見出し画像

『万引き家族』(2018年)映画評

※この文章は2018年6月に書いたものです。

【はじめに 予告のミスリード】

 カンヌでパルム・ドールを受賞し国内の注目度も高い
是枝裕和監督の最新作「万引き家族」。連日予告CMも流れてます。
しかし実際に映画を鑑賞した人の多くは
「え?こういう映画なの?」と思ったかもしれません。
 実は映画を観る前から予告のある部分に引っかかっていました。
それはリリー・フランキーの

「内緒だぞ、俺たちゃ家族だ」

という印象的な台詞です。


一見感動的な場面で使われるキラー・フレーズのようなですが、
なぜか映像と別の場面から音を引っ張って編集でくっつけている。
ということは予告でポジティブに使われているこの台詞は
実は反対の意味で使われているのではないか?と思って映画を鑑賞した結果…やはりそういうことでしたね。崩壊した家族が再生しない物語。

「すごい賞獲った映画らしいから観よう」と
普段は映画館に行かない人が観るとこの点に面食らうかもしれませんが、同時に多くの人が本当に素晴らしい映画だと感じることだと思います。
「クールジャパン」ではない、現実と地続きの日本が描かれているし、タイムリーにあの痛ましい虐待死のニュースがあり、多くの人は観ながら結びつけたことと思います。


 「万引き家族」は補助線のような映画です。日本が抱える様々な社会問題を鑑賞者が「感じる」タイプの作品で、これは去年の「夜空はいつでも最高密度の青空だ」とも似ています。

登場人物が直接言及はしなくとも画面の至るところに示される補助線がどこに向かっているのか、今回はそれを考察したいと思います。(以下ネタバレ有り)


【① タイトルが持つ二重の意味】


 まずタイトルの「万引き家族」には2重の意味があります。文字通りに万引きで生計を立てている家族だということと、「他人の家族を盗む」ことで構成された擬似家族だということです。この物語の家族は6人とも血の繋がりのない他人で、治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)は不妊の夫婦です。2人はネグレクト・虐待されている祥太(城桧吏)とリン(佐々木みゆ)をさらって自分たちの子どもにしました。

また初枝(樹木希林)は前夫が不倫して別に家族を作ったことを恨み、その復讐として孫の亜紀(松岡茉優)を拉致します。亜紀もハッキリとは示されないものの妹「さやか」へのコンプレックスから初枝と手を組んで家出します。

 そんな彼らをつないでいるのは金です。金のために家族を偽装し時には協力して万引きをしてその日をしのぐ。金を前提にした契約で成りたつ共同体なのです。だけど完全に割り切った関係でもない。だからこそ葛藤があり悲劇が起こっていきます。


【② 物事は一面的には捉えられない】


 タイトルのダブルミーニングが象徴しているように物事は一面的には捉えられません。「万引き家族」は特にその点が強調されます。例えば登場人物の多くが2つの名前を持っているのです。本名以外に別の名前を持つ理由はキャラクターそれぞれですが、偽名を使うことは「あがき」を意味しています。別の自分になることで、自分を守ったりトラウマを乗り越えようともがくのです。


 特に一面的には捉えられないのは登場人物たちの内面です。物語が始まってすぐに登場人物に抱く印象を「実はこんな事情がありました」「実はこんな秘密を抱えてました」という情報を出すことで、次々にひっくり返していきます。「この人実はいい人?」と思ったら「あ、でもここはやっぱり人としでどうなのかな?」ってなったりして観客を揺さぶり続ける。「スリー・ビルボード」にも通じる巧みな脚本テクニックです。

 例えば祥太と亜紀は「自分たちが選ばれた理由」にすがりたい。それまで不要とされていた自分を必要としてくれたのが治であり初枝だからです。血の繋がりはないけど、この家族関係には打算や計算がないのだと思いたい2人をしかし大人は裏切っていく。真相は2転3転していき、結局のところ何が真実なのかは分からない。「信頼のいい加減さ」は是枝監督作品に通底した価値観といえます。

【③ スイミーの引用が意味するものとは】

 本作で引用される絵本の『スイミー』は説明不要な名作です。小さな赤い魚たちを食べる大きな魚(マグロ)を倒すため、黒色の魚スイミーが「目」となって、魚たちが合体して巨大な魚に化けてマグロを追放するのです。国語の教科書にも載っている、協調性とか多様性の大切さを説くのに適した物語です。

 ところが祥太は治にこうつぶやきます。

「大きな魚が可哀相」

『スイミー』は1匹だけ色が違うという個性のせいで仲間がいなかった魚が、他者と協力することで功績をあげた英雄譚のようにみえますが、実は孤独な存在がもう1匹存在します。悪者にされている大きな魚です。

彼も他の魚よりもデカいという個性のせいで怖がられ孤立しています。そして最終的には追い出されてしまう。マグロの視点に立ってみると、スイミーは赤い魚たちを扇動するいじめっ子のようにさえ思えます。


 祥太がマグロの方に感情移入するのは自分にも友達がいないし、学校に通っていないから接し方も分からない。さらには大きい魚が他の魚を食べてしまうように、自分も人のものを盗んでいるからです。大きい魚が悪者なら自分がやっていることも間違っているのではないかーその罪悪感にさいなまれてついに彼は故意に警察に捕まります。


 『スイミー』の小さな魚が象徴しているのは社会や多数派で、大きな魚は祥太たち柴田家を象徴しています。悪者扱いされている人たちにも事情や都合があるけれど、そうした「不都合な事実」は語られないし無視されて、最終的には排除される。さらには「大きな魚」のような共通の敵がいるからこそ黒いスイミーと赤い魚が協力することができる。『スイミー』の寓話は、この映画、ひいては現実社会にも繋がる1つの補助線です。


【④ 牯嶺街少年殺人事件との共通点】


 「万引き家族」を観たときに、すぐに連想したのがエドワード・ヤン監督の台湾映画「牯嶺街少年殺人事件」。去年25年ぶりに上映&ソフト化されました。236分という尋常じゃない時間をかけ主人公がどんどん堕ちていく拷問のような映画でした。(褒めてます)

 「万引き家族」の祥太が押入れで寝ているところや懐中電灯で暗闇を照らすところは、かなり「牯嶺街」を意識しているはずです。もっとも是枝監督は表面的なマネをしたかったのではなく、もっと本質的な部分にインスパイアされたと思います。


 タイトル通り「牯嶺街」は主人公の少年が少女を殺すまでの話で、なぜ彼がそこまで追い込まれなければならなかったかを淡々と追いかけ続ける内容です。殺人は決して許されることではありませんが、主人公の境遇を見続けると彼を責める気にもなれません。極限まで追い込まれた彼が引き起こした不条理な罪は、それでも彼が全て悪いのでしょうか。
 「万引き家族」もどこで歯車が狂ってしまったのでしょうか。見終わった後にそれを思わずたどりたくなります。犯罪者集団の柴田家が、じゃあなぜ犯罪に手を染めなければならなかったのか。それは貧困だから?ではなぜ彼らは貧困なのでしょうか?


 貧困の原因は就業難にあります。信代はパート歴が長くスキルもあるのに時給が周りより高く、そのせいでリストラされます。なんでそんなところでしか働けないかというと前科があるから。ここで犯罪者の更生とか社会復帰の問題も見えてきます。


 また治は日雇いで建設をしています。何の建物かは分りませんが、前述した「夜空はいつでも最高密度の青空だ」や橋口亮輔監督の「恋人たち」という映画でも描かれている東京の建設バブルはオリンピックがあるからです。華やかでキラキラした祭典の舞台裏は、人件費の安い労働力を酷使して搾取している…これも補助線です。


【⑤ 後半は三度目の殺人のやり直し】

 「万引き家族」は家族の話ということで「誰も知らない」や「そして父になる」との関連を指摘する人もいますが、僕が最も結びついていると感じた過去作は「三度目の殺人」です。「三度目の殺人」は法律が実はあやふやでいい加減なもので、全てに完全に納得がいく判断は出来ないのではないかという疑問を呈するサスペンスでした。実は「万引き家族」も後半は「法律」の部分をもっと大きな規範や秩序に置き換えると、ほとんど「三度目の殺人」のやり直しと言っていいと思います。


 「万引き家族」の構成は非常にシンプル。家族が完成してから崩壊するまでを2部に区切ります。前半は自然主義的に彼らの日常がつづられていく。非常に不安定で繊細なバランスの中で生きる6人の倫理的には許されない行為が、でもだからこそ人間的で美しいものとして優しいタッチで語られる。クライマックスは海の波打際で家族が横一線に並び、手を繋いでジャンプするカットです。この瞬間彼らはまさしく「血縁のない赤の他人」から「家族のようなもの」へ跳躍したように見えます。と同時にすぐに手を離して倒れこんでしまうことで、それが長くは続かないものだということも暗示されます。

 そして後半は不安定なバランスをとっていた根幹の人物が退場することによって、運命の歯車が一気に動き出す。後半は一転して劇映画的なタッチになります。カメラの構図は恣意的になります。池脇千鶴&高良健吾が治や信代に尋問をするのがずーっと続く。尋問される治たちは画面の中央にワンショットで収まります。カメラは固定で微動だにしません。。池脇千鶴や高良健吾の質問の声は聞こえるけど彼らは画面には映らない。ずっとリリー・フランキーや安藤サクラの顔面だけが収まっています。

 この質問者の顔をあえて映さない会話の撮り方・編集こそ「三度目の殺人」の時に多用した演出です。しかし「三度目の殺人」の尋問シーンと決定的に違うのは、画面の構図です。「三度目の殺人」では弁護士の福山雅治と容疑者の役所広司が向き合っているのを真横のアングルで撮影し、画面の左右に2人が向き合っています。


画面中央の磨りガラスが2人の顔を反射し、それが次第に互いの顔に重なります。これは2人がある嘘の共犯関係になることを観客に示すためです。


「三度目の殺人」より 顔が画面上に重なることで
2人の間で共犯関係が結ばれたことをビジュアルで示している

 しかし今回の「万引き家族」では

共犯関係になるのは観客

なのです。だから彼らはスクリーンの向こうの私たちを見つめる。池脇千鶴&高良健吾の質問は、鏡のように私たちにも投げかけられているのです。

「あなたたちは彼らをどう思いますか?」

その答えは皆さんに委ねられています。

【⑥ 終わりに:結末も自分たちで考えろ】


 今回のパルム・ドールをあまり狙っていたわけではないと語っていた是枝監督ですが、細野晴臣の音楽の使い方や唐突なセックス描写など、

今までになく海外ウケを意識してるやん!

と個人的には思いました笑。特にラスト。観客それぞれがその先を予想する余地をかなり残したオープンな閉じ方は、物語をご都合主義にしないことありきで設定されているようで、1周回って逆に作者の都合を感じたのは僕だけでしょうか笑?(つまりそういうエンディングの方がカンヌでは評価されると意識したんじないかという意味です)

 この映画で僕が一番感動したのは、祥太とリンがビー玉を懐中電灯で照らし祥太はその中に宇宙をみてリンは海をみた所です。過酷な現実の中で2人はちっぽけなガラスに無限の宇宙と広大な海を創りました。

あるいは2人はまだ宇宙や海のような無限の可能性が残された存在で、祥太は本当の親を探すことも出来るし、あるいは治と再び家族になることも出来るし、その道を選ばなくてもいいわけです。そしてリンはそのビー玉を見つめ、ふと家の外を眺めます。おそらくリンがビー玉を通じて見たのはあの日みんなで訪れた海だったのかもしれません。冒頭で書いたように虐待死のニュースを見た直後の公開ということもあり、リンが無事に育ってくれることや祥太がリンと再会することを祈りたい。これは僕の願望ですが、そう思って映画館を出ました。


 樹木希林の生と死のはざまにいる老女の説得力ある演技の凄さとか、嫌な役も抜群に上手い池脇千鶴とか書き足りないのですが、今作はやっぱり子役の佐々木みゆちゃんが本当に素晴らしかった。特に前半パートで彼女が急激にけどごく自然に成長していく姿を追いかけていくところは、もうそれだけで映画的高揚に溢れていました。

世界を見つめることの大切さ、それは何も社会問題に関心を持つとか小難しいことだけではありません。日々の生活や目にするもの耳にするものに感覚を研ぎ澄ませること、その大切さや素晴らしさを噛み締める意義を「万引き家族」という映画から学んだような気がしました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?