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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 後編 7

 7月も末頃になると、油蝉が最後とばかりに鳴き立てて、それでなくとも暑いのに、耳からも余計に暑くなってしまう。

 しかし、今日は、あまりの暑さに油蝉も元気がないようだ。

 そんな暑さの中、奴婢たちは夫々の長屋に集められ、寺法頭の下氷雑物からのありがたい言葉を聞くこととなった。

 蝉だって参っているのに、この暑さの中で、この狭い長屋に閉じ込められたら生きた心地はしなくなる。

 誰もが、額の汗を拭いながら話を聞いていた。

 拭いた矢先に額に汗が滲み出る。

「という訳やから、最近、飛鳥の民が常世神とか言うて、財産を投げ出し、仕事もせずにそれらを拝んでおるようやが、そんなことをしても何もええことがないんで、皆真面目に働くようにとのことや」

 雑物の言葉を伝えたのは、新しく奴(ぬひの)長(おさ)になった大成(おおなり)の長男の眞成(まなり)であった。

 廣成の兄、即ち、弟成の伯父にあたる。

「その常世神てのは、どんな神様なんや?」

 奴の一人が訊いた。

「常世神ちゅうのはな、虫らしいんやが、拝めば、財産とか長寿とか何でも望みのままらしいや」

「そらまた都合のええ神様やの」

「ほんまやの」

 奴婢たちは、汗を拭き拭き話している。

 弟成は、長屋の暑さとそれによって湧き立つ奴婢たちの体臭に半分参っていた。

「兎も角、財産とか仕事とか、おっ放り出さんと真面目に仕事をするように」

 眞成は、大真面目な顔をして皆に告げた。

「そんな、おっ放り出すほどの財産を持っておる訳なかろうが」

「そうや、そうや、ワシらに、そんなもん拝んじょる暇はない」

「ほんまや、寺法頭こそ、富と暇が余とるのにの」

 奴婢たちは口々に言い合った。

「兎も角、真面目に仕事をせいと言うことや。はい、解散! 皆、仕事に戻れ!」

 最後は、眞成も大きな声になって、奴婢たちを長屋から追い出した。

 しかし、奴婢たちも負けじと

「そんなんで、いちいち長屋に呼ぶなよな」

 とか、

「寺法頭は、ワシらのことを信用しとらんのじゃないか」

 と、大きな声で騒ぎ立てて出て行った。

 弟成も、彼らに推されながらも、一目散に表に出って、新鮮な空気を吸い込んだ。

 生暖かい空気が咽喉を駆け込んでゆく。

 が、奴婢長屋の籠もった空気より良かった。

 彼はその場で、2、3回温かい空気を飲み込んだ。

 ある程度、心持が落ち着くと、今度は無性に咽喉が渇いてきた。

 水が飲みたい。

 本能的に水場に歩き出していた。

「おい、弟成、どこに行くんや?」

 黒万呂が叫んだ。

「水飲んでくる」

「そやったら、先に田んぼに降りとくぞ」

 黒万呂はそう言って、田んぼの方に歩いて行った。

 弟成は、水場に歩いて行く。

「あっ、弟成、水場に行くんやたら、ついでに水も汲んで来て」

 その声は、長屋から顔を出した黒女であった。

 弟成は、早く水を飲みたかたのだが、母親の命令には逆らえない。

 両手に壺を持つと、今度こそ水場へと歩き出した。

 —— 暑い

 —— 暑い

 へばりそうだ。

 こんなに暑いのに、蝉は高らかに鳴いている。

 さっきまではあんなに弱々しかったのに、弟成の顔を見るなり、けたたましく鳴きだした。

 彼は、恨めしい顔を蝉に向けた。

 蝉は涼しい顔で鳴いている。

 彼は、足を引きずるようにして歩いた。

 —— 一歩

 —— 一歩

 その度に、汗が地面に染み込んでゆく。

 弟成が目指していたのは、湧き水の出る木陰に囲まれた水場であった。

 その水は、美味い。

 何より頭が痛くなるほど冷たかった。

 彼は、その水を飲み、頭が痛くなるところを思い描いて歩いた。

 —— もう少しだ

 —— もう少しだ

 あのなんともいえない快感が味わえるのだ。

 彼は、茂みの中を入って行った。

 ここまで来ると水場の影響か、それとも木陰の影響か、地面がひんやりとして気持ちいい。

 空気も澄んでいるようだ。

 彼は、さらに奥に入って行った。

 弟成は、地面の感触を楽しみながら歩いて行った。

 蝉の声も、いまではなぜか心地よい。

 時折吹き抜ける風が、木々を揺らしていった。

 その葉ずれの音の中に、話し声が混じっていた。

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