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沖縄戦の図

「日本軍は、日本人の味方ではなかった。」

当時25歳の私にとって、その言葉は衝撃だった。

人生2度目の佐喜眞美術館。

「丸木位里・丸木俊《沖縄戦の図》全14部 展」を観に行きました。

全14部の原画が公開されるのは、2年ぶりだそうです。

映画「丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図 全14部」を見てから、佐喜眞美術館へ行く。映画では、作品が描かれていく過程や、作品ごとのテーマやエピソードが紹介されていた。

映画を観たのは、沖縄慰霊の日(6月23日)のすぐあと。佐喜眞美術館で「沖縄戦の図」の展覧会が始まっていたから、映画を観てから行こうと思っていた。だけど、映画鑑賞後も、行こうと思いながらも、どこか気が重くて行けずにいた。

沖縄戦の図を観て、なにを感じるか。

それが、ちょっとだけ怖くて、先延ばしにしていた。

やっと行けて、ほっとした。

〈沖縄戦の図〉

〈沖縄戦の図〉を観るのは、今回が初めてではない。沖縄に初めて来た時に、鑑賞している。私の記憶にあるのは、佐喜眞美術館の最後の部屋に飾ってある大きな〈沖縄戦の図〉。その絵の前に座り、館長さんのお話を聴いた事を覚えている。

「日本軍は、日本人の味方ではなかった。」

この言葉が、私には衝撃的だった。

当時の私は、恥ずかしながら沖縄戦の事を知らなかった。沖縄の基地問題の事も知らなかった。何も知らず、ただただ連れてこられただけの平和ボケした日本人だった。初めての沖縄は、平和活動の為に来た。それさえも、ただついてきただけで、何をするかも知らなかった。本当に何も考えていなかった。呆れるくらいに無関心だった。無関心というよりも、本当に何もしらないからこそ、なにも気づけず、知る意欲もなかったのだと思う。

平和活動は、嘉手納基地を取り囲む「人間の鎖」という活動だった。その意味もよく分からないまま、嘉手納基地に行き、人間の鎖の活動に参加した。残念ながら、私が参加した日は、人間の鎖がつながらなかったと聞いた。いま思えば、あんなに大きな嘉手納基地を人間の鎖で取り囲めていた時期もあったという事だ。当時、すでに平和活動は衰退していたということだ。無知な私には、分からなかったことだけど。

人間の鎖の平和活動以外にも、平和の礎や平和祈念資料館、ひめゆりの塔、旧海軍司令部豪、辺野古の海上でデモ活動をしている方を訪ねるなど、密度の濃い平和学習をさせてもらった。その中に、佐喜眞美術館も含まれていた。それが、私と〈沖縄戦の図〉の出会いだ。

沖縄の地上戦について知り、現在も続く基地問題を目の当たりにして、私のなかの沖縄は、海の綺麗なリゾート地ではなくなった。

沖縄から茨城に戻った私は、楽しい沖縄の土産話を聴くつもりの友達や家族に、沖縄戦の被害や、現在の基地問題について話し続けた。何も知らなかった私ができる事は、同じように何も知らない友達や家族に、沖縄の現状を伝えることだと、勝手に使命感を感じていた。使命感というようも、何も知らなかったことへの罪悪感からの行動でもあったと思う。知った事を、伝えずにはいられなかった。

民間人も巻き込まれた日本で唯一地上戦が行われた沖縄、鉄の暴風、集団自決、戦後のアメリカ統治、1972年に沖縄が日本に返還された後も続く基地負担。ずっとずっと沖縄は負担を負っているのに、それを知らなかった私。本当に恥ずかしかった。土地(領土)だけでなく、空にも国境(領空)があることや、沖縄では8月15日の終戦記念日だけでなく、6月23日に慰霊の日があることも、初めて沖縄に来た時に知った。

はじめての沖縄が、平和活動でよかった。(もちろん、平和活動が必要のない世の中になれば、それが一番だけど。)

その時から、私の沖縄は、変わった。今、起きていることに興味を持つようになった。もう無関心ではいられなかった。そして、いま、私は沖縄に住んでいる。不思議な縁だ。

私の記憶では、〈沖縄戦の図〉に日本兵が描かれていたように思っていたけれど、映画で映し出された絵には、描かれていなかった。「沖縄戦の図」の作品の中には、日本兵が描かれているものもあるけれど、〈沖縄戦の図〉に描かれているのは、被害にあった沖縄の人々だった。実際に、佐喜眞美術館で〈沖縄戦の図〉を観る。

やっぱり、いない。

館長さんの言葉が、私の記憶に日本兵の恐怖を刷り込んだのかもしれない。

私の記憶と近い恰好をしているのは、集団自決の場で、人の首元に剃刀を当てている少年だ。この子の表情をどう表現すればいいだろう。

沖縄の図[八連作]のなかに〈沖縄戦の図〉が含まれる。

今回の展示会では、その〈沖縄戦の図〉が飾られている部屋に、沖縄戦[読谷三部作]の〈チビチリガマ〉と〈シムクガマ〉が対になって飾られている。

これが、とてもいいと思った。

以前、読谷にあるチビチリガマを訪れたことがある。ガマのなかに入ることは躊躇われたので、チビチリガマの入口で手を合わせた。私にできるのは、本当にそれしかなかった。草木に覆われたチビチリガマ。ここで起きた悲劇。

チビチリガマとシムクガマ。

環境も状況もほぼ似ているなかで、異なる結果を迎えた二つのガマ。

〈沖縄戦の図〉を挟んで、
〈チビチリガマ〉と〈シムクガマ〉が並ぶ。

運命の分かれ道。命の分かれ道。

「集団自決とは 手を下さない虐殺である」

丸木位里さんと俊さんの言葉。

集団自決はあった。そして、それは自由意志での決断などではなく、日本軍による虐殺であった。その事実は、消せない。

映画を観て、知った事がある。丸木位里さんと俊さんは「原爆の図」15部を描いた方達だった。お二人は、原爆が落とされた後の広島を実際に目撃していたこと。南京大虐殺やアウシュビッツの虐殺や水俣の図を描いていたことを。

戦争を描く。

亡くなった方の想いを描く。

生き抜いた方の記憶を描く。

お二人のおかげで、恐怖を感じる事ができる。忘れずにいられる。「沖縄戦の図」を鑑賞する事は、戦争による恐怖と理不尽さの疑似体験だ。

それが、戦争の抑止力になって欲しい。

今回、沖縄出身のYさんと一緒に佐喜眞美術館に行った。沖縄戦の図を観る事で、気分が悪くなったりしないか心配だったけれど、むしろYさんは「観に来れて良かった。ひろぽんさんと来なかったら、一生来なかったかもしれない。」と言ってくれて、ほっとした。Yさんのご両親や祖父母の戦争体験の話や、逆にあまり話さないといった話を聞きながら、鑑賞できた事がとてもよかった。壮絶な体験をしたからこそ、思い出す事が辛く、話せない場合も多い。話せずに、生々しい体験を抱えたまま、耐え続けている方も沢山いるはずだ。

何も知らなかった私が言えた事ではないけれど、私が知り合った沖縄の人たちの中で、「沖縄戦の図」は知っていても、佐喜眞美術館に行ったことがある人はとても少ない。というか、いなかった。

「沖縄戦の図」が描くテーマが、戦争体験や自分の歴史と重なる部分が多いからこそ、沖縄の方の足が遠のくということはあるかもしれないなと思う。だからこそ、Yさんの言葉は嬉しかった。一緒に行くことができて良かった。

はじめての佐喜眞美術館は、茨城県民として。
2度目の佐喜眞美術館は、沖縄県民として、沖縄出身のYさんと。

どちらの〈沖縄戦の図〉も、私の記憶に残る体験となった。

屋上の階段(6段と23段)

佐喜眞美術館の屋上からは、目の前の普天間基地が見える。本当に目の前だ。佐喜眞美術館が建っている場所自体、元々は普天間基地だった。佐喜眞美術館を建てる事を理由に、特別に返還された場所だ。もちろん、元々は米軍基地ではなく、館長の佐喜眞さんの土地だ。本当の持ち主の元に戻っただけなんだけど、とても異例のことらしい。

佐喜眞美術館の受付でスタッフさんと話していて、改めて驚いた事がある。

通常、基地のある場所は危険なので、基地の周りには緩衝地帯として砂漠があったりするという話を聞いて、驚いた。普天間基地のすぐそばには、佐喜眞美術館だけでなく、民家がある。普天間基地だけでなく、沖縄に配置されている基地のすぐそばには、沖縄県民の生活の場が、ある。

これは、異常なことなんだ。

当たり前の景色になっていたけれど、違う。

日常に暴力が溶け込んでしまっている。
暴力と危険が、当たり前になってしまっている。

これが沖縄の現状だ。

知らないと、気づけない。
これが、当たり前だと刷り込まれてしまう。
支配されている事を、忘れてしまう。

戦争は、続いている。

それは日本の現状かもしれない。

「丸木位里・丸木俊《沖縄戦の図》全14部 展」は、
2023年5月26日(金)~2024年1月29日(月)まで開催中です。

会期が終了しても、〈沖縄戦の図〉は、常設展示です。

ぜひ、佐喜眞美術館でご覧下さい。

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