金木犀のかなしみ

ショートストーリーです。
この季節はやっぱり金木犀。

***

僕と彼女は道すがら喫茶店に入り、コーヒーを注文した。
「近ごろ金木犀の香りがするようになってきたね」
僕が首をかしげると、彼女は呆れた顔で嘘でしょとつぶやいた。そのあと、小さなオレンジ色の花をたくさんつけて、いい香りを放っている木が金木犀だと教えてくれた。そう言われれば、道を歩いていると強く甘い香りがすることがあるな、と思い出す。昔トイレの芳香剤によくあった香りのような気がするのだが、口にすると怒られそうだったのでやめた。
「好きなの?」
「嫌いじゃないけど…毎年あの香りをかぐと悲しい気持ちになってた」
「金木犀に嫌な思い出でもあるの?」
彼女は目を伏せ首を横にゆるく振った。一瞬物憂げに映ったが、すぐに表情を明るくさせてこちらを見た。
「自分でも不思議なんだけど、今年はなぜか悲しくならないの」
「そうなんだ」
どちらかというと悲しまないのが普通で、理由もなく悲しくなるほうが不思議だ。これもむっとされそうなので声に出さないでおく。

会話が途切れて、ふたりともコーヒーに口をつけた。いまの話をもっと深堀りするべきだっただろうか。ほどよい苦みと酸味を味わいながら、ちらりと盗み見る。彼女はほとんど音を立てずにコーヒーカップを置き、何か言いたげにこちらを見た。
「…なに?」
「金木犀の香りには食欲を抑える効果があるらしいよ」
「はあ」
これだったらトイレの芳香剤の話をしてもよかったかもしれない。
彼女はいたずらっぽい顔になって、僕をちらっと眺め、最近ちょっと太ったんじゃないのと言った。僕は腹に手を当てながら、もう40過ぎたししょうがないよね、と言い訳した。学生時代と比べたら確実に質量が増しているのはわかっている。
「たしかに、あのにおいを嗅いだら食欲が落ちるかもしれないな」
「本当?」
「どうしてもトイレを思い出すんだよね」
言いながら、注意深く彼女を観察する。怒りはしなかったものの、苦い顔をされた。
「どうしてそういうこと言うかなあ?」
「子供の頃、トイレの芳香剤って言えばあのにおいだったから」
彼女はにおいって言い方どうなの…と不満そうにこぼして肘をつき、窓の外を眺めた。つられて外を見る。車や人の往来があるがこれといって見るべきものはない、と思う。彼女は何を見て、何を感じているのだろう。さっぱりわからない。金木犀の香りひとつ取っても、僕と彼女の感じ方は絶望的に違うのだ。
通り過ぎていく車を目で追いながら考えていると彼女が口を開いた。
「このコーヒー、美味しいね」
カップを手にして目を細めている。
「そうだね、バランスがいい」
僕もひとくち飲んだ。
「コーヒーっていい香りするよね」
「そういえば、コーヒーをドリップした後のカスをトイレに置くと消臭剤代わりになるんだってさ」
「…もう、なんなの?いいかげんトイレから離れようよ」
口調は怒っているが、顔は笑っている。僕も笑った。
絶望的に違っていることなんて取るに足らないじゃないか。彼女の悲しみがひとつ消えたというのに、これ以上なにを望むのだ。

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