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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 12

 静まり返った板の間に、清次郎の麗々とした声だけが響き渡る。

「おくまは、金さえ出せば、おりつを実家に戻すのだな」

 おくまは畏まって頷く。

「勝五郎は、金の都合がつけば、おりつを実家に引き取ってもよいのだな」

 勝五郎は「その通りで」と答える。

「おりつ自身は、離縁できるのなら、身体を売ってでも金を作ると言っておる。3人の意見は同じだ」

 残るは甚左衛門だけである。

「おぬしが、おりつへの未練を断って、三行半を書くといえば、それでまとまるのだ。どうだ、書く気はないか」

 一同の視線が、甚左衛門に向けられる。

 彼は、まるで吹雪をやり過ごすように、身を縮めている。

「甚左衛門、三行半を書け! そうすれば、すべてまとまる」

 清次郎は、離縁を強制する。

 少々やりすぎのような気もするが、この際、致し方あるまい。

「甚左衛門、聞いておるか。三行半を書け!」

 鋭い口調に、男は弾かれたように顔をあげる。悔しさからか、太い眉を寄せ、唇を歪めている。その唇が、ゆっくりと開かれる。

「オ、オラは……、書けません」

「なぜだ」

「なぜだって……、オラはおりつのことを想っております」

「それは分かっている。だが、おりつは最早おぬしに想いはない。いや、はじめからなかったのだ。金で繋がった縁など薄いもの。おぬしがどんなに追い求めようとも、鳥かごから逃げ出した小鳥は帰らぬ」

「で、ですが、オラはまだ好いております」

「好いておるだと、ならば訊くぞ、甚左衛門。おりつを好いていると言うおぬしが、何ゆえ、他の女を抱くのだ」

「そ、それは……」

 甚左衛門は口ごもった。

「もう一度訊くぞ、なぜおりつという愛しい女房がおりながら、他の女を抱くのだ。答えろ、甚左衛門!」

 空さえも切り裂き、そこから鮮血が溢れ出るような鋭い一声に、その場にいた全員が身体を震わせた。

 もちろん、惣太郎もびくっと肩が震えた。

 振り返ると、清次郎が物凄い形相で甚左衛門を睨みつけている。鬼さえも逃げ出す、これぞ閻魔睨みに、はじめは戸惑ったが、ああ、これはまたひと芝居打つのだなと惣太郎は内心安堵した。

「甚左衛門、どうした、なぜ答えられん」

「そ、それは……、お、お袋に……」

「そうでごさいます、お役人さま。おりつに子ができないのなら、妾を作って、その娘に子を生ませなさいと言うたのは、あたしでございます。この子が自ら望んだことではありません。そもそも、妾のひとりやふたりぐらい、よろしいじゃありませんか」

「黙れ、おくま、おぬしに聞いておらん。黙っておれ!」

 おくまは、しゅんと首を垂れた。

「甚左衛門、おぬしは母親に言われたら、好きでもない女でも抱けるのか! 愛しいおりつを裏切ることができるのか! おぬしは、母の傀儡(くぐつ)か!」

「い、いえ。あ、あれは……、その……、気の迷いでして、おりつを裏切るなんて、と、とんでもない」

「いや、おぬしは裏切ったのだ。愛する女を裏切ったのだ。おぬしの想いなど、所詮口先に過ぎん!」

「そ、そんなことありません。オラ、天地神明に誓って、おりつを大切に想っております」

「嘘をつけ! 大切に想っておるものか!」

「想っております。間違いございません」

「嘘を申すな!」

 突如、清次郎が立ち上がった。何をするのかと見ていると、甚左衛門に駆け寄り、その胸倉を掴んだ。

 芝居にしては、随分熱が入っているなと、惣太郎は思った。だが、これだけ気を入れないと、相手に見抜かれてしまうからな。

 現に甚左衛門は、清次郎の迫力に押されて、大きな身体をぶるぶると震わせている。

 事情を知らぬ者たちは、唖然としている。

「う、嘘はついてません。オラは、本当におりつを好いてるのでございます」

「好いているだと……、では、なぜ、他の女と寝た! なぜ、おりつが母親に子ができぬと責められているときに、優しい言葉をかけてやらん! なぜ、母親にいびられているときに、助けてやらん!」

「そ、それは……」

「貴様には分からんか、石女(うまずめ)と蔑まれる女の気持ちが! 貴様には分からんか、子ができぬと責められる女の気持ちが! 貴様には分からんか、自分が悪いと責め続ける女の気持ちが! 分からぬなら、教えてやる! これがそうだ!」

 清次郎は、右の拳を振りあげ、一気に振り下ろす。ぼかりと鈍い音がしたかと思うと、「うっ!」と甚左衛門の鋭い声が飛んだ。

 惣太郎は、一瞬何が起きたのか分からなかった。

 これも芝居だろうか。

 清次郎は、さらにもう一度拳を振りあげ、甚左衛門の頬に食らわせる。大石を地面に叩きつけるような音とともに、床板に赤い斑点が散らばる。

 甚左衛門の鼻から、血が滴り落ちている。

 こ、これは芝居か? それにしては、やり過ぎのような気がするが……。

「どうだ、痛いか!」、清次郎はさらに拳を振るう、「痛いだろう。だがな、おりつの心は、もっと痛かったのだぞ! 分かるか! 分かるか!」

 みるみるうちに、甚左衛門の顔が腫れあがっていく。

 これはもう芝居ではない。

 ―― 本気だ!

 惣太郎は慌てて立ち上がり、清次郎を止めに入った。

「中村さま、落ち着いて! 落ち着いて!」

 勝五郎たちも止めに入る。

 母親のおくまは、「人殺し! 人殺し! 誰か助けて!」と、泣き叫びながら外に飛び出していった。

 騒ぎを聞きつけ、新兵衛や嘉平が入ってきた。遅れて、宋左衛門もやってきた。

 男たちで、清次郎と甚左衛門をようやく引き離し、何とか騒ぎはおさまった。

 取敢えず、本日のところは一旦お開きとなった。

 甚左衛門は、勝五郎たちに抱きかかえられながら、宿へと下っていった。可哀想に、もはや、誰が見ても甚左衛門とは分からないほど、顔が変形していた。

 おくまは、対応に当たった新兵衛に、散々悪態をついて帰っていった。

 事を起こした清次郎は、

「真実(まこと)に、真実(まこと)に申しわけござりません」

 と、宋左衛門に平伏した。

「いつも冷静な中村殿にしては、珍しいことでござりますな」

「はっ、返す言葉もございません。如何様な処罰も受ける覚悟でございます」

 処罰は後で下されることになったが、取敢えずのところは、清次郎はこの一件から下り、代わりに宋左衛門が惣太郎の面倒を見ることになった。

 清次郎は、処罰が下るまで、自ら謹慎を望み、部屋に閉じこもった。

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