この国は,明治時代から変わっていない……?

年末年始最後の読書はこれ。
(正確には他にも読んだけど,ブログで他の方々にぜひともお伝えしたいなと思った5冊目がこれ,という意味です)

まず感想を言いましょう。日本史はそんなに嫌いというわけではなかったけれど,初めて本気で「日本史って面白い!」と思わされたかもしれない。

それくらい衝撃な本でした。

内容は,明治時代の政府の富国強兵策が,国民の暮らしぶりや意識に与えた影響をわかりやすく論じた本です。

ただ,著者の松沢先生が同書全体を通じて論じられていることの一つで印象的だったのが,「通俗道徳のわな」。

江戸時代に日本に市場経済が浸透しだしてから,日本人は自己責任論に対する意識が強まってきた。その結果,世の中みんなが,金持ちも貧乏人も,「がんばって成果を出した(富を築いた)奴がえらい。富を築けなかった奴は努力してないだけ」と思うようになった。これが通俗道徳。

江戸時代は村請制と言って,村全体で藩主に年貢を納める連帯責任があったから,仕方なく村民間である程度の「助け合い」がなされていた。けれど,明治政府設立後,村請制が廃止されて納税が家単位になってしまった。

おまけに,明治政府はカネがない。カネがあれば産業勃興と軍備増強にまわしたい。議会制度が作られるも,有権者は高所得者のみなので,政治家のほうにも弱者を救済するインセンティブがはたらかない。

なので,この通俗道徳に拍車がかかったということだそうです。明治時代に起こった諸々の暴動の根底には,この通俗道徳にとらわれた貧困層の不満の爆発というのがあるのではないかと。

松沢先生も書かれているけれど,これ,今の日本でもありがちな話なんですよね。

どっか国体の不安定な国に行った人が人質に取られると,必ず自己責任論が浮上する。

芸能人の親族が生活保護を受けてると,なんだお前金持ちのクセに,税金使うとは何事だ,自分で何とかせいというバッシングが出る。(覚えてる皆さんもいらっしゃると思うこのニュースです↓)

今もみんな不安を抱えて生きているけれども,それでも明治時代よりはマシな社会にはなっている。その一方で,やはり上記のように100年以上経っても変わらないこともある。というのが,松沢先生の結論です。

がんばらないよりはがんばったほうが,金持ちになれる可能性はある。
でも,がんばったからといって金持ちになれるとは限らない。
逆にがんばらなくても金持ちになることだってある。
これも不確実性のなせる業でしょう。
誰だって,世のすべてを知っているわけではない。こうすれば成功する,こうすれば失敗するというのがわからないから,努力と成果が比例しない。

だからこの不確実性ゆえの不幸については,国が最低限度フォローする。それが日本国憲法25条の思想なのでしょう。けど,この不確実性の存在,けっこう日本では見過ごされてるんじゃないでしょうか。割とみんな,不確実性とか排除して,白黒はっきりさせたモデルで世の中を語るほうが好きなんでしょうか。どうしてなんでしょう。

企業で人の業績を評価するときでも,実際には会計数字だけでは評価するのではなく,その人の努力度合いなどを上司が主観的に評価し,両方の評価を総合するというやり方がふつうです。理由はいくつかありますけど,その一つは,会計数字だけだと当人の努力以外の要因によって評価が左右されるからです。それでは従業員のモチベーションが下がってしまうというわけです。評価される側になったら,みんなそんな風に会社に不確実性のフォローを求めるのに,第三者になったら不確実性も自己責任の範疇に入れるようになる。どうしてなんでしょうね。

なお,この通俗道徳は日本特有の現象ではないそうです。イギリスでも資本主義の発展段階において,こういう思想が人々の間に浸透していた時期があったそうです。

松沢先生はじめ歴史学者の先生方には,ぜひともこのように政策や出来事を当時の庶民の通念や常識との関連で論じるような書籍をもっともっと出版していただきたいです。歴史ってこんなに面白いものかと,本当にわくわくさせていただきました。ありがとうございました。

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