【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 24(了)
「田来津様、大船より櫂入れの合図です」
深草の声に、田来津は我に返った。
「ヨシ! 櫂入れ!」
「櫂、入れ!」
深草は、田来津の言葉を復唱する。
船縁に並んだ男たちは、「櫂入れ!」と復唱しながら、櫂を水に浸した。
周囲の船も、櫂を入れ始めた。
長津の湾は、170艘近い船で溢れていた。
中央には、一際目立つ豊璋王子の乗船する御座舟が鎮座している。
その周囲を、田来津と狭井檳榔の船が護衛する。
後方には、さらに大きな船が陣取っていた ―― 大将軍(おおきいくさのきみ)安曇比羅夫の指揮する大船である。
百済援軍は、出陣にあたり、中大兄によって再編成された。
後将軍から阿倍引田比羅夫が外され、安曇比羅夫が大将軍として全般の指揮に当たることになったのである。
「前軍、前へ!」
比羅夫は号令を下した。
一人の兵士が舳で旗を振る。
それを合図に、沖合の数10隻が一斉に前に漕ぎ出した。
「田来津様、いよいよですな」
「ああ………………」
再び、大船の舳で旗が振られた。
「護衛軍の出陣合図です」
「前へ!」
男たちは、体をゆっくりと後ろへ倒してゆく。
櫂は、男たちの引く力と海水の抵抗で音を立てって撓る。
船は、船尾に静かに航跡を描いてゆく。
田来津の髪が潮風に流れる。
彼は後ろを振り返る。
後軍の船も動き出した。
長津の湾から、軍旗をはためかせた軍船が、ゆっくりと出航していく。
田来津は、まだ後ろを振り返ったままだ。
彼は、領巾を振る女たちを見ていた。
そこに、まるで安孫子郎女がいるかのように。
―― 中大兄の称制元(662)年5月、大将軍安曇比羅夫は、170艘の軍船を率いて、大海原に漕ぎ出した。
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