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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 7

 田来津は屋敷に戻った。

 屋敷と言っても、飛鳥に立ち並ぶ皇族や豪族の屋敷に比べれば、兎小屋も同然だが、親子3人で暮らすには十分である。

「安孫子、いま帰ったよ」

 夫の帰宅を彼女は玄関に出迎えた。

「お帰りなさいませ」

「私の可愛い小倉は何処だ?」

「小倉、いらっしゃい、お父様のお帰りよ」

 彼女は、奥に手招きする。

 すると、戸の後ろから四つん這いの小倉が顔を出した。

 そして田来津の顔を見るなり、彼の方へと這い這いをして近寄って行った。

「おお、這い這いができるようになったのか!」

「ええ、今日のお昼に」

 田来津の喜びようは、この上ない。

 彼は、ゆっくりと、それでも確実に前へと進む我が子に両腕を差し出した。

「そら、おいで、小倉、お父さんの下まで」

 小倉は、ゆっくりと右手を出す、そして右足を僅かに前に引き摺り出す。次は、左手。そして、今度は左足を静かに引き出す。

 田来津も安孫子郎女も、我が子の成長振りを見守っている。

 そこにいるのは豪族ではない、普通の父親と母親であった。

 小倉は、畳一畳分ほどの長さを、数分掛けて渡り切り、父の胸の中に飛び込んだ。

「よしよし、良い子だ、小倉。もう這い這いができるなんて。お前は賢い子だよ。これは将来大物になるな」

「馬鹿仰って。その位の年頃なら、誰でも這い這いぐらいしますわ」

 と言う安孫子郎女も、自分の息子は天才に違いないと思っているのであるが。

「いやいや、小倉ほどの子はおるまい。将来が楽しみだ」

「とんだ親馬鹿ですね」

「親馬鹿結構! のう、小倉」

 小倉は、2人にとって初めての子である。

 それも、夫婦になって15年目にしてようやく授かった子宝である。
目に入れても痛くないのが道理であった。

「田来津様、あっ、これは安孫子様」

 田来津造の従者たる高尾深草が屋敷に入って来た。

 深草は、父の代から屋敷を切り盛りしていた忠臣だ。

 彼は、安孫子郎女に頭を下げた。

「なんだ、深草」

 田来津は、頭を下げる深草に訊いた。

「はい、ただいま飛鳥から狭井(さい)様がお見えです」

「狭井殿が?」

 飛鳥と聞いて、安孫子郎女は不安に襲われた ―― 嫌な客でなければよいが………………

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