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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 後編 3

 翌日、弟成と黒万呂は仕事を抜け出し、三輪(みわの)文屋(ふみやの)君(きみ)の屋敷があった東門を覗き込んだ。

 あの子がいる場所はここしかないと弟成は思っていた。

 そこには、あの子と出会った文屋の屋敷は残っておらず、黒焦げの棒切れが至る所に散乱しているだけであった。

 未だ焦臭い。

 弟成は改めて実感していた。

 あの夜のことは本当だったのだと。

「あっ、昨日の子や! ほら、あそこ!」

 黒万呂が指差す先に、あの子がしゃがんでいた。

 やはり、あの子だったんだ!

 弟成は、彼女に駆け寄った。

「おい、阿呆、まずいって! ここ、お屋敷やど!」

 黒万呂は、弟成を慌てて追いかけた。

 上宮王家が生きていれば、彼らが入れるような場所ではなかった。

 しかし、弟成にそんなことは関係なかった —— あの子に逢いたい一心だった。

 弟成たちの気配に気が付いたのか、弟成が近づいた時には、彼女は立ち上がっていた。

 その足下には、数十本の花が横たわっていた。

 その花は、いま取ってきたばかりのような瑞々しいものから、既に茎まで乾涸びているものまで様々であった。

 その様子から、誰かが毎日手向けているようだ。

「なにしてんの?」

 黒万呂が彼女に訊いた。

 弟成は、足下からゆっくりと彼女を見た。

 確かに、目はあの子にそっくりだったが、眉毛は凛々しく、随分大人びて見える。それに、肌も浅黒い。

 背丈も黒万呂ぐらいだろうか。

「お花を手向けてたねん。ここで、うちの知り合いが死んだから」

「きみは、三輪様の婢なん?」

 黒万呂の問いに、少女は頭を振った。

「うちは中宮の婢や。ただ、ここで知っていた奴がなくなったから」

 屋敷の中で、奴婢が死ぬことはありえない —— 弟成と黒万呂の知っている人物を除いて。

「その奴て、三成兄さんじゃないか」

 黒万呂の言葉に、少女は驚いたようだった。

「そうや、なんで?」

「なんでって、こいつ、三成兄さんの弟なんや」

 黒万呂は、弟成を指差した。

 少女は、大きな目をさらに大きくさせた。

「ほんま? どおりで、昨日、松の下で見かけた時に驚いたもん。三成兄さんが生き返ったと思って。でも、三成兄さんより子供っぽいかな」

 当たり前だ。

 十歳近く離れているのだから。

「兄ちゃんとは、どういう?」

 弟成は、初めて口を開いた。

 それまで、お屋敷の子に似ていると思っていたのが、今度は、兄と何らかの関係があるというのだから、本当に、人生と不思議なものである。

「三成兄さんはね、山背様のお供で、よく中宮に来たから。それで何度か顔を合わせてん。三成兄さん、ほんま優しくて、おまけに格好良くて、憧れの人やったからな。そう、うちの初恋の人やったわ。そやけど、三成兄さんはそげんなこと全然気付いてくれへんかったけどな。当たり前よね、年だって、めっちゃ離れてるし」

 彼女の目は、そこに三成がいるかのようであった。

「もしかして、兄ちゃんが亡くなってから、ずっとお参りしてたん?」

 弟成は、花の数を見て言った。

「ずっとていう訳とちゃうんねんけどな、時間ができたらな」

「そう、ありがとう……」

 弟成は、自分が情けなかった。

 兄の死を悲しんでいるのは自分だけだとずっと感じていた。

 それは、自分が兄の殺される場面を目の当たりにしたのだし、その強烈な印象から逃れられないからである。

 しかし、彼は気付いた。

 兄の死を悼んでいるのは、自分だけではなかったことを。

 そして、悲しんでいる人が、兄とは血縁関係のない、全くの赤の他人であったことを。

 その赤の他人が、兄に花を手向けていてくれたことを。

 弟成は、あの事件以来、斑鳩には近づかなかった。

 必然、兄に花を手向けることも、手を合わせることもしなかった。

 彼は逃げていたのだ。

 兄の死を受け止めるという恐怖から。

 それが、一番楽な方法だったのだ。

 が、この少女は逃げなかった。

 兄の死を受け止め、そして兄をいまでも慕い続けていた。

 それに比べて自分は………………

 弟成の胸に、情けなさが込み上げ、泣きたい気持ちになった。

 彼はぐっと堪えた —— 兄との約束だ。

 それだけが、いまの弟成の支えであった。

「俺は椿井の黒万呂、こいつは弟成、よろしくな」

 黒万呂は、しょぼくれている弟成を無視して少女に名を告げた。

「あたしは八重女(やえめ) —— 中宮の婢の八重女、よろしくね」

 そして、二人の少年と一人の少女は出会った。

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