髭(早川佳克)

古き良き昭和のSM。元スナイパー編集長。『髭のサロン』主催者。緊縛・SM調教師。

髭(早川佳克)

古き良き昭和のSM。元スナイパー編集長。『髭のサロン』主催者。緊縛・SM調教師。

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記事一覧

2019,5,1

花垣の                   向こうに佳人                居ますらん

2019,4,30

踏まれても                 色鮮やかに                 桜道      

2019,4,16

青空(そら)を刺す             公孫樹(いちょう)の骸           白骨(ほね)のごと

歴史篇4『三崎書房時代』

三崎書房に入って、すぐに「エロチカ」編集部に配属――というのが甘い考えだったいうのは、「淑女篇2 北国のお尻」で書いた。  まずは本の流通を知りなさい、というの…

歴史篇3『大学時代②三人の処女3』

21歳の正月、私は久しぶりに帰省した。年3か月ほど勤めている「タブラオ・ロサ」では相変わらず信任を得て、休みも取りにくい状態だった。大学は、もう安保条約も自動継続…

歴史篇3『大学時代②三人の処女2』

二人目の処女との遭遇は、20歳の春休みのことだった。  その頃には真弓が超進歩的両親の同意を得て、同じアパートの二階に越してきたので、ほとんど同棲状態だった。だが…

歴史篇3『大学時代② 三人の処女1』

 両親とのすったもんだの末、和光大学の入試を受けることになった。選んだ学部は「人間関係学科」だ。梅根学長との話し合いの時、人間をこれまでの学科にとらわれず、複合…

歴史篇3 『大学時代①泡の中で』

大学生活は失意の中からはじまった。と言うのも、私は小学校の時から弁護士志望で、早熟にも5年生から六法全書を買ってきて、勉強や読書のかたわら読んでいた。  しかし…

歴史篇2 『幼少年期』

自分の過去をひるがえっても、私にはなぜこんなにも数奇な運命に弄ばれて、今へと たどり着くことになったのかわからない。  東京から車で2時間ほどの地方都市に、呉服屋…

歴史篇1 『どうして髭と呼ばれるようになったのか?』

それは当然、髭をはやしていたからだった。 私が髭をはやしたのは、29歳の時(1978年)、竹書房で「近代麻雀臨増(後に「近代麻雀オリジナル」と改題して今に至る)の編…

偏執的作家論1 『団鬼六②』

ソープ酒盛り事件を皮切りに、鬼六さんは「困ったちゃん」に変貌していった。 それは、第一次接近遭遇の時には私は25、6歳の若造だったが、この時には31歳で様々な苦難を乗…

偏執的作家論1 『団鬼六①』

鬼六さんに初めて注目したのは、74年、歳月社で「幻想と怪奇」の続行が決まっての編集会議の折、荒俣・鏡両氏が「面白い本が出ているよ」と「SMキング」を取り出したから…

紳士録2 『メナースクール②』

「メナースクール」の小林さんからの返事は、思いがけず早くきた。 そして、内容も思いがけないものだった。プレイ女性の要望で、そういう機会があるのだとしたら、二人の…

紳士録2 『メナースクール①』

スナイパー編集長となった数ヶ月後、私は誌面の片隅に目を止めた。『「メナースク ール」悩める女性の方、連絡してください――電話番号』という三行広告だった。  当時(…

紳士録1 『無毛の人』

その人に初めて会ったのは、「鬼の会」でだった。80年あたり、団鬼六氏は年に1,2回「鬼の会」と称して、編集者や作家、絵描き、または友人を集めて、宴会をしたり、一泊…

淑女録3 『女王たらし②マリア』

和江はマリア女王の指導で着実に女王技術を磨いていった。ROO夢に来るのはマリアの客だから、まずはマリアと客がプレイルームに入り、和江は入口の受付室で待機する。そ…

2019,5,1



花垣の                   向こうに佳人                居ますらん

2019,4,30



踏まれても                 色鮮やかに                 桜道      

2019,4,16



青空(そら)を刺す             公孫樹(いちょう)の骸           白骨(ほね)のごと

歴史篇4『三崎書房時代』

三崎書房に入って、すぐに「エロチカ」編集部に配属――というのが甘い考えだったいうのは、「淑女篇2 北国のお尻」で書いた。
 まずは本の流通を知りなさい、というので営業に配属され、毎日が倉庫の整理や取り次ぎへの納本、時々書店周りという感じで過ぎていく。しばらくすると、このまま営業部で飼い殺しにされるのではないか? そう言えば面接の時、車の運転ができるか、しつこく聞かれたけど編集には車は必要ではないの

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歴史篇3『大学時代②三人の処女3』

21歳の正月、私は久しぶりに帰省した。年3か月ほど勤めている「タブラオ・ロサ」では相変わらず信任を得て、休みも取りにくい状態だった。大学は、もう安保条約も自動継続になっているのに、まだバリストを続けていた。
 もうすぐ22歳になるのに、このままでいいのか自信がなかった。だから丁度開かれた中学の同窓会に出席してみた。だがそこには、私のようにハグレている者はいなかった。みんなそれなりに進路を見出し、歩

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歴史篇3『大学時代②三人の処女2』

二人目の処女との遭遇は、20歳の春休みのことだった。
 その頃には真弓が超進歩的両親の同意を得て、同じアパートの二階に越してきたので、ほとんど同棲状態だった。だが、まだ本当の挿入セックスはおあずけのままで、縛ってのヘビーペッティングをその気になった時に自由に楽しんでいた。
 だから春休みも東京にいたかったのだが、私には慢性盲腸炎の持病があった。時々痛むのを薬で散らしていたのだが、いい機会だから手術

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歴史篇3『大学時代② 三人の処女1』

 両親とのすったもんだの末、和光大学の入試を受けることになった。選んだ学部は「人間関係学科」だ。梅根学長との話し合いの時、人間をこれまでの学科にとらわれず、複合的に研究する新しい学問だ、と聞いてピンときたからだった。
 そのピンときた先には、隣のクラスに真弓(淑女録2 「初愛の人 」参照 )がいた。そして真弓によってSМの門戸が開かれた。もしあの時、というのは不毛な議論だとは思うが、その後も私

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歴史篇3 『大学時代①泡の中で』

大学生活は失意の中からはじまった。と言うのも、私は小学校の時から弁護士志望で、早熟にも5年生から六法全書を買ってきて、勉強や読書のかたわら読んでいた。
 しかし、高校時代にはベトナム反戦の嵐が吹きすさび、私は共産党の下部組織の「民主青年同盟(略して民青)」に入会して活動していた。そのせいで若さからくる自然の流れで反米思想に偏りすぎ、英語の授業に身が入らなくなってしまった。
 結果として、有名私大の

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歴史篇2 『幼少年期』

自分の過去をひるがえっても、私にはなぜこんなにも数奇な運命に弄ばれて、今へと たどり着くことになったのかわからない。
 東京から車で2時間ほどの地方都市に、呉服屋の長男として生まれた私は平凡な人生を歩いていくはずだった。
 小学生の頃は体が弱く、本を読んで過ごすことが多かった。童話、神話、偉人伝、推理小説と片っ端から読み漁ったものだ。おかげで国語、社会は抜きんでていたが、算数とか理科は惨めなものだ

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歴史篇1 『どうして髭と呼ばれるようになったのか?』

それは当然、髭をはやしていたからだった。
私が髭をはやしたのは、29歳の時(1978年)、竹書房で「近代麻雀臨増(後に「近代麻雀オリジナル」と改題して今に至る)の編集長になった時だ。
 当時の私は171センチ・58キロ。白面の美青年(?)と言ったところで、百戦練磨の麻雀プロや漫画家、原作者とわたりあうにはなんとも押し出しに欠けていた。
 そこで髭をはやしてみたしだい。
 その前にも、24歳で編集長

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偏執的作家論1 『団鬼六②』

ソープ酒盛り事件を皮切りに、鬼六さんは「困ったちゃん」に変貌していった。
それは、第一次接近遭遇の時には私は25、6歳の若造だったが、この時には31歳で様々な苦難を乗り越えてきていたから、「こいつには無茶振りしても大丈夫だな」と変な信用を得てしまったのではないだろうか。
 ある時には急に電話があり「明日の2時に来てくれ」と言う。私は2冊の雑誌の編集長だった。隔週で1冊を作っているのだから、大変に忙

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偏執的作家論1 『団鬼六①』

鬼六さんに初めて注目したのは、74年、歳月社で「幻想と怪奇」の続行が決まっての編集会議の折、荒俣・鏡両氏が「面白い本が出ているよ」と「SMキング」を取り出したからだ。
 そこには「団鬼六責任編集」と表紙に仰々しく書かれていた。もちろん「奇譚クラブ」や「SMセレクト」などで、小説には接していたが、「鬼プロ」というプロダクションを立ち上げ、雑誌を出版して編集までするというのは、作家像とは違う驚きと同時

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紳士録2 『メナースクール②』

「メナースクール」の小林さんからの返事は、思いがけず早くきた。
そして、内容も思いがけないものだった。プレイ女性の要望で、そういう機会があるのだとしたら、二人の男性に嬲られたい、というのだ。
どうやら小林さんの薫陶を得て、彼女のマゾ性と妄想はエスカレートしたようだ。
しかしこれは当時の私には難題だった。というのは、SM雑誌の編集をしているからといって、マニアは一人もいないのだ。みん仕事として割り切

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紳士録2 『メナースクール①』

スナイパー編集長となった数ヶ月後、私は誌面の片隅に目を止めた。『「メナースク ール」悩める女性の方、連絡してください――電話番号』という三行広告だった。
 当時(1980年前後)のSM雑誌には広告などというものはほとんどなかった。あってもSM映画とか大人の玩具などのやっと市民権を得たものが少数だけだった。
 前に編集していた「SMファン」でも『SM同好会』(マニアの秘密の集い)『ヤプーの館』(新宿

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紳士録1 『無毛の人』

その人に初めて会ったのは、「鬼の会」でだった。80年あたり、団鬼六氏は年に1,2回「鬼の会」と称して、編集者や作家、絵描き、または友人を集めて、宴会をしたり、一泊旅行に行ったりしていた。
 友達の中には、立川談志や鬼六映画の女優陣、刺青師など幅広い人達がいたので、いつも同じような出版界人としか交わっていない私などは楽しみの一時であり、緊張する一時でもあった。
 ある時などは、急に石和温泉に一泊旅行

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淑女録3 『女王たらし②マリア』

和江はマリア女王の指導で着実に女王技術を磨いていった。ROO夢に来るのはマリアの客だから、まずはマリアと客がプレイルームに入り、和江は入口の受付室で待機する。その内にマリアが客の好奇心を掻きたてたり、説得したりして、和江が補助女王として呼びこまれる。クラブ内にプレイルームを持っているからこそできる新人教育法だ。
そこで言葉嬲りの仕方や縄の縛り方、ムチの振るい方などを見つつ自分も参加して習得していく

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