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あぶりだされた周りの気持ち

コロナウイルスが炙り出しているいろんな賛否の言葉を目にしたり、耳にしたりする中で、自分自身の社会的な立ち位置を考え直した方も多いかもしれません。

子どもたちを取り巻く社会として保育士、児童厚生員等は主に機能することがここに来てやっと、理解されるようになっているのではないでしょうか。しかし、保育士はこのような緊急時の出勤は当たり前、医療従事者に関しても同様に第一線で働く方への配慮に欠けるような物言いも目にします。

また一方ではカルチャーへの軽視を感じる発言、若者または年配の方への偏った見方のような、1つの角度からしか物事を捉えないことを世論にした報道も多くありました。

なぜ、こんなに否定が飛び交うのでしょうか?

教育現場や子育ての多くは一般論を子どもに教えたり、礼儀・常識を土台に置きながら指導することが多いように思います。

しかし、障がい児保育や発達支援を通して「社会」「一般論」「常識」「マナー」などについては疑問を抱くこともありました。

障がいがあるから、障がいがないから
子どもだから、大人だから
そのような分け方で話すこと自体も
何かの常識にとらわれている自分がいるのかも?
と思い、フラットな立ち位置にいたいと色々考えると
私はカテゴリー分けが好きなのか?と思うことがよくありました。

どうしても人を見る目が選択的になってしまうような気がしてアイデンティティについても疑心暗鬼になるようになりました。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」についてニュースを見ても議論の焦点はどこなのか、みんなの言いたいことがなんだかわからなくもない。
でもなんかこうなることには納得できないような…
植松聖被告の事件への考え方、捉え方、問題点も障害者の立場から考えていないようなものが多い…と思ったりしていたところでした。

GEZANマヒト×新井英樹対談。絶望が前提になった時代の生き抜き方

↑ この記事を読んで、自分の抱いていた違和感はこれかもと思えることがありました。


「人って、集団になった時に一人ひとりのオリジナルな答えをないものにするんだなってそこで学んだんですよ。」


とマヒトさん、お話しています。学齢期当時、集団行動から離れてしまったことをきっかけに特別支援クラスへ移ってしまったマヒトさん。

人を批判して、自分を肯定することにも違和感を感じると話す新井さん。
私のマイノリティ、世論へのもやっとした気持ちはこれだったのかもしれません。
自分の思いを話す際に誰かを否定して、述べるのはそこに「排除精神」が浮き彫りになります。


また、価値観を壊す行為をアイデンティティを形成することと見なさない社会についてもお話されています。


自殺の増える学生児童の特集も8月になるとNHKで取り上げられることも増えました。コロナでの不安や失業者が続く場合、自殺者がまた増えるのではとの予想も立てられています。コロナ中の災害も対策はまだ発表されていません。


昨年問題になった学校教員同士のいじめ・セクハラ問題も「先生なのにいじめ」のような報道のされ方にも疑問があります。先生だって人間です。
今まで知らなかっただけでこれまでもあっても不思議ではなかったはずです。
結局「教諭」というカテゴリーのなかで人を見ている自らの愚かさを表した結果が報道に反映されているのではないでしょうか?

会社の中のセクハラ、いじめだったらこんなにニュースが過熱したでしょうか?


マヒトさんと新井英樹さんのこの対談は支援者、教諭、養育者にとってというよりは人として、どう自分と向き合うか考える大きなヒントを与えてくれる内容になっています。

お母さんなのに子どもを愛さないの?

こんな疑問も自分の固定概念にある「お母さん」が、誰かの気持ちを否定するのではないでしょうか。

今後、更なる不安が高まった時に様々な様々な症状で、様々な言葉で不安と言うものを別の形で訴えることが増えていくでしょう。その時に、カテゴライズせずに個人個人を見れる福祉社会があればと思います。

言いたいことが詰まりすぎてまとまらず・・・すみません。

お掃除係の実習を体験した保育士さん、きちんとした指導・教育を受けられずも頑張る支援者さん…など現場に困り感を持っている方へサポートすることで、子どもたちに還元されるものがあるのではと信じています。よろしくお願いします。