッタ・パルム・デルデールEtta Palm d'Aeldersは新たに女性だけの愛国者協会を設立、グージュやメリクールも参加して女性の義務教育と政治的権利の必要を訴えた。以前までのサロンも活性化し、女性たちは言論を通じて政治への情熱を高めていった。

 行動の成果は出た。1791年4月に相続の男女平等が認められたのを皮切りに、翌92年の9月には教会権力が排除され、結婚は当事者による契約とされた。さらに夫婦間の平等、相互の合意に基づく離婚が認められた。自ら発言し、裁判に赴き、契約書に合意することが可能となり、女性たちはそれまで許されていなかった自由と権利を次々と手に入れたのである。ただし、選挙に参加し議員となって法律を作る権利、つまり参政権は依然として認められていない。 
 ここで異を唱えたのがグージュであった。独立宣言がそうであったように、人権宣言のいう「人homme」も男性でしかない。91年9月、グージュは『女性の権利宣言』を著して世に問うた。この冊子は王妃マリー=アントワネットへのよびかけではじまり、「人権宣言」を模した17カ条からなる。

一条、
「女性は自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして生存する」
二条、
「自由。所有、安全および圧制に対する抵抗」は女性と男性の自然権である
四条、
女性の権利の侵害は男性の暴虐によるもので「自然と理性の法によって修正されなければならない」
六条、
「すべての女性市民と男性市民」は「法律の形成に参加する権利」をもち、その「徳と才能以外の差別なしに」、すべての「地位および公職に就くことができる」
十条、
「女性は処刑台に上る権利」をもち、同時に「演壇にのぼる権利をもたなければならない」
十一条、
「思想および意見の自由な伝達は、女性の最も貴重な権利の一つである」
十六条、
国民の多数が「憲法の制定に協力しなかった場合は、その憲法は無効である」
十七条、
「財産は、結婚していると否とにかかわらず、両性に属する」

グージュ『女性の権利宣言』

 「女よ、目覚めよ。理性の鐘が世界中で鳴り響いている」。グージュは宣言とともに、離婚の権利、婚外子の認知、失業者・貧しい人々への救援などを国家に呼びかけた。
 

・ジャコバン、共和制、「編み物女たち」

 91年9月には憲法が制定され、立憲君主制が定められるとともに、資産を有する市民に限り選挙権が認められた。10月には立法議会が成立、右翼にラ・ファイエットらの立憲君主派、左翼に共和制を唱えるジャコバン派Jacobinsがいた。ジャコバン派はこの後、資産をもつ市民を代表するジロンド派と、貧しい民衆の側に立つロベスピエールらの山岳派Montagnardsとに別れることとなる。このとき、夫ともにパリにいたマノン(ロラン夫人)はサロンを開いて後のジロンド派議員たちと交流を深めていた。92年にジロンド派が選挙で勝つと夫のロランは内務大臣となり、夫や友人を通じて政治に影響を及ぼしたマノンは「ジロンド派の女王」と呼ばれるようになっていく。

 隣国のプロイセン、オーストラリアは革命を警戒した。両国が1791年にフランスへ威嚇のための宣言を出すと、国内で戦争への緊張が高まる。92年2月末、工場経営者のポーリーヌ・レオンPauline Leonは310人の女性が署名した『女性による国民議会への建白書』を提出、女性の投票権、武装権、国軍に加わる権利を要求した。国を守る女性が男と同じ権利を手に入れるのは当然として、男女平等を要求したのである。
 これを受けて、メリクールは宣言する。

鎖を断ち切ろう。女性が無価値とされる恥ずべき状態から脱出するときがようやく来た。女性は男性の無知と高慢と不正によって、実に長い間、隷属状態にあったのだ

メリクール

彼女らにより女性部隊の創設が求められ、レオンや女優のクレール・ラコンブClaire Lacombeも賛同した。公認の女性部隊が必要とされたのは、不況の中で女性たちが真っ先に失業に追いやられたからでもあった。このように政治活動を通じて積極的に革命へ加わった女性たちは「編み物女たちTricoteuse」と呼ばれ、議会の傍聴やデモ行進によって女性たちの生活と権利を守ろうとした。

 92年4月、革命を警戒していた隣国オーストリアに対しフランスは宣戦布告するが、国内の混乱で軍は劣勢を強いられた。危機が迫る混乱の中、民衆は革命を妨げる王権への不信を高めていた。6月にマノンはロランを通して国王に拒否権を撤回するよう要求、しかしロランは大臣を解任された。8月10日、不満が限界に達したパリの民衆は国王のいるティエルリ―宮殿を攻撃、メリクールは男装してこれに加わったと言われる。王の一家は幽閉され、議会は王権を停止する。憲法を改めるため、資産を問わない普通選挙にて新たな議会を招集することが告げられた。これにより21歳以上の全ての男性が選挙権を手にした一方で、やはり女性の参政権は認められなかった。
 王権が停止されたことにより、立憲君主派の議員は失脚した。残る山岳派とジロンド派は92年9月に共和制の樹立を宣言、国王の処遇を巡って敵対する。つづく12月、レオンは3人の女性、88人の男性とともに国王の処刑に賛成する嘆願書に署名した。一方、国民投票により君主制と共和制を選ばせるよう主張していたグージュは処刑に反対する。コンドルセは共和派であったが、人道に悖るとして王の処刑に異を唱えた。明くる93年、議会の投票により僅差で山岳派が望んだ王の処刑が可決された。1月21日、革命広場でルイ十六世はギロチンにかけられる。38歳であった。

共和国広場のマリアンヌ像

 国王に代わって新たに共和国フランスを象徴するものとして、フリジア帽を頭上に頂き、立ち上がる一人の女性の姿が掲げられた。彼女は「マリアンヌ」と名付けられ、その像は国家の旗印として各地に飾られている。フリジア帽は、貧民であるサンキュロットたちが連帯のシンボルとして被った赤い三角帽子である。マリアンヌは闘いの犠牲となった民たちをたたえ、革命が求めた自由を今日の人々まで伝えている。

<参考文献>

[全体]
木下康彦ほか編『詳説世界史研究』山川出版社 2008
ドブレ,ジャン=ルイ、ボシュネク,ヴァレリー『フランスを目覚めさせた女性たち』西尾治子ほか訳 パド・ウィメンズ・オフィス 2016 pp7-24
[6]辻村みよ子ほか『概説 ジェンダーと人権』信山社 2021


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